第20話 夏祭りの約束
二十歳になった夏、店のガラス扉に、川沿いの夏祭りを知らせるポスターが貼られた。
閉店作業を終えるたびに目に入っていたのに、その日は花火の時刻まで読んでから休憩室へ入った。結衣と真帆は先に着替えを済ませ、テーブルの上に翌月のシフト表を広げている。
「結衣、今月最後の土曜、空いてる?」
鞄へ財布をしまっていた手が止まった。
「空いてるけど、どうしたの?」
「夏祭り、一緒に行かない?」
言い終える前から、結衣の口元が上がった。
「行く!」
結衣は椅子へ座り直す。隣でシフト表を畳んでいた真帆まで顔を上げた。
「何時くらい?」
「五時半くらい。最初に神社寄って、そのあと屋台見ようかなって」
「花火は?」
「最後まで見たい」
「じゃあ八時半くらいまでか」
結衣はそこで一度、ガラス扉の向こうへ目を向けた。ここからポスターの細かな文字までは読めない。それでも日付を確かめるように少しだけ目を細め、すぐ僕へ戻ってくる。
「帰りは駅?」
「一番近いところは混みそうだから、川沿いの高架歩道を歩いて、隣の駅から乗ろうと思ってる。大学の帰りに何度か通ったけど、十五分くらいだし」
結衣はスマホで地図を開き、会場から二つの駅へ伸びる道を見比べた。指先が川沿いの線を一度往復し、乗り換え時刻の画面へ移る。
「大通りから戻る方が近くない?」
「近いけど、花火が終わったら人で動かなくなると思う。川沿いなら、帰りにも少し歩けるし」
最後の理由だけ、言ってから余計だった気がした。けれど結衣はそこを聞き逃さず、地図より先に僕の顔を見る。
「そっか。悠人は、そっち歩きたいんだ」
「うん。結衣が嫌じゃなければ」
「嫌じゃないよ。じゃあ、それで行こ」
画面を閉じても、結衣はスマホをすぐには鞄へ戻さなかった。もう一度時刻を見ようとしたのか、黒くなった画面へ指が触れる。その動きを見ていた真帆が、畳んだシフト表で机を軽く叩いた。
「予定、決まるの早いね。祭りって、二人で行くんでしょ?」
「うん」
「今さらだけどさ。二人って、付き合ってるんだっけ」
結衣が僕を見る。
答えを急かすわけでも、困ったように笑うわけでもなかった。ただ僕が口を開くのを待っている。
付き合っているわけではない。そう答えるだけなら簡単なはずなのに、その言葉を結衣の前で言うのは違う気がした。だからといって、別の答えを口にする準備もできていない。
「祭りには二人で行くよ。五時半に駅の北口で待ち合わせ」
「聞いたところだけ綺麗に避けたね」
真帆が呆れた声を出す。結衣は僕から目を逸らし、テーブルへ伏せていたスマホをようやく鞄へ入れた。
「いいの。祭りの予定は決まったから」
声は普段と変わらなかった。けれど、さっきまで見えていた笑顔が少しだけ小さくなっていた。
真帆はそれ以上聞かず、駅まで三人で歩いた。改札前で別れるとき、結衣が少し後ろから僕の名前を呼ぶ。
「ねえ、浴衣で行ってもいい?」
「なんで確認するの?」
「私だけ浴衣で、悠人がびっくりしたら嫌だから。歩くの遅くなるかもしれないし」
「びっくりはするかもしれないけど、浴衣で来てほしい」
結衣は一度瞬きをして、僕を見た。
「分かった。じゃあ、ちゃんと見てね」
「何を?」
「聞き返すところじゃないでしょ」
階段を上がりながら振り返った顔には、さっきより大きな笑みが戻っていた。
祭りまでの一週間、結衣からは屋台の写真や、花火がよく見える場所の記事が何度か送られてきた。そのたびに僕も地図を開き、行きたい場所を一つずつ返した。
