↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
TRACE ORIGIN:あの日、世界が崩壊した  作者: 高瀬 理人
第三章 このままで
PR
18/21

第18話 分からない日

大学の授業が始まって二か月。日曜の駅前で会った結衣は、時刻の書き込まれた小さな紙を持っていた。


「十時十二分の電車に乗れば、向こうの駅でバスを待たなくて済むの。企画展を見て、十二時半にお昼。そのあと川沿いを歩けば、三時にはここへ戻れるよ」


紙には乗り換え時刻だけでなく、美術館から店までの道と、僕が夕方の勤務へ間に合う帰りの電車まで並んでいる。僕が覗き込むと、結衣は一番下を指で隠した。


「そこから先は見ないで。お昼の店は着いてからのお楽しみだから」


「三時に戻って、勤務は五時からだけど。二時間も何するの?」


「遅れるよりいいでしょ。途中で悠人が本屋に捕まるかもしれないし、私が服を見たくなるかもしれない」


「結衣の予定表なのに、そこは決まってないんだ」


「予定どおりにしか動けない女だと思われたくないから、自由時間です」


結衣は紙を四つ折りにして鞄へしまい、改札へ歩き出した。高校を卒業してから、制服姿で会うことはなくなった。淡い黄色のシャツに白い鞄を合わせた背中を追い、僕も新しく買った定期入れを改札へ当てる。


電車とバスを乗り継いだ先にある県立美術館は、正面のガラスへ初夏の空を映していた。入口脇には、結衣が見たいと言っていた写真家の名前が大きく掲げられている。


「ほら、合ってた」


結衣は少し得意そうにポスターを指した。しかし、その下に記された開催日は、来週の土曜日からになっていた。


「……あれ?」


日付を確かめた結衣が、鞄から紙を取り出す。そこには今日の日付と、『旅の写真展』の文字が同じ行に書かれている。


「今日からだと思ってた。待って、私、ちゃんと――」


スマホで美術館のページを開くと、開催日はポスターと同じだった。常設展なら入れるらしいが、結衣は画面と入口を何度も見比べている。


「一週間、間違えたみたい」


笑って紙へ線を引いたものの、ペン先が同じところを何度も往復し、日付だけが黒く潰れた。


「常設展、見る?」


「ううん。今日見たかったのはこっちだから、来週また来よう。先にお昼にしよっか。店、すぐ近くだから」


結衣は僕の返事を待たず、建物の左側へ続く坂を下りていく。途中で一度だけ地図を開いたが、画面を拡大する前に閉じ、角にある青い屋根を目印に足を速めた。


その屋根の下には、色褪せた看板だけが残っていた。窓の内側は白い紙で覆われ、扉には『四月三十日をもちまして閉店しました』と印刷された紙が貼られている。


結衣は取っ手へ伸ばしかけた手を、そのまま下ろした。


「ここも?」


「別の店、探そうか」


「大丈夫。川の方に行けば、日曜だけ出てる店があるから。サンドイッチとか、飲み物とか売ってて、ベンチも――」


そこまで言って、声が止まる。


結衣はスマホへ店の名前を打ち込み、検索結果を開いた。画面には、昨年で営業を終了したという短い知らせが表示されている。


「どうして」


今度は笑わなかった。


坂の上では、さっき見かけた家族が美術館の入口へ入っていく。目の前の道を路線バスが通り、僕たちが乗ってきたものとは違う番号が角を曲がっていった。どちらも特別なことではないのに、結衣だけがその場から動けなくなっている。


