第17話 自分で決めた日
進路希望調査の第一志望欄は、放課後になっても空白のままだった。
窓の外では運動部がグラウンドへ出始め、教室に残っているのは僕と赤井だけになっている。机には二つの大学案内が重なり、上にある方は自宅から三十分ほどで、学校の推薦枠も使える大学だった。
「まだ決めてないの?」
赤井は帰り支度を終え、僕の机に片手をついた。
「推薦の締切、明日だろ。近い方にするなら、今日書いといた方がよくない?」
「そうなんだけど」
「じゃあ遠い方が気になってる?」
下に隠れていた案内を引き出される。電車を乗り継いで、一時間から一時間半ほどかかる私立大学。開かれたままのページには、経営学部の授業と、学生が地域の店と一緒に企画を作る実習が紹介されていた。
夏のオープンキャンパスで参加した授業では、駅前の店を例に、客がどこで立ち止まり、何を見て商品を選ぶのかを考えた。正解を当てる授業ではなく、同じ店内図を見ているのに、学生ごとに違う理由を出すのが面白かった。
「こっちも受けてみたい。でも、推薦を断って落ちたら、そのあと考えることになるし」
「それはそうだろ。受けるなら、落ちるかもしれないんだから」
赤井は簡単に言い、二冊を元の位置へ戻した。
「俺が決めたら意味ないし、お前が行きたい方にしろよ。近い方にするなら、帰りに駅前で飯食える回数が減らなくて助かるけど」
「自分の都合入ってるじゃん」
「だから先に言った。あとは自分で決めろ」
赤井は教室を出ていった。机に残った二冊は、どちらを上にしても、もう一方の角が少しだけ見えた。
その日の勤務後、結衣と駅前のベンチへ座った。店のシャツから制服へ着替えても、揚げ物の匂いがまだ袖に残っている。
二冊の大学案内を渡すと、結衣は迷わず近い方を開いた。
「こっちなら通いやすいし、今までと同じようにバイトも――」
そこで言葉を切り、ページを閉じる。遠い方へ手を伸ばしかけた指も止め、二冊とも僕の膝へ戻した。
「ごめん。悠人は、どっちへ行きたい?」
すぐには答えられなかった。近い方なら、卒業後も今の店で働く時間はそれほど変わらず、結衣とも今までに近い頻度で会えそうだった。両親も、推薦を使えるなら安心だと言っている。
遠い方を選べば、朝は今より早くなり、帰りも遅くなる。受かるとは限らず、今までと同じ回数だけ店へ入るのも難しい。
それでも、何度も開いた跡がついているのは、経営学部の案内だった。
「遠い方に行きたい」
結衣は僕を見たまま、何も言わなかった。
「バイトで働き始めてから、同じ時間でも混む日と混まない日があったり、置き方を変えただけで注文が増えたりするのが気になってた。オープンキャンパスの授業も面白かったし、もっと知りたい」
「そっか」
結衣は足元へ視線を落とし、靴の先を一度揃えた。
「近い方にすると思ってた?」
「思ってた。というか……そっちを選ぶ気がしてた」
どうして、と聞きかけると、結衣は困ったように笑った。
「悠人、今までなら、通いやすい方とか、周りが安心する方を選びそうだったから。でも、行きたい方があるなら、私が近い方を勧めるのは違うよね」
「遠くなるよ」
「うん。それはちょっと困る。学校で会えなくなっても、バイトでは今までみたいに会えると思ってたから」
「学校では、わざわざ会いに来てたの?」
「偶然を装ってた日もある。そこは今、聞かなくていいから」
結衣は笑ったものの、二冊の案内を見比べる目は少し寂しそうだった。
「でも、私が困るからって変えないで。悠人が決めたなら、私はその先で会う方法を考えたい」
「近い方って言ってたら?」
「そのときは、帰りに会える日を増やしてって頼んでたかも。私にはそっちの方が都合いいし」
駅へ入ってきた電車の音で、最後の方が少し聞こえにくくなる。結衣は通過する窓の明かりを見送り、それからもう一度僕を見た。
「でも今、経営の話をしてた悠人の方が、近い大学の話をしてたときより楽しそうだった。それを聞いたあとで、近い方にしてとは言えないよ」
帰宅してからも、机の上へ二冊を並べた。近い方の案内には推薦書類の提出日が挟まれ、遠い方には入試日程へ赤い丸がついている。翌朝になれば、どちらか一冊だけ持っていけばいい。
一度は近い方を鞄へ入れたものの、ファスナーを閉める前に取り出した。代わりに経営学部の案内と、第一志望まで書き終えた進路希望調査を入れる。
翌朝、僕は担任へその用紙を差し出した。
担任は用紙を受け取り、推薦枠を使わないなら一般入試へ向けて予定を組み直すと話した。経営学部の案内を鞄へ戻すとき、少しだけ手が止まる。それでも用紙を返してほしいとは言わなかった。
それから数か月、放課後は図書室へ寄ることが増え、バイトの回数を少し減らした。結衣とは店で会えない週もあったが、帰りの電車が合う日や、休みの日には連絡を取った。
模試の判定が落ちた夜、近い方にしておけばよかったかもしれないと送ると、結衣から返ってきたのは励ましではなく、『変えたいなら、何が嫌で変えたいのか聞く』という短い文だった。結果が怖いだけだと返すまで、結衣はどちらの大学名も出さなかった。
願書を投函すると、封筒が郵便ポストの奥へ落ちる音がする。扉が閉じても、その場をすぐには離れられない。
合格発表の日、結果を開いたのは自分の部屋だった。
画面に表示された番号を受験票と三度見比べても、同じ数字が並んでいる。最初に送ったメッセージへ既読がつき、数秒もしないうちに結衣から電話がかかってくる。
『受かったんだよね? 番号、見間違えてない?』
「見間違えてない。三回確認した」
『三回も? じゃあ大丈夫か。おめでとう、悠人』
弾んだ声のあと、結衣は少しだけ黙った。
『今日、会える? ちゃんと顔見て言いたい』
夕方、店の前で待っていると、結衣は駅側から走ってきた。僕の前で止まり、息を整えるより先に、紙袋を押しつけてくる。中には小さなケーキが二つ入っていた。
「おめでとう。あと、ほんとに受かってる顔か確認しに来た」
「どんな顔なら受かってるの?」
「もうちょっと嬉しそうな顔。今の悠人、番号をまだ疑ってるでしょ」
図星だったので笑うと、結衣もようやく肩の力を抜いた。
駅ビルの休憩スペースでケーキを食べながら、春からの通学時間をもう一度確かめる。電車の乗り継ぎを含めれば一時間から一時間半ほどかかり、帰りにそのまま店へ入れる日は、今までより確実に減る。
「学校も別、バイトも減るなら、会える日も減るね」
結衣はフォークでケーキの端を切りながら、冗談にせず言った。
「寂しい?」
「寂しいよ。悠人は平気なの?」
「平気じゃない。でも、それで進路を変えたかったとは思ってない」
口にしてから、少し勝手な答えに聞こえた気がした。結衣は怒らず、切ったケーキを口へ運んでから頷く。
「うん。それでいい。会えなくなるって決まったわけじゃないし、次を決めればいいから」
僕はスマホの予定を開いた。卒業式、大学の手続き、バイトの希望日が並んでいる。空いている日を探し、四月の最初の日曜を指す。
「この日なら、大学が始まる前に会える。結衣は?」
結衣は自分の画面を確かめ、同じ日を押した。
「空いてる。じゃあ、その日は私がもらうね」
二つの画面に、同じ日付の予定が増えた。




