第02話 見つけた場所
「ゆうと、早く!」
土手の斜面の途中で、少女が大きく手を振っていた。その先では、もう一人の少年が膝まである草をかき分けている。
あの夏祭りよりずっと前。僕はまだ、小学三年生だった。
「こっち、道あるぞ!」
「なおき、勝手に先行かないで!」
「見つけたの俺だからな!」
「私が教えたんでしょ!」
「ひなたは見つけただけだろ!」
僕は二人の声を聞きながら、毎日通る土手の斜面を見下ろした。いつもならそのまま家へ帰るだけの場所で、ひなたは一本だけ草の倒れた筋を見つけ、自分の足元を指差した。
「ゆうと、こっち。ここだけ色が違うでしょ」
そう言って、さっきまで何もないように見えた斜面をさらに下りていった。
「道じゃないと思う」
「歩けるなら道だよ」
「それ、ひなたが今作ってるだけじゃん」
「細かいなあ。早く来てよ」
ひなたは僕の返事を待たず、直樹を追って草の奥へ消え、その向こうで二つの黄色い帽子だけが跳ねていた。
僕もランドセルの肩紐を締めて斜面へ足をかけると、最初の一歩で靴の下の土が崩れた。
「うわっ」
慌てて近くの草を掴む。茎が指の間で滑り、土の粒が靴の中へ入った。
下からひなたが笑う。
「ゆうと、遅い!」
「ここ滑るよ」
「私は滑ってないもん」
「さっき手ついてただろ」
直樹に言われ、ひなたがすぐ振り返った。
「あれは草を触っただけ!」
二人が言い合っている間に、僕は少し右へ移った。そこだけ地面から太い根がいくつも出ている。
根を踏んで斜面を下りると、ひなたも黙って僕の後ろへ回った。
「滑ってないんじゃなかったの?」
「ゆうとが前にいる方が早いから」
「それ、今考えたでしょ」
「早く行くよ」
背中を押され、僕は直樹の後を追った。
草の筋は土手の下で少し広がり、川と並んで奥へ続いていた。背の高い草に両側を挟まれ、いつもの道を歩く大人たちの頭だけが、ときどき上を通り過ぎていく。
すぐそばなのに、誰にも見つからない場所を歩いているみたいだった。
「どこまで続いてるかな」
ひなたは前を向いたまま、垂れてきた草を腕で押しのける。そのたび、葉に残っていた水滴が帽子や袖へ散った。
「家まで続いてたら近道だな」
「方向が違うよ」
「途中で曲がるかもしれないだろ」
「川があるから曲がれないって」
直樹が何か言い返そうとしたところで、急に足を止めた。
行く手を、細い用水路が横切っている。水は浅かったが、水路は僕たちの膝より深かった。その上に、泥のついた木の板が一枚だけ架かっていた。
「渡れるじゃん」
直樹が板へ片足を載せる。端が浮き、反対側がコンクリートへ当たって音を立てた。
「待って。動いてる」
「これくらい平気だって」
「じゃあ、先行ってみて」
ひなたに言われ、直樹は一度載せた足を戻した。
「今やろうとしてたし」
僕は板の横へしゃがんだ。手で押すと、土に埋もれていた端が少し持ち上がる。
近くにあった平たい石を隙間へ押し込み、もう一度踏んだ。今度はほとんど動かなかった。
「これなら行けそう」
「最初から行けたけどな」
直樹は僕の横を抜け、さっさと板へ乗った。両腕を広げて向こう岸まで渡りきると、勝ち誇った顔で振り返る。
「余裕!」
「最後、ちょっと落ちそうだったよ」
「落ちてねえから!」
ひなたも板へ足を載せた。真ん中まで来たところで風が吹き、帽子を押さえようと手を上げた拍子に身体がぐらつく。
「ひなた、前見て」
「見てる!」
言った直後、黄色い帽子が頭から浮いた。
「あっ!」
帽子は用水路の上を越え、向こう側の草へ落ちる。ひなたが板を駆け抜けるより早く、もう一度風に持ち上げられた。
「待って、私の!」
「帽子は待たないだろ!」
直樹が笑いながら追いかける。
僕も板を渡ると、帽子は二人の頭を飛び越えて道のない草むらへ転がり込み、ひなたがためらわず飛び込んだあとを直樹も追った。
「そっち、見えなくなるよ!」
「今見えてる!」
「ひなたじゃなくて帽子!」
返事の代わりに、草の向こうから「痛っ」と声がした。
僕は二人が入った場所より少し先へ回った。風は土手から川へ向かって吹いている。草の穂が同じ方向へ倒れる先を追うと、黄色いものが一度だけ跳ねた。
「右! そっちじゃない!」
草の中で直樹の頭が向きを変え、ひなたも引き返す。三人で黄色を追って背の高い草を抜けると、帽子は何かに当たって止まり、その先に古い小屋が現れた。
板張りの壁は黒く変色し、屋根の端は少し傾いている。錆びた扉の前まで草が伸び、ひなたの帽子はその低い屋根に引っかかっていた。
「……こんなのあった?」
直樹が小屋を見上げる。
「知らない」
「私も」
ひなたは帽子を取るより先に、扉の隙間へ顔を近づけた。
「中、暗い」
「勝手に入ったら怒られるよ」
「誰かいるなら、帽子取ってくださいって言えばいいじゃん」
