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TRACE ORIGIN:あの日、世界が崩壊した  作者: 高瀬 理人
第三章 このままで
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第21話 このままで

駅前の商店街を抜け、川へ向かう間も、結衣は手を離さなかった。


祭りへ向かう人波が信号を渡るたびに膨らみ、浴衣の袖や色のついた団扇が僕たちの間へ割り込んでくる。そのたびに結衣の指へ力が入り、僕も握り返した。隣を見なくても、はぐれていないことが分かる。


川沿いの神社へ近づくと、祭囃子が大きくなり、提灯の下に屋台が続き始めた。焼きそばのソース、炭火で焼ける肉、甘い果物の匂いが風の向きで入れ替わり、結衣はそのたびに別の方へ顔を向ける。


境内へ入ると、参拝の列は賽銭箱から鳥居の近くまで伸びていた。結衣は最後尾へ並ぶ前に立ち止まり、僕を見る。


「ここ、並ぶ? 待ちそうだけど、悠人は先にお参りしたいよね」


「うん。まだ時間あるし、先にお参りしよう」


「うん。花火の場所は、あとで混み方を見て決めればいいね」


列が進む間にも、太鼓の音や屋台の呼び声が途切れずに届く。すぐ後ろの子供が何度も僕の背中へ団扇をぶつけ、そのたび母親に腕を下げられていた。結衣は笑いを堪えながら背中を確かめ、紙の跡はついていないと教えてくれる。


賽銭を投げ、二人で手を合わせた。


僕が目を開けても、結衣は隣で祈り続けていた。重ねた手へ力が入り、騒がしい境内でそこだけ時間が止まっているように見える。やがてゆっくり息を吐き、結衣は顔を上げた。


「何をお願いしたの? ずいぶん真剣だったね」


「秘密。言ったら叶わなくなるでしょ。悠人のは?」


「じゃあ、僕のも内緒にしとく」


「それ、今考えたでしょ。先に聞いた人が教えるってことにしようよ」


「自分のは秘密のまま? それはずるいよ」


階段を下りて参道へ戻ると、結衣が焼きとうもろこしの匂いに足を止めた。


「りんご飴、もう負けそう?」


「まだ負けてない。でも、いい匂いするんだもん。悠人は? 焼きそばあたり?」


「焼きそば。結衣と違って、先に夕飯食べたい」


結衣は少し考えたあと、僕が歩き出すより先に赤いりんご飴の並ぶ屋台を指した。


「じゃあ、私はりんご飴。焼きそばは悠人のを半分もらえば、両方食べられるね」


「僕の夕飯、もう半分ないんだ」


「四年も一緒にいるんだから、半分くらい分けてよ」


受け取ったりんご飴は、結衣の顔の半分ほどもあった。最初の一口で飴だけが大きく割れ、欠片が浴衣へ落ちかける。鞄から出したティッシュで受け止めると、結衣は口を動かしたまま白い花の模様を覗き込んだ。


「危なかった。赤い花まで増やすところだった。ありがと」


「ほら、焼きそばを先にすれば、慌てなくて済んだのに」


「最初は私が決めていいって言ったでしょ。それに、落ちそうになったら取ってくれるし」


当然のように言って、今度は端を小さくかじる。口元に飴がついているのを指で示すと、結衣は慌てて隠す代わりに、りんご飴を僕へ差し出した。


「はい、悠人も。私だけ口が赤いままなの、なんかやだ」


「僕まで赤くしても、結衣のは消えないよ」


「じゃあ食べない? その分、焼きそば多めにもらうけど」


いつの間にか取引になっていた。


参道の端で焼きそばを買い、二人で容器を挟むようにして食べた。結衣は自分の割り箸を持っているのに、僕が持ち上げた方へ何度も箸を伸ばしてくる。紅生姜だけ綺麗に残すので、最後にまとめて彼女の側へ寄せると、すぐ僕の方へ押し返された。


