第15話 エンドロールのあと
上映開始二十分前、券売機の座席表には、まだ空席が並んでいた。
水野さんの指が、中央より少し後ろの二席で止まる。そこへ触れる直前、彼女は手を引き、僕へ画面を譲った。
「私は後ろの方が好き。画面全部見えるし、首も疲れないから。宮原くんは?」
「通路側がいいかな。真ん中だと、途中で出たくなったとき大変そうだし」
「映画の途中で出る予定あるの?」
「ないけど」
「じゃあ、後ろ寄りの通路側。これなら二人とも希望入ってるよね」
水野さんが僕の顔を確かめてから、並んだ二席を押す。次の画面へ進んでも、決済ボタンだけは僕が頷くまで待っていた。
前に来たときは映画館までたどり着けなかった。今日は入口までの道も上映時間も合っていて、発券された二枚のチケットには、同じ作品名と隣り合った座席番号が印字されている。
「よし。ここまで来れば、さすがに今日は見られる」
「まだ始まってないよ」
「始まる前から不吉なこと言わないで。飲み物買おう。宮原くんは何にする?」
カウンター上のメニューを見上げ、僕はコーラを選んだ。水野さんはオレンジジュースとウーロン茶の間で迷い、最後には「映画館でしか飲まないから」という理由で、僕と同じものを頼む。ポップコーンは塩味にしたものの、受け取った直後にキャラメルの甘い匂いへ振り返った。
「今ならまだ交換できるかな」
「塩がいいって言ったの、水野さんだよ」
「うん。でも隣の人のやつがおいしそうに見えた。半分だけキャラメルにできない?」
店員に尋ねると、追加料金で二種類に分けられるらしい。水野さんは満足そうに容器を受け取り、塩味の側を僕へ向けた。
「これで私の気が変わっても大丈夫」
「最初から両方食べたかっただけじゃない?」
「結果がよければいいの」
劇場へ入ると、予告が始まるまでの明るいスクリーンが、座席を青白く照らしていた。水野さんは自分のカップを右側へ置き、二人の間の肘掛けにポップコーンを載せる。僕が塩味を取ろうとするたび、彼女の手はキャラメル側から伸びてきた。
「そっち、私の半分なんだけど」
「塩も食べたくなったの」
「分けた意味ないじゃん」
「宮原くんもキャラメル食べていいよ。はい、これで平等」
言い返す前に場内が暗くなり、水野さんは口元へ指を立てて前を向いた。
映画は、海辺の町を出た青年が、何年も帰れないまま各地を旅する話だった。町にいた頃の彼は、古い灯台を守る老人の家へ入り浸り、遠くの海を見ては、いつか外へ出たいと話していたらしい。
途中までは水野さんもよく笑っていた。主人公が船酔いで格好をつけられなくなる場面では、声を抑えながら肩を揺らし、僕の袖を二度叩く。ポップコーンはいつの間にか境目がなくなり、どちらがどれだけ食べたのか分からなくなった。
終盤、主人公はようやく故郷へ戻る。けれど灯台は無人になり、老人が毎晩つけていた明かりも自動のものへ替わっていた。
残っていたのは、旅立つ前に壊したままだった小舟と、「帰ってきたら、今度はお前が直せ」と書かれた短い手紙だけだった。主人公は誰もいない浜辺で一人、小舟を直し始める。老人との別れを回想する場面は一度もないのに、彼が釘を打つ音へ、出発の日に交わした「またな」という声だけが重なった。
隣から、小さく息を吸う音がした。
スクリーンの光が切り替わるたび、水野さんの頬に細い跡が見える。彼女は目元を拭わず、膝の上で両手を強く組んだまま、最後まで画面を見ていた。
エンドロールが始まっても、すぐには立たなかった。出口へ向かう人が僕たちの前を通り、足元の明かりが何度も遮られる。僕も座ったまま名前の列を眺めていると、水野さんがようやく息を吐いた。
「……あれは反則。最後まで、あのおじいさん出てくると思ってた」
「最初から分かってたら、一番大事なところまで読めちゃうでしょ」
