第18話 分からない日
大学の授業が始まって二か月。日曜の駅前で会った結衣は、時刻の書き込まれた小さな紙を持っていた。
「十時十二分の電車に乗れば、向こうの駅でバスを待たなくて済むの。企画展を見て、十二時半にお昼。そのあと川沿いを歩けば、三時にはここへ戻れるよ」
紙には乗り換え時刻だけでなく、美術館から店までの道と、僕が夕方の勤務へ間に合う帰りの電車まで並んでいる。僕が覗き込むと、結衣は一番下を指で隠した。
「そこから先は見ないで。お昼の店は着いてからのお楽しみだから」
「三時に戻って、勤務は五時からだけど。二時間も何するの?」
「遅れるよりいいでしょ。途中で悠人が本屋に捕まるかもしれないし、私が服を見たくなるかもしれない」
「結衣の予定表なのに、そこは決まってないんだ」
「予定どおりにしか動けない女だと思われたくないから、自由時間です」
結衣は紙を四つ折りにして鞄へしまい、改札へ歩き出した。高校を卒業してから、制服姿で会うことはなくなった。淡い黄色のシャツに白い鞄を合わせた背中を追い、僕も新しく買った定期入れを改札へ当てる。
電車とバスを乗り継いだ先にある県立美術館は、正面のガラスへ初夏の空を映していた。入口脇には、結衣が見たいと言っていた写真家の名前が大きく掲げられている。
「ほら、合ってた」
結衣は少し得意そうにポスターを指した。しかし、その下に記された開催日は、来週の土曜日からになっていた。
「……あれ?」
日付を確かめた結衣が、鞄から紙を取り出す。そこには今日の日付と、『旅の写真展』の文字が同じ行に書かれている。
「今日からだと思ってた。待って、私、ちゃんと――」
スマホで美術館のページを開くと、開催日はポスターと同じだった。常設展なら入れるらしいが、結衣は画面と入口を何度も見比べている。
「一週間、間違えたみたい」
笑って紙へ線を引いたものの、ペン先が同じところを何度も往復し、日付だけが黒く潰れた。
「常設展、見る?」
「ううん。今日見たかったのはこっちだから、来週また来よう。先にお昼にしよっか。店、すぐ近くだから」
結衣は僕の返事を待たず、建物の左側へ続く坂を下りていく。途中で一度だけ地図を開いたが、画面を拡大する前に閉じ、角にある青い屋根を目印に足を速めた。
その屋根の下には、色褪せた看板だけが残っていた。窓の内側は白い紙で覆われ、扉には『四月三十日をもちまして閉店しました』と印刷された紙が貼られている。
結衣は取っ手へ伸ばしかけた手を、そのまま下ろした。
「ここも?」
「別の店、探そうか」
「大丈夫。川の方に行けば、日曜だけ出てる店があるから。サンドイッチとか、飲み物とか売ってて、ベンチも――」
そこまで言って、声が止まる。
結衣はスマホへ店の名前を打ち込み、検索結果を開いた。画面には、昨年で営業を終了したという短い知らせが表示されている。
「どうして」
今度は笑わなかった。
坂の上では、さっき見かけた家族が美術館の入口へ入っていく。目の前の道を路線バスが通り、僕たちが乗ってきたものとは違う番号が角を曲がっていった。どちらも特別なことではないのに、結衣だけがその場から動けなくなっている。
「結衣」
「ごめん。ちょっと待って。次、考えるから」
鞄から紙を出し、空いたところへ何かを書こうとする。けれどペンは紙に触れたまま動かず、やがて結衣は両方を膝の前へ下ろした。
「……分かんない」
声は、走り回ったあとより頼りなかった。
「私、今日のこと分かってたはずなのに。日付も、店も、ここから先も。なのに一個じゃなくて、全部違う」
なぜ知っていたのかと聞けば、結衣はまた笑ってごまかす気がした。けれど今は、その笑い方さえ見たくなかった。
「次を決める前に、結衣は今どうしたい?」
結衣は答えず、手の中の紙を見た。黒く潰した日付の横で、昼食の店と帰りの時刻だけが、まだ予定のまま残っている。
「何でもいいから、別のところ行こうって言わないの?」
「行きたいなら探す。でも、今は行きたそうに見えないから」
「じゃあ……今日は、一人にしないでほしい。理由は、まだうまく言えないけど」
言い終わるまでに何度も視線が揺れた。それでも結衣は、最後まで聞こえる声で言った。
その場で店へ電話をかけた。出たのは久瀬さんで、事情を伝えると責任者へ確認してくれた。夕方は人数が足りていて、閉店前に一人抜ける予定があるため、入りを二時間遅らせ、その分だけ最後まで残る形なら変更できるらしい。
通話を終えると、結衣が困った顔で僕を見ていた。
「そこまでしてって言ったわけじゃないよ。仕事、休ませたいんじゃなくて」
「休まないよ。時間を変えてもらっただけ。無理なら断られてたし、僕が残りたいから聞いた」
「そういうの、私に確認しないで決めるんだ」
「一人にしないでって言ったの、結衣だろ」
少し間があって、結衣の口元がようやく緩んだ。
近くの自動販売機で飲み物を買い、川沿いまで歩いた。結衣は美術館の紙を鞄へ戻し、代わりに冷たいミルクティーを両手で持っている。川面から吹く風に髪が何度も頬へ張りつき、そのたび指で耳へかけていた。
ベンチへ座っても、すぐには予定の話をしなかった。僕の大学で、講義室を間違えて違う授業へ座りかけたこと。片道の乗り換えに慣れたと思った日に、眠って一駅過ぎたこと。結衣は最初こそ曖昧に笑っていたが、どの駅まで行ったのかを聞き、その程度なら寝過ごしたうちに入らないと言い始めた。
「結衣の基準だと、どこまで行ったら寝過ごしなの?」
「終点。戻る電車がなくなってからが本番」
「経験あるみたいに言うね」
「ないよ。たぶん」
結衣はそう答え、ミルクティーを一口飲んだ。少しずついつもの声へ戻っていたが、手の中のボトルには水滴が浮き、指の間を伝っている。
「ねえ、悠人。私が思ってたこと、これからも外れるかもしれない」
「今日だけでも、だいぶ外れたね」
「そういう話じゃなくて。もっと大事なことも、分かってるつもりで全然違うかもしれない。そうなったら私、何を信じたらいいんだろう」
僕には、結衣が何を分かっているつもりだったのかまでは分からない。だから、そこを埋める答えも作れなかった。
「結衣が分からないなら、僕にも分からないよ。でも、予定が全部外れても、今日会ったことまでなくなるわけじゃないだろ」
結衣はボトルから手を離し、濡れた指をハンカチへ押しつけた。
「悠人は、思ってた通りじゃない私でも平気?」
「僕だって、結衣の思ってた通りじゃない大学を選んだし。お互い様じゃない?」
「それ、安心していい言い方なのかな」
笑いながら言った声の最後が、少しだけ震えていた。
川の上を白い鳥が一羽だけ横切る。結衣はそれを見送り、隣で小さく息を吐いた。
「今日、悠人がいてくれてよかった」
僕も同じ意味の言葉を返しかけた。けれど、それをどこまで言えばいいのか考えているうちに、口から出たのは別のことだった。
「来週の日曜、空いてる?」
「午後なら。どこ行くの?」
「今度は僕が考える。外れても怒らないで」
結衣は鞄から予定表を出しかけ、途中で手を止めた。
「うん。来週の日曜、空けて待ってる」




