第13話 予定どおりじゃない日
絆創膏を外した日の夜も、水野さんから「腕、どう?」と連絡が来た。もう痛くないと返すと、今度は学校で真帆が借りた消しゴムを返してくれないという話になり、僕が「じゃあ一個貸そうか」と返したら、「それは真帆に返させる」と断られた。
店や学校では途中で切れていた話が、帰ってからも少しずつ続く。水野さんから届いたパン屋の写真に僕が返事をした日もあれば、授業中に赤井が描いた妙な似顔絵を、僕の方から送った日もあった。
日曜の午後に空いているかと聞かれたのは、その翌週だった。
『映画、見に行かない? 私が気になってるやつ。宮原くんと二人で』
最後の一文を読み直してから、空いてるよ、と送った。すぐに上映時間と待ち合わせ場所が返ってきて、その下に『映画のあとも時間ある?』と続く。
『あるよ』
『よかった。じゃあゆっくりできるね』
日曜、駅前で待っていると、改札から出てきた水野さんが僕を見つけて手を振った。制服でも店のシャツでもない彼女は、白い半袖に薄い緑のスカートで、髪を片側だけ耳へかけている。
「待たせた? 電車一本早く乗ったつもりだったんだけど」
「僕も今来たとこ」
「それ、早く来てた人が言うやつだよ」
スマホで時刻を見せようとすると、水野さんは僕の手を下げた。
「いいよ、何分でも。先に来て待っててくれたなら、ちょっと嬉しいし」
言われたままスマホをしまう。いつも通る駅前なのに、店へ向かうときとは歩く速さが合わなかった。彼女が前へ出ると、僕もつい早足になる。
「映画館、あっちの建物じゃなかった?」
「うん。商業施設の中を抜けた方が涼しいから。上映までまだ余裕あるし」
自動ドアの向こうは冷房が強く、汗の引いた腕に鳥肌が立つ。一階の雑貨売り場を横切る間、水野さんは飾られた小さな扇風機を一つ動かし、風が僕の顔へ向くと満足そうに笑った。
「これ、結構涼しいね。映画館まで持っていきたい」
「音、邪魔になるよ」
「じゃあ宮原くんだけに向ける。眠くなったら起きるでしょ」
「寝る前提なの?」
「違う違う。もしも、だよ。面白かったら絶対寝ないから」
彼女は扇風機を元の角度へ戻し、先の角を指した。そこから駅側の映画館へ抜けられるつもりらしい。僕もついていくと、角の向こうには靴の売り場が続き、その奥は大きなガラス壁で塞がっていた。
水野さんが足を止める。
「……あれ?」
壁の向こうには線路が見える。けれど通路どころか、外へ出る扉もない。
「ここじゃなかった?」
「ここだと思ったんだけど。靴屋さん、前はなかったような……」
水野さんは売り場の手前まで戻り、案内板を探した。エスカレーター脇の館内図には、映画館へ続く連絡通路が僕たちのいる場所とは反対の端に描かれている。指で現在地から線をたどると、一階をほぼ横切ってから上へ上がらなければならなかった。
「前に来たことあるの?」
僕が聞くと、水野さんは館内図を見上げたまま少し黙った。
「あると思い込んでたみたい。別のところと混ざったのかな。ごめんね、私がこっちって言ったのに」
上映開始まであと十分。反対側へ向かう人の流れは、週末の客で詰まっていた。走れば着けるかもしれないが、チケットもまだ買っていない。
「次の回、ある?」
水野さんが上映案内を開く。次は夕方だった。彼女は画面をこちらへ向けたものの、何か言う前に閉じてしまう。
「どうしよう。映画、見に来たのに」
館内図の横に、上階のボウリング場の案内が貼ってあった。貸し靴無料、と大きく書かれている。
「僕、あれやりたい。映画はまた別の日にしない?」
「ボウリング?」
「うん。水野さんは嫌?」
「嫌じゃない。……宮原くん、ほんとに? 映画、楽しみにしてるって言ってたから」
「してたよ。だから次に見る。今日はこっち」
水野さんの顔から、通路を間違えたときの強張りが抜けた。
「分かった。じゃあ、負けても映画のせいにしないでよ」
「まだ投げてもないんだけど」
「今のうちに言っとかないと、宮原くん、負けたとき細かそう」
エスカレーターを上がると、ピンの倒れる音が壁越しに響いてきた。受付で靴を借り、空いているレーンへ入る。僕が名前を入力している間、水野さんは並んだ球をいくつか持ち上げて確かめ、最後に一番軽い球を選んだ。
「重さ、そんなに違う?」
「全然。格好つけて持ったら腕が持っていかれそうだった」
先に投げると言い出したのは水野さんだった。後ろを振り返って「見てて」と笑い、助走をつけて球を離す。球はゆっくり右へ曲がり、ピンに届く前に溝へ落ちた。
「……今の、練習ってことにできる?」
頭上の画面には、もう点数が表示されている。
「名前も入れたし、無理だと思う」
「じゃあ宮原くんの一投目も練習ね。二人とも練習なら平等でしょ」
僕が投げた球も右の溝へ消えた。水野さんは笑いかけて、途中で口を押さえる。
「いや、笑わない。平等だから」
「もう笑ってるじゃん」
「顔だけ。声は出してない」
二投目からは二人ともどうにかピンへ当てた。水野さんは倒れた数より球が曲がる方向を気にして、僕の番にもレーンの端へ身体を傾ける。僕が一本だけ残すと、彼女は椅子から立ち上がり、残ったピンを指した。
「右、右。さっきみたいに曲がるなら、左から投げたら当たるんじゃない?」
「さっきは狙って曲げてないよ」
「知ってる。でも曲がるのは分かったから、使おうよ」
言われた通り少し左へ寄って投げると、球は途中から右へ動き、一本だけ残っていたピンを倒した。水野さんが大きな声を上げ、こちらへ手のひらを差し出す。僕が合わせると、ぱん、と乾いた音が鳴った。
「ほら! 私の作戦!」
「僕が投げたんだけど」
「じゃあ半分ずつ。宮原くん、もう一回できる?」
「次は水野さんの番だよ」
「あ、ほんとだ。じゃあ私も左から投げる」
彼女の球は今度まっすぐ転がって、真ん中のピンを何本か倒した。僕を見るなり「曲がらなかった!」と笑う。映画の上映開始時刻を過ぎても、スマホはテーブルの端に伏せたままで、ゲームが終わるまで彼女は一度も手に取らなかった。
外へ出る頃には、駅前の影が長くなっていた。水野さんはさっきの得点表をスマホで撮り、そのまま僕にも送ってきた。最後のフレームだけ彼女の方が高い。
「今日はここだけ見て帰る。ほかの数字は見ないで」
「一番上に合計点が出てるよ」
「そこも見ないで。最後のところだけ」
改札の前で別れてからも、僕のスマホには得点表の写真が残った。家に着いて見直すと、水野さんの指が画面の隅に少し写り込み、肝心の合計点を隠している。
『合計点、うまく隠したね』
自分から送ると、すぐに返事が来た。
『偶然だよ。……映画、また今度って言ってたの、覚えてる?』
『覚えてる。次は映画も見たい』
既読がついたあと、今度は少しだけ返事が遅れた。
『うん。じゃあ、そのときは私も道をちゃんと調べとく』