「そうだけど。一回くらい会えると思うじゃん。ずっと帰ってくるの待ってたのに、あれじゃ遅すぎるよ」
声はいつもと同じに戻そうとしていたが、最後だけ少し掠れた。
「水野さん、もう少しここにいる?」
「ううん。大丈夫。ちょっと泣いただけだし、暗いから誰にも見られてない」
「僕は隣にいたけど」
「宮原くんは見てないことにして。映画に集中してたでしょ?」
「袖、二回叩かれたから、そのときは見た」
水野さんは濡れた目のまま僕を睨み、すぐに諦めたように笑った。
「そこじゃないよ。泣いてたところは見てないって言ってほしかったの」
「じゃあ、見てない」
「遅い。今のはもう無効」
それでも立ち上がる様子はなかったので、僕も急かさなかった。最後の曲が終わり、場内が少し明るくなる。水野さんは空になったカップを持ち、僕の方ではなくスクリーンを見たまま話し始めた。
「あの主人公、ちゃんと帰るつもりだったんだよね。途中で何度も港のこと思い出してた。でも、思ってるだけじゃ、おじいさんには分かんなかったじゃん」
「あの手紙を残したなら、帰ってくるつもりなのは分かってたんじゃない?」
「でも、言わなかったら相手には分からないよ」
「うん。分からないと思う。でも、言えなかった気持ちまで、なかったことにはならないでしょ」
水野さんがこちらを見る。何かを聞かれると思ったが、彼女は僕の顔をしばらく見たあと、組んでいた指をほどいた。
「宮原くんって、ときどきそういうこと言うよね」
「どういうこと?」
「こっちが聞きたいことは聞かないのに、欲しかったことだけ言う」
意味を尋ねても、今度は教えてくれなさそうだったので、二人分の空いた容器を重ね、水野さんが立つのを待ってから通路へ出た。
劇場の外は次の上映を待つ人で混んでおり、僕たちは吹き抜け脇のベンチへ移った。さっきの映画でどの場面が一番よかったか、主人公はもっと早く帰るべきだったか。意見が違っても、水野さんは先に答えを決めず、何度も「宮原くんは?」と僕へ返す。
話の途中、彼女は鞄からティッシュを取り出し、目元へそっと当てた。
「まだ泣いてる?」
「違う。さっきの分が残ってただけ。……私、こういう映画だめなんだよね。待ってる人に間に合わない話」
理由まで続くかと思ったが、水野さんはそこでティッシュを畳んだ。僕もその先は聞かず、主人公が直した小舟は本当に海へ出せるのかという話へ戻ると、彼女は「そこ気にするところ?」と呆れながらも、自分なら一度岸の近くで試すと言った。
話しているうちに、窓から差す光が少しずつ橙色へ変わっていく。
水野さんは二枚の半券を重ねて持ち、端を揃えながら口を開いた。
「ねえ。学校とか店なら気にならなかったんだけど、こうやって二人で出かけてるとさ、『水野さん』って、ちょっと遠く感じない?」
「水野さんも、僕のこと宮原くんって呼んでるよ」
「だから、私は変えたいって話。……結衣って呼んでほしい」
水野さんは半券を揃える手を止めた。僕の返事を待っている。
口に出す前、頭の中で一度だけ呼んでみた。名字より短い二文字が、思ったより近く感じる。
「分かった。結衣」
結衣は一瞬だけ目を伏せた。次に顔を上げたとき、泣いた跡が残っているのに、映画が始まる前よりずっと嬉しそうに笑っていた。
「私も、悠人って呼んでいい?」
「うん」
「悠人」
確かめるようにもう一度呼ばれ、返事をすると、結衣は半券の一枚を僕へ差し出す。
外へ出てからも、結衣は新しい呼び方を何度か使った。駅までの短い道で、信号が変わったときも、店の看板を指したときも、そのたびに僕は少し遅れて振り向く。
改札の前で立ち止まる。結衣は人の流れへ入る前に一度振り返り、胸の前で小さく手を振った。
「またね、悠人」
「またね、結衣」




