第19話 店の外でも
来月のシフト希望表で、僕が丸をつけた日は四日だけだった。
高校生の頃は週に三日、多い週には四日入っていた。大学二年になってからも同じように続けてきたけれど、片道一時間以上の通学と授業の課題が重なる日は、帰宅して鞄を置いたまま眠ることが増えている。
先週は閉店まで働いた翌朝、乗り換えの駅を通り過ぎた。慌てて反対方向の電車へ乗ったものの、一限には間に合わず、提出前のレポートも同じ段落を三度書き直したまま進まなかった。店で失敗したわけでも、大学へ行けなくなったわけでもない。ただ、どちらにも少しずつ遅れ始めている。
休憩室の壁から用紙を外し、まだ誰にも提出せずに鞄へ入れた。
その日の閉店後、結衣へ少し残ってほしいと伝えた。客席の椅子を戻し終えた彼女は、僕がテーブルへ広げた用紙を見て、最初に丸の数を数える。
「これ、書き間違い?」
「来月から、週一くらいに減らそうと思ってる。店長には明日話すつもりだけど、先に結衣へ言っておきたかった」
結衣は用紙から顔を上げた。
「辞めるの?」
「辞めないよ。ただ、今までと同じ回数は難しい。朝早い日に閉店まで入ると、帰ってから何もできなくなるし、課題を後ろへずらすと、別の日まで全部詰まるから」
「そっか。辞めるんじゃないんだ」
息を吐いたあと、結衣はもう一度、四つだけの丸を見る。
「でも週一なら、私と同じ日になるとは限らないよね。学校も別だし、ここでも会えない週が増える」
「うん」
「寂しいって言ったら、困る?」
「困らない。僕も、会えなくなるのは嫌だから」
「いつから減らそうと思ってたの?」
「先週、一限に遅れた日。すぐ決めたわけじゃないけど、今のまま続けて、もっと大きい失敗をしてからじゃ遅いと思った」
「あの日、店でも眠そうだった。私が代わろうかって聞いたら、大丈夫って言ったよね」
「あのときは最後までできたから。でも、できたことと、これからも続けられることは別だろ」
結衣の指が、用紙の空白をゆっくりなぞった。丸を増やすようには言わず、空いている欄へ触れるだけで止まる。
「無理して今までどおり働いて、大学の方が駄目になるのも嫌。だから減らすのは止めない。でも、店で会えないなら、その分は別の日に会いたい」
「僕もそのつもり。シフトが減っても、結衣と会う回数まで減らしたいわけじゃない」
「……それ、今のうちにちゃんと覚えておく」
結衣はようやく用紙から手を離した。
翌日、店長へ事情を話すと、すぐに承諾されたわけではなかった。週末の夕方は高校生だけで埋められず、長く働いている僕を前提に組んでいた日もある。来月分はすでに希望を聞き始めているため、曜日を曖昧にしたまま週一へ減らされると困ると言われた。
久瀬さんも同席し、手元の勤務表を確かめている。
「宮原、続けるなら、入れる一日は固定できる? 毎週変わると、新しい人へ教える時間も作れないから」
大学の時間割と電車の時刻を見直し、土曜の夕方から閉店までなら続けられると答えた。試験前に入れない週は早めに伝え、代わりに長期休暇は増やせる日を出す。店長は何度か勤務表へ書き込み、翌月からその形で試すことになった。
話が終わると、久瀬さんはペンの先で僕の名前を軽く叩いた。
「正直、減るのは痛い。でも、無理な日に丸をつけられる方が困るからね。土曜は頼むよ」
「はい。決まってる分はちゃんと入ります」
休憩室を出ると、結衣と真帆がちょうど出勤してきた。真帆は店長が持ったままの勤務表を見て事情を察したらしく、制服の袖を留めながら僕へ目を向ける。
「決まった?」