「結衣」


「ごめん。ちょっと待って。次、考えるから」


鞄から紙を出し、空いたところへ何かを書こうとする。けれどペンは紙に触れたまま動かず、やがて結衣は両方を膝の前へ下ろした。


「……分かんない」


声は、走り回ったあとより頼りなかった。


「私、今日のこと分かってたはずなのに。日付も、店も、ここから先も。なのに一個じゃなくて、全部違う」


なぜ知っていたのかと聞けば、結衣はまた笑ってごまかす気がした。けれど今は、その笑い方さえ見たくなかった。


「次を決める前に、結衣は今どうしたい?」


結衣は答えず、手の中の紙を見た。黒く潰した日付の横で、昼食の店と帰りの時刻だけが、まだ予定のまま残っている。


「何でもいいから、別のところ行こうって言わないの?」


「行きたいなら探す。でも、今は行きたそうに見えないから」


「じゃあ……今日は、一人にしないでほしい。理由は、まだうまく言えないけど」


言い終わるまでに何度も視線が揺れた。それでも結衣は、最後まで聞こえる声で言った。


その場で店へ電話をかけた。出たのは久瀬さんで、事情を伝えると責任者へ確認してくれた。夕方は人数が足りていて、閉店前に一人抜ける予定があるため、入りを二時間遅らせ、その分だけ最後まで残る形なら変更できるらしい。


通話を終えると、結衣が困った顔で僕を見ていた。


「そこまでしてって言ったわけじゃないよ。仕事、休ませたいんじゃなくて」


「休まないよ。時間を変えてもらっただけ。無理なら断られてたし、僕が残りたいから聞いた」


「そういうの、私に確認しないで決めるんだ」


「一人にしないでって言ったの、結衣だろ」


少し間があって、結衣の口元がようやく緩んだ。


近くの自動販売機で飲み物を買い、川沿いまで歩いた。結衣は美術館の紙を鞄へ戻し、代わりに冷たいミルクティーを両手で持っている。川面から吹く風に髪が何度も頬へ張りつき、そのたび指で耳へかけていた。


ベンチへ座っても、すぐには予定の話をしなかった。僕の大学で、講義室を間違えて違う授業へ座りかけたこと。片道の乗り換えに慣れたと思った日に、眠って一駅過ぎたこと。結衣は最初こそ曖昧に笑っていたが、どの駅まで行ったのかを聞き、その程度なら寝過ごしたうちに入らないと言い始めた。


「結衣の基準だと、どこまで行ったら寝過ごしなの?」


「終点。戻る電車がなくなってからが本番」


「経験あるみたいに言うね」


「ないよ。たぶん」


結衣はそう答え、ミルクティーを一口飲んだ。少しずついつもの声へ戻っていたが、手の中のボトルには水滴が浮き、指の間を伝っている。


「ねえ、悠人。私が思ってたこと、これからも外れるかもしれない」


「今日だけでも、だいぶ外れたね」


「そういう話じゃなくて。もっと大事なことも、分かってるつもりで全然違うかもしれない。そうなったら私、何を信じたらいいんだろう」


僕には、結衣が何を分かっているつもりだったのかまでは分からない。だから、そこを埋める答えも作れなかった。


「結衣が分からないなら、僕にも分からないよ。でも、予定が全部外れても、今日会ったことまでなくなるわけじゃないだろ」


結衣はボトルから手を離し、濡れた指をハンカチへ押しつけた。


「悠人は、思ってた通りじゃない私でも平気?」


「僕だって、結衣の思ってた通りじゃない大学を選んだし。お互い様じゃない?」


「それ、安心していい言い方なのかな」


笑いながら言った声の最後が、少しだけ震えていた。


川の上を白い鳥が一羽だけ横切る。結衣はそれを見送り、隣で小さく息を吐いた。


「今日、悠人がいてくれてよかった」


僕も同じ意味の言葉を返しかけた。けれど、それをどこまで言えばいいのか考えているうちに、口から出たのは別のことだった。


「来週の日曜、空いてる?」


「午後なら。どこ行くの?」


「今度は僕が考える。外れても怒らないで」


結衣は鞄から予定表を出しかけ、途中で手を止めた。


「うん。来週の日曜、空けて待ってる」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。