「ちょっと。四年も一緒にいるのに、嫌いなの知ってて寄せる?」


「四年見てるからね。これくらいしないと、僕の分まで食べるでしょ」


言い返しかけた結衣が、箸を止めた。


「四年かあ。もうそんなに?」


「高校一年の夏からだよ。バイトで会って、もう四年」


「そっか。最初は注文一つで固まってたのに。あの悠人がねえ」


「初日だったんだから、そこは許してよ。結衣こそ、僕を見た途端に立ち上がって。あれ、何だったの?」


結衣の視線が、僕からりんご飴へ移る。


「何って新人さんが来たら、ちゃんと挨拶するでしょ。それだけだよ」


「真帆は軽く頭を下げただけだったけどなあ」


「真帆と比べないで。私が丁寧だったってことでいいでしょ。はい、口開けて。最後のひとくち」


残っていたりんご飴を押しつけられ、硬い飴が歯へ当たった。結衣はその音を聞いて笑い、空になった容器を先に持っていく。四年前、初対面の僕を見てあれほど嬉しそうにした理由は、結局また聞けなかった。


食べ終えて屋台を見て回るうちに、空に残っていた明るさも消えた。建物の屋根の向こうで赤い花火が開く。遅れて腹へ届いた音に歓声が重なり、人の流れが一斉に川の方へ向きを変える。


「どこから見ようか」


結衣は足を止め、行き先を僕へ預けた。予定していた川沿いの広場へ続く道にはすでに長い列ができているが、反対側の屋台通りを抜けても川へ出られる。


「屋台の方から回りたい。遠回りだけど、広場の端に出られるし。まだ見てない店もあるから」


「うん、そっち行こう。じゃあ、はぐれないようにね」


差し出された手を取り、今度は僕から歩き出した。


屋台通りでは花火が上がるたびに人の足が止まり、その背中を避けながら空いた場所を進んだ。結衣は射的の棚にあった星形のライトを見つけると、文化祭のプラネタリウムより明るいと言い出した。


「あれは暗くして見る星だよ。明るさで比べたらかわいそうでしょ」


「でも私、星の順番を間違えたでしょ。これなら勝手に先に出ないから、安心して見てられるもん」


「まだ気にしてたんだ、あの順番」


「悠人だって覚えてるじゃん。人のこと言えないでしょ」


結衣に渡された銃を構えたものの、弾は一度も景品へ当たらなかった。星のライトが棚に残ったままなのを悔しがるより、結衣は僕を撮った写真を見て笑っている。画面には片目を閉じ、狙いとは少し違う方向へ銃口を向けた僕が写っていた。


「これ、真帆に見せていい? 悠人、真剣すぎて」


「だめ。真剣だったんだから、消してよ」


「じゃあ二人で撮ろう。ちゃんと撮れたら、消すか考える」


近くの提灯を背にして、結衣がスマホを持ち上げた。肩が触れるまで寄っても画面の後ろへ何人も入り込み、角度を変えるたび、今度は僕たちの顔が提灯の影へ入る。何度か撮り直した最後の一枚には、開きかけた花火と、笑う直前の僕たちが一緒に写っていた。


「これ、いいよね。二人の写真、残していいでしょ?」


「うん。二人のは残そう。射的の方は消してよ」


「そっちは、まだ考え中」


写真を真帆へ送る結衣の肩越しに、次の花火が白く広がった。


川沿いの広場へ着く頃には、人の隙間を探さなくても空が見えるようになっていた。二人で立ったまま見上げると、大きな光が開くたび、結衣の浴衣に散った白い花が赤や青、金色に染まっていく。


僕が空から目を戻すと、結衣もこちらを見ていた。それが一度ではなかったので、三度目には結衣の方から笑う。


「今、花火見てなかったでしょ」


「結衣だって。こっちばっかり見てたじゃん」


「ちゃんと見えたかなって、確かめてただけだよ」


「僕も、そういうこと」


「ふうん。じゃあ、お互い様ってことで」


最後の花火が夜空を埋める。音が重なって何も聞こえなくなり、結衣は話すのを諦めて僕の袖を掴んだ。金色の光が消えたあと、少し遅れて会場全体へ拍手が広がっていく。


スマホの時刻は、八時半を少し過ぎていた。


人の流れが出口へ集中する前に広場を離れ、河川敷へ下りる階段の途中で足を止めた。水面には対岸の灯りが細長く伸び、花火の煙が薄い雲のように残っている。さっきまでの音が遠くなったところで、結衣は一段下へ腰を下ろした。


