第11話 雨の帰り道
ガラスの向こうが白く光り、少し遅れて、店の奥まで低い音が響いた。
カウンターで袋を受け取った客が足を止める。さっきまで窓に点々とついていた雨粒は、今では何本もの筋になって流れ、入口には傘を閉じる人と、開くのをためらう人が固まっていた。
僕が濡れた床へ注意の札を置くと、久瀬さんがモップを持ってくる。
「ありがとう。そこ、あとは俺がやる。宮原たち、今日は七時半で上がっていいよ。店長にも話したから」
奥から出てきた遅番の店員へモップを渡し、壁の時計を見る。雨で遅れていた人たちも着いたらしく、厨房からは聞き慣れない声が届いていた。
「帰れなくなると困るからね。雨が弱くなったら出て。電車も一応見といて」
着替えを終える頃には、屋根を叩く音が少し静かになった。佐倉さんは迎えに来る母親と電話をしていて、僕と水野さんへ手を振る。
「私はここで待ってる。二人とも気をつけてね」
入口の庇の下で傘を開くと、昼間の暑さが嘘みたいな風がシャツへ入り込んだ。駅は大通りを渡ってすぐ。スマホで確認した次の電車には、まだ遅れの表示もない。
「電車、普通に動いてる。次のなら間に合いそう」
駅へ足を向けたところで、水野さんが商店街の方を指した。
「今日はバスで帰ろうよ」
「バス?」
「うん。商店街の先から出るの。川向こうまで行くやつ。あれならどう?」
停留所の名前を聞くと、家から歩ける場所だった。使ったことはあるけれど、普段は電車の方が早い。
「そっち、ちょっと遠回りになるよ」
「じゃあ、ちょっと長く話せるね」
水野さんはこちらを見て、傘を持ち直した。
「学校だと四人だし、店だとすぐ呼ばれちゃうじゃん。たまには仕事してない宮原くんと帰りたい」
返事を考える間にも、傘の縁から水が落ちる。僕はスマホをポケットへしまい、駅とは反対へ向き直った。
「じゃあ、バスにしよう」
商店街のアーケードへ入ると、傘を畳む音が二つ重なった。頭の上で雨音が近くなる代わりに、肩へ飛んでくる水がなくなる。店先の灯りが濡れたタイルへ伸び、その間を自転車を押した人がゆっくり通り過ぎていく。
「これ、買ったばっかりなのに。朝はあんなに晴れてたから、履いてきちゃった」
白い靴は、片方のつま先だけが灰色に濡れている。
「この前、真帆と見に行ったんだよ。三軒回って、結局一軒目に戻って。あのときの真帆の顔、宮原くんにも見せたかった」
「怒ってた?」
「ううん。『だから写真撮っとこうって言ったのに』って。怒るより効くんだよね、あれ」
学校でトランプを引く佐倉さんの顔が浮かび、僕は笑った。
「水野さん、買い物でも顔に出てそう」
「出てたらしい。二軒目でも三軒目でも、真帆に『さっきの方がよかったって顔してる』って言われた」
「じゃあ、戻れてよかったじゃん」
「そう。だからこれは、いっぱい歩いて選んだ靴なんだよ」
足を少し上げて見せた水野さんの前へ、店のテントから水がまとまって落ちた。僕が「そこ」と指すと、彼女は片足のまま慌ててこちらへ寄り、肩が僕の腕へぶつかる。
「危なっ。もう少しで靴、びしょ濡れになるところだった」
「もう片方は無事だったのにね」
「宮原くん、笑ってないで早く教えてよ」
「教えたから避けたんでしょ」
水野さんは文句を言いながらも、少し離れた水の落ちる場所を振り返り、歩き出した僕の隣へ戻ってくる。
いつもの駅までの道なら、もう別れる頃だった。今日はまだ、屋根の下が先へ続いている。
パン屋のシャッターが半分まで下りていて、その隙間から甘い匂いがした。水野さんが足を緩め、「お腹すいた」と呟く。
「さっき休憩で食べてなかった?」
「ポテトだけ。帰ったらご飯食べるつもりだったから。宮原くんは、初めての給料、何に使うの?」
僕も店先を見ながら考える。ガラスの向こうには、クリームの入ったパンが二つ残っていた。
「こういうの、帰りに買えたらいいなとは思う。腹減ったなって思ったときに」
「あ、それいい。じゃあ初めての給料の日、帰りに寄ろうよ。私も買う。人のお金で食べるつもりじゃないからね」
「まだ何も言ってないって」
「先に言っといたの」
水野さんが笑う間に、店員が残ったパンを奥へ下げた。二人でその行方を見送り、次は閉まる前に来ようと言いながら停留所へ向かう。
バス停はアーケードの端にあり、屋根の下には数人が並んでいた。水野さんが時刻表を見上げている間に、僕はスマホを取り出し、帰りが少し遅くなると家へ連絡を入れる。
道路の向こうがまた一度光った。今度の雷は少し遠く、隣で水野さんが肩をすくめる。
「これ以上、ひどくならないといいね」
答える前にバスの灯りが角を曲がり、水野さんが一歩前へ出た。濡れた傘を足元へ寄せて乗り込むと、冷房の風でシャツの袖が冷える。後ろの方に空いていた二人掛けへ座り、窓側を水野さんに譲った。
彼女は鞄からハンカチを出して腕を拭き、その端をこちらへ向ける。
「宮原くんも。さっきぶつかったところ、濡らしちゃった」
少し迷ってから借りる。柔らかい布を袖へ押し当てている間、水野さんは何も急かさず、窓に流れる雨粒を見ていた。
商店街を抜けたところで、ポケットのスマホが震えた。家からの返事の下に、鉄道の運行情報が表示される。
落雷による信号設備の不具合。僕がいつも使う路線に、全線運転見合わせの文字が出ている。
「電車、止まったって」
画面を見せると、水野さんは短く頷いた。
「そっか」
「こっちにして正解だったね。駅行ってたら、まだ帰れてなかったかも」
線路沿いの道へ出ると、一つ先の駅が窓の向こうに見えた。ホームには人が溜まり、明かりのついた電車は動かない。
その横を、僕たちはそのまま通り過ぎていった。