「いなかったら?」
「棒を探す」
もう入ることは決まっているらしい。
直樹が取っ手を掴み、力いっぱい引いた。金属が土を擦っただけで、扉は少しも開かない。
「なおき、全然動いてない」
「今からだって!」
ひなたまで取っ手に手を重ねる。二人で引くと、小屋全体がぎしりと鳴った。
「ゆうとも引いて!」
僕も二人の手の下から取っ手を掴んだ。
「せーの!」
三人で身体を後ろへ倒すと、扉の角が土を削りながら少しずつ動き、最後はガコンッと大きな音を立てて一気に開いた。
「うわっ!」
直樹とひなたが揃って尻もちをつき、僕も二人の横へ手をついた。三人で一瞬黙り、最初に笑ったのはひなただった。
「なおき、すごい顔」
「ひなたもだろ!」
「僕まで巻き込まれたんだけど」
立ち上がって服の土を払うと、開いた扉の奥から冷たい空気が流れてきた。中は外から見たより広い。
歩くたび床の埃が薄く舞い、壁際には空の棚と木箱、二つ重なった錆びたバケツがあり、天井の隅には蜘蛛の巣が垂れている。
「ここ使ってる人、いなさそう」
ひなたが小声で言った。
「いたら、こんな埃だらけにしないだろ」
直樹はもう奥の壁に立てかけてあった竹の棒を持ち上げている。
「これで帽子取れるぞ」
三人で棒を外へ運ぶと、先が入口につかえた。
「そっち下げて!」
「下げたら地面に当たる!」
「ひなた、上げすぎ!」
何度か入口につかえながら、三人でどうにか竹を引きずり出した。
直樹が棒で屋根を叩き、帽子がさらに奥へずれる。
「なおき、下手! 貸して!」
「今のは屋根が動いたんだよ!」
「屋根は動いてない!」
ひなたが棒を奪い、僕と直樹も横から支える。三人で先を帽子の奥へ回して持ち上げると、帽子が屋根を滑り、ひなたの足元へ落ちた。
「取れた!」
拾った帽子を、すぐ頭にかぶった。
その向こうで、草が一斉に大きく揺れ、頬に冷たいものが当たる。
「雨?」
直樹が空を見上げた途端、大粒の雨が屋根を叩き始めた。
竹を入口の脇へ放り出し、三人で小屋へ飛び込む。扉を閉めると、外は細い隙間からしか見えなくなり、雨音が急に近くなった。
「間に合った」
ひなたは濡れた帽子を外し、何度も振った。飛んだ水が直樹の頬へ当たる。
「こっち飛ばすなよ!」
「雨なんだから同じでしょ」
「中は雨降ってねえだろ!」
天井の隅から、一滴だけ水が落ちた。
カン。
重なったバケツの底が鳴る。
ひなたが直樹を見る。
「降ってるね」
「一滴だけだろ!」
僕たちは木箱の前へ並んで座った。
扉の向こうでは草が雨に叩かれ、土手の上を通る人の姿も消えている。さっきまで風に飛ばされた帽子を追いかけていたのに、今は屋根の下で三人とも雨をしのげている。
ひなたは帽子を膝に載せ、小屋の中をゆっくり見回した。
「ねえ、ここ、秘密基地にしようよ」
「勝手に使っていいの?」
「今日から私たちの場所にするの」
直樹がすぐ立ち上がり、木箱の上へ片足を載せた。
「じゃあ、俺が隊長な」
「なんでなおきが決めるの?」
「最初に入ったから」
「最初に入ったの、三人一緒じゃん」
「僕は最後だったよ」
「ゆうと、そこは一緒って言うところ!」
怒られた。
ひなたはランドセルから今日配られたプリントを出し、何も書かれていない裏側を広げた。
「名前書こう。誰の場所か分かるように」
「先生に出すやつじゃないの?」
「明日もう一枚もらう」
「怒られると思う」
「じゃあ、ゆうとが綺麗に書けば大丈夫」
たぶん、綺麗に書いても駄目だと思う。
それでも渡された鉛筆を受け取り、紙の真ん中へ三人の名前を書いた。
宮原悠人。
小宮ひなた。
藤井直樹。
直樹が自分の名前だけを指でなぞる。
「俺の、もっと大きくてよくない?」
「三人の基地なのに?」
ひなたに言われ、直樹は引っ込めた指で紙の端を押さえた。
僕は三つの名前を囲むように丸を描いた。途中で直樹の手を避けたせいで、右側だけ大きく膨らんだ。
「へんな丸」
「ひなたが急かすからだよ」
「でも、全部入ってる」
ひなたは歪んだ丸を見て満足そうに笑い、僕は紙を空いていた棚の真ん中へ立てかけた。
雨が弱まるまで三人で小屋の中を見て回り、棚はランドセル置き場、木箱は椅子代わりと決めた。竹の棒はそのまま入口の脇に置き、次に何を持ってくるか言い合っているうちに、屋根を叩く音も少しずつ遠のいていく。
外へ出ると、草の先から雨粒が落ち、雲の切れ間から傾いた光が差している。僕たちは来た道を戻り、石で固定した用水路の板を一人ずつ渡った。
土手まで上がったところで振り返ると、さっきまで何もないと思っていた草の向こうに、小屋の屋根が少しだけ見えた。
袖を引かれる。
ひなたは濡れた帽子を片手で押さえ、僕のすぐ隣で笑っていた。
「ゆうと、明日も来ようね」