僕も隣へ座ると、結衣は撮ったばかりの写真を開く。二人の肩が重なり、背後では白い花火が半分だけ写っていた。


「来年は、もうちょっと上手く撮ろうね」


「来年も射的を外した顔、撮るつもり?」


「そっちじゃないよ、二人の。……来年も、一緒に来るでしょ?」


「うん。また一緒に来よう」


答えると、結衣は写真を見たまま、スマホの縁を親指でなぞった。


「ねえ、悠人」


「何?」


「私たちって、このままでいいのかな」


階段の上を、花火帰りのざわめきが通り過ぎていく。


何を聞かれているのかは分かった。


店の勤務が減っても予定を作り、学校が別になってからも電車へ乗って会いに行った。結衣と会えない日が増えるのは嫌だったし、この先も同じように会いたい。来年だけでなく、その次も隣にいるのが結衣であってほしい。


それを言葉にすればいい。


けれど、今までとは違う名前をつけたあとも、同じように笑える保証はない。結衣の望む答えを分かったつもりになって、もし違っていたら。四年間かけてできたものまで変わってしまったら。


写真の中では、二人とも何も知らずに笑っていた。


「……今のままで、いいんじゃないかな」


結衣の親指が止まる。


「……そっか」


顔を上げた結衣は少しだけ笑った。けれど目が合う前に写真を保存し、スマホを鞄へしまう。立ち上がって浴衣の裾を整えると、僕より一段先に階段を上り始めた。


「そろそろ行こ。九時前に出る予定だったでしょ」


「うん。隣の駅まで歩こう」


階段を上りきると、結衣はまた僕の隣へ戻った。手はつながなかったが、歩く速さは変わらない。


しばらくして、結衣の鞄の中でスマホが鳴った。真帆からの返信には、二人の写真への感想より先に、僕の射的姿を笑う文が並んでいる。


「結衣。送らないでって言ったのに」


「送らないとは言ってないよ。聞いたらだめって言われたけど」


「だめって言ったんだから、ちゃんと聞いてよ」


「来週、真帆にも言ってね。私だけ怒られるの、不公平じゃない?」


「送ったの、結衣一人なんだけど」


「じゃあ、もっと格好いいの撮らせてよ。来週までに。それなら交換で消してあげる」


来週の話をする結衣の声は、いつもの調子へ戻っていた。僕も呆れたふりをして、どこでそんな写真を撮るつもりなのか聞く。結衣はまだ決めていないと言いながら、候補を三つも挙げた。


祭りの出口を抜け、僕たちは川沿いの高架歩道へ入った。車道より一段高い道には照明が等間隔に並び、遠くには隣駅の明かりが見える。花火帰りの人たちも同じ方向へ歩いていたが、会場を離れるにつれて、その列は少しずつ疎らになっていった。


結衣はスマホで時刻と電車を確かめる。


「一本早いのにも間に合いそう。でも先に行かないでね。下駄だと、悠人についていけないかも」


「先に行かないよ。痛くなったら言って。途中で休めばいいんだから」


「少しだけだから大丈夫。私も、悠人とここ歩きたくて決めたんだもん」


「うん。でも、痛いの我慢する約束まではしてないでしょ」


結衣は返事の代わりに、浴衣の袖を僕の腕へ軽くぶつけた。


前を歩く家族が川の向こうを指す。花火は終わったはずなのに、遠くの空へ白い光が一つだけ上がり、音も届かないまま消えていった。


「ねえ、今の見えた?」


「見えたよ。遅れて上がったのかな」


「来年は、あれも入れたいね。二人の写真に」


来年。


その言葉を聞くと、さっきの答えがまた頭に浮かんだ。


隣を見る。


僕を見返した彼女の表情が、突然変わった。


「悠人!」


何、と聞き返すより先に、街灯の位置がずれた。


対岸の明かりが一本の線へ引き延ばされ、川面に映っていたはずの光が夜空を横切る。前を歩いていた人影も、建物も、駅の明かりも、それぞれ別の方向へ傾き、どこが上なのか分からなくなった。


足音と話し声が遠ざかった直後、同じ音が耳元で重なる。風の音も、車道を流れる音も、川を走る水の音も一つになり、途中でまとめて途切れた。


「悠人!」


結衣の声だけが近い。


僕は立っていたはずなのに、足元がどこにも見つからない。結衣の顔へ焦点を合わせようとしても、その輪郭は街の光と重なり、近いのか遠いのかさえ分からなかった。


白い光が視界の端から広がっていく。


「悠人!!」


呼ばれるたび、結衣の姿も、夜空も、街も、少しずつ白く霞んでいった。


ああ。


全部、終わるんだな。


結衣の口が動く。何かを伝えようとしている。


その先は、聞こえなかった。


そして、僕の世界は終わった。

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