第1話 あの日、世界が崩壊した
「それ、ひとくち」
返事をする前に、彼女は僕の手からかき氷を奪った。
山盛りだった青い部分を、遠慮なくすくって口へ運ぶ。
「それ、一口って量じゃないだろ」
「細かっ。そういうとこだよ」
「何がだよ」
「モテないとこ」
「人のかき氷奪うやつに言われたくない」
「一口しか食べてないし――冷たっ!」
彼女は眉間を押さえてうずくまった。
笑った僕を涙目で睨み、指を差す。
「……今、笑ったでしょ」
「笑ってない」
「絶対笑った!」
「その青い舌で怒られてもな」
「えっ、待って。青い!?」
慌てて口元を隠したあと、彼女は僕の顔を見て吹き出した。
「ちょ、悠人もじゃん!」
川沿いの道には屋台が並び、肩が触れそうな人波がゆっくり流れている。呼び込みの声に祭囃子、油のはぜる音。風が吹くたび、焼きそばのソースと綿あめの甘い匂いが入れ替わった。
隣を歩く彼女は、深い青の浴衣を着ている。いつもは下ろしている髪も今日はまとめられ、袖に散った白い花が提灯の下で浮かび上がっていた。
何度見ても落ち着かない。残ったかき氷へ視線を逃がすと、甘いところだけ綺麗になくなっていた。
「次、どこ行く?」
僕は人の少ない右手の路地を指した。
「あっちから回ろうか。神社の裏に出られそうだし」
彼女は一度、僕の指した先へ目をやった。
「こっち行こ」
彼女は僕の袖をつまみ、反対側へ歩き出した。
「そっち? 遠回りじゃない?」
「今日はいっぱい歩く日だから」
「そんな日だったのか」
「今決めた」
振り返って笑う彼女に引かれ、そのまま屋台の列をもう一度歩く。
途中で大きな花火が上がった。
腹まで響く音に彼女の声が消える。彼女は顔を寄せ、僕の耳元で何か叫んだ。
「聞こえない!」
「だから、月!」
指差した先には、花火の煙に半分隠れた丸い月があった。
「花火じゃなくて?」
「花火はみんな見てるでしょ。月は私くらいしか見てないかもしれない」
「月に失礼だな」
「じゃあ悠人も見てよ。二人なら寂しく――」
ドンッ!
「うわっ!」
腹まで響く音に、彼女が肩をすくめた。
「……今のは近かった」
「月どころじゃないじゃん」
「今のは花火が悪い!」
人混みを抜け、川へ下りる階段の手すりに並んでもたれた。水面で、提灯の赤と月の白が細長く揺れている。
彼女が飲みかけのラムネを差し出す。受け取ると、瓶の中でビー玉が鳴った。
「……ねえ、悠人」
「ん?」
「来年も、来ようね」
「気が早くない?」
「今から予約。どうせ彼女いないでしょ? 来年の今日、空けといて」
「一年先なんて分かんないだろ」
「そこは『絶対行く』って言うところでしょ!」
「じゃあ、行けたら行く」
「うわっ、一番信用できないやつ」
笑っていた彼女が、川へ目を戻した。
「ねえ」
「ん?」
「私たちって、このままでいいのかな」
彼女は視線を落とし、足元を見つめた。
言いたいことはあった。
でも――。
「……今のままで、いいんじゃないかな」
少し間を置いて、彼女は顔を上げた。
「……そっか」
それから、少しだけ笑った。
カラン。
手の中のラムネが鳴った。
「……ん?」
カタ、カタ……。
手すりが、かすかに震えている。
足の裏に、小さな揺れが伝わってきた。
「地震?」
階段脇の柵が、カタカタと震えた。
屋台の吊り看板がぶつかり始める。
カン、カン、カン――。
揺れが止まらない。
ゴゴゴゴゴ……。
足元のずっと奥から、低い音がせり上がってきた。
「階段、上がろう」
彼女の腕を掴んだ瞬間、地面が跳ねた。
「っ!」
身体が横へ飛ばされ、手すりに肩を打ちつける。
ガシャン!
落ちたラムネの瓶が砕けた。
悲鳴が一斉に上がる。
「きゃああっ!」
「危ない!」
「走るな!」
立てない。
屋台の鉄板が滑り落ち、人波が崩れる。提灯を吊った柱が傾き、その上で電線が大きく弾けた。
バヂッ――!!
青白い光が夜道を照らす。
川の向こうで、建物の明かりが端から消えていった。
一瞬、真っ暗になる。
直後。
ドンッ!!
街の一角が白く光った。
遅れて腹の底まで揺さぶる衝撃が届き、屋根の向こうへ土煙が噴き上がる。
「悠人!」
彼女が僕の腕を掴んだ。
「こっち! 危ないから!」
彼女が僕の腕を引き、もう片方の手を僕の頭へ伸ばした。
「そっちこそ、頭下げて!」
肩を抱き、彼女の頭を庇うように胸元へ引き寄せる。
「悠人、大丈夫!?」
「大丈夫! 離れるなよ!」
ゴォォォォォォォ――!!
轟音が、全部の音を塗り潰した。
「悠人!!」
……眩しい。
光がどんどん強くなる。それに合わせるように轟音も大きくなり、彼女の顔も夜空も、少しずつ白く霞んでいった。
ああ……。
全部、終わるんだな。
なんとなく、そう思った。
彼女は泣いていた。それでも、僕に笑ってみせた。
「大丈夫だよ、――」
その先は、聞こえなかった。
そして、僕の世界は終わった。