神社には人が増える前に行く。夕食代わりになるものは屋台で探す。花火は川沿いの広場から見る。帰りは予定どおり、高架歩道を通って隣の駅まで歩く。
全部を時刻どおりに回る必要はない。ただ、どこへ行きたいかを尋ねられるたび、「結衣に任せる」とだけ返すことはなくなっていた。
前日の夜には、結衣から電話がかかってきた。
『明日、ほんとに晴れるよね? 降水確率は低いけど、川の近くって風も強いし、急に変わったりしない?』
「天気予報は晴れ。心配なら折り畳み傘、僕が持っていくよ」
『それは私も持つ。悠人の鞄だけ重くしたくないし。あと、帰りの道って浴衣でも歩ける?』
「普通の舗装された歩道だよ。疲れたら近い方の駅へ戻ってもいいけど、僕は川沿いを歩きたい」
電話の向こうが少し静かになる。何かを確かめているような間のあと、結衣の声が柔らかくなった。
『うん。じゃあ、そうしよう。私も悠人と歩きたいから』
「確認すること、もうない?」
『あるよ。明日、私を見ても笑わないこと』
「なんで笑うの?」
『髪、自分でまとめるから。失敗しても、会った瞬間にそこ見ないでね』
「今言われたら、最初に見ると思う」
『悠人』
低くなった声に笑うと、本当に切るよ、と言いながら結衣も笑った。通話が終わる前、彼女はもう一度、待ち合わせの時刻を口にした。
真帆に聞かれたことだけは、そのまま残った。
結衣とは、高校を卒業して学校が別になっても会った。店の勤務が週一へ減ってからは、店で会えない分まで外で会う予定を作った。映画も、文化祭も、進路も、予定が全部外れた日も、思い返すと隣には結衣がいる。
それでも、僕たちの関係を誰かに聞かれると、名前をつけるところだけ避けてしまう。
祭りで何を言うか、文章にできていたわけではない。ただ、次に同じことを聞かれたときまで、あのときと同じ答えを残したくなかった。
当日の午後五時二十分。駅の北口は、浴衣姿の人と待ち合わせをする人で混み始めていた。
待ち合わせまでは、まだ十分ある。普段ならスマホでも見ている時間なのに、柱のそばに立って改札から出てくる人を目で追っていた。浴衣姿が見えるたびに顔を確かめ、違うと分かって視線を戻すことを何度か繰り返す。
「悠人」
名前を呼ばれて振り向く。
結衣は改札とは反対側の階段から上がってきたらしく、数歩離れたところに立っていた。
深い青の浴衣に、小さな白い花が散っている。普段は肩へ落ちている髪も今日はまとめられ、耳元に残った細い髪だけが、外から入る風に揺れていた。
四年前、店の休憩室で初めて僕を見たときと同じくらい、結衣は嬉しそうに笑っている。
「どう?」
袖を少し広げ、僕の返事を待つ。
「似合ってる。思ってたより、ずっと」
「思ってたよりって何。最初はあんまり期待してなかったみたいじゃん」
「そういう意味じゃないよ。写真で見るのと違ったから」
「写真、送ってないけど?」
「浴衣の話」
結衣はしばらく僕の顔を見たあと、追及するのをやめて隣へ並んだ。頬が少し赤いのは、駅の外が暑いせいだけではない気がする。
「それで、最初はどこ?」
「神社から。先にお参りして、そのあと屋台。結衣が最初に食べるものは決めて」
「じゃあ、りんご飴。途中で別のものが欲しくなっても怒らないでね」
「最初から二つ食べるつもりでしょ」
「食べた分、帰りに歩けばいいでしょ」
駅の外から祭囃子が聞こえ、何人かが同じ方向へ走っていく。結衣はその背中を見てから、僕へ手を差し出した。
「行こ、悠人」
差し出された手を取ると、結衣の指がすぐに僕の指の間へ収まった。そのまま隣へ並び、二人で祭りの灯りへ歩き出した。