「来月から土曜だけ。二人にも今までより負担かかると思う」
「かかると思う。でも、宮原くんが倒れるまで入るよりは調整しやすい。新しい人が来たら、最初から全部できる前提で頼まなければいいし」
真帆はそれ以上慰めず、髪をまとめてカウンターへ出ていった。結衣も僕の横を通るとき、「土曜は一緒に入れる日、希望出してみる」とだけ言い、真帆を追った。
週三日で入る最後の週、土曜の夕方に結衣、真帆、久瀬さんと同じ勤務になった。
駅前で催しがあったらしく、六時を過ぎると注文の列が扉の近くまで伸びる。真帆のレジから注文票が続けて出て、結衣は紙袋とトレーを分けながら番号を呼び、久瀬さんは奥から商品を送り出していた。
僕の前ではドリンクが三つ並び、氷なしの一つだけカップの位置をずらしてある。そこへ客席から、飲み物をこぼしたと声がかかった。
「宮原、これ終わったらカップの補充いける?」
久瀬さんが奥から訊く。
目の前の注文票を見たまま答える。
「今は無理です。あと二枚終わったら補充します。客席、誰かお願いできますか」
「分かった。佐倉、次の人が来たらレジ代われる?」
「代われます。結衣、四十八番まで出したら客席お願い」
「了解。宮原くんじゃなくて、宮原、オレンジ一つこっち!」
結衣は仕事中だけ久瀬さんの呼び方を真似し、空いた手をこちらへ伸ばす。
「急に名字だけで呼ばないでよ」
「今は早い方が大事。はい、四十九番もすぐ来るよ」
オレンジジュースを渡すと、結衣はトレーへ載せ、そのまま客席へ向かった。真帆がレジを離れ、次の店員と交代する。僕が残りの注文を終えたところで、久瀬さんは空のカップケースを僕の足元へ滑らせた。
列が短くなる頃には、こぼれた床も拭かれ、補充したカップが元の棚へ収まっていた。
閉店後、真帆は売上票をまとめながら僕の来月の予定を聞いた。
「土曜だけになるんだ。じゃあ、今までみたいに四人揃う日は減るね」
「悪い。引き継げることは今月中にまとめるよ」
「辞めるわけじゃないんだから、全部置いていかなくていいでしょ。宮原くんがいない日のドリンクは、結衣がやればいいし」
「私、受け渡しの方が好きなんだけど」
「希望は聞いてない」
真帆は淡々と返したが、片づけた売上票の束で結衣の腕を軽く叩いた。
久瀬さんは入口の鍵を確かめ、鞄を肩へ掛ける。
「人の手配はこっちでやる。宮原は土曜に来たとき、新しい人がいたら教える側も頼む。それで十分」
「分かりました」
四人で駅まで歩き、途中の交差点で久瀬さんと真帆が別れた。二人の背中が人通りへ消えると、結衣が歩幅を少し緩める。
振り返ると、店の明かりが交差点の向こうに見えた。初日に結衣と真帆の制服へ気づいた場所も、忙しい時間に四人で何度も立ったカウンターも、なくなるわけではない。来月からは、僕がそこにいない日の方が多くなるだけだった。
「今日みたいに四人で働くの、当たり前だったのにね」
「来月からは当たり前じゃなくなる」
「うん。分かってる。止めないって決めたけど、やっぱり寂しいものは寂しい」
改札へ続く階段の手前で、僕はスマホの予定を開いた。土曜には店の勤務、平日には授業と提出日の印が並んでいる。その間にある、二週目の日曜を結衣へ見せた。
「この日、会おう。店のシフトとは別に」
「私に会うために空けたの?」
「これから空ける。結衣が空いてるなら」
「空いてる。朝からでも」
「朝からは長くない?」
「店で会う分が減るんだから、少しくらい長くてもいいでしょ」
結衣は自分のスマホを開き、僕が示したのと同じ日を押した。
「じゃあ二週目の日曜。今度は、最初から店の外で会おうね」




