42.
依頼が来たのは、朝の診察が終わった頃だった。
受付に立っていたミリアが、「先生、少し変わったお客様が」と言いに来た。
「変わった、とは」
「……鬼族の方です」
トーコが立ち上がった。
待合室に行くと、入口の近くに若い男が立っていた。
二十歳前後だろうか。背が高く、頭に角がある。褐色の肌に、金色の目。鬼族の特徴だ。服装は簡素で、遊牧民らしい実用的な衣だ。
周囲の患者が、少し距離を置いていた。
男は、トーコを見て深く頭を下げた。
「お忙しいところ申し訳ありません。お願いがあって参りました」
「どうぞ」
診察室に通した。
◇
男は、ダーグと名乗った。
「デッドエンドの近くで、辺境伯閣下のご許可を得て暮らしています。鬼族の集落で、若い者の代表として来ました」
「どんなご用件ですか」
「集落の者が、先月から腹を下しているんです。大人も子供も。原因がわからなくて、困っていて」
「どのくらいの人数が症状を出していますか」
「二十人ほどです。集落全体で五十人ほどいるんですが、その半分近くが」
「いつ頃から始まりましたか」
「先月の半ば頃から。最初は一人、二人だったんですが、だんだん増えてきて」
「熱は出ていますか」
「出ていません」
「血便は」
「それはないです。ただ、お腹が痛くて、ひどく緩くなって」
「症状は食後に出やすいですか」
「そう言えば……食後に多い気がします」
トーコが魔力視を開き、ダーグを確認した。腸の周辺に、軽い炎症のような光がある。感染症の色ではない。何かへの反応に近い。
「一度、集落を見せていただけますか」
「来ていただけるんですか」
「現場を見た方が、わかることがあります」
ダーグが、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……実は、他の治癒師に頼みに行ったんですが、断られていて」
「そうですか」
「鬼族だから、と……だから、もうどこにも頼めないかと思っていました」
「患者はいつでも、どこからでも来てください」
ダーグが、顔を上げた。
「……先生は、鬼族だからと言って、態度を変えないんですね」
「変える理由がありません。腹を下している患者がいる。それだけです」
ダーグが、もう一度頭を下げた。
◇
翌日、集落を訪れた。
デッドエンドから馬で半刻ほどの場所に、天幕が並んでいた。遊牧民らしい、移動を前提とした住まいだ。羊の群れが、近くで草を食んでいる。
集落の長が出迎えた。七十代ほどの、白髪の老人だ。角が立派で、金色の目が鋭い。
「わざわざ来ていただいて」
「診させていただきます。いくつか聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「腹を下している方は、主にどの年代ですか」
「若い者が多いです。三十より下、くらいか」
「年配の方には症状が少ない」
「そうです。なぜかはわからないが」
「食事の内容は、若い方と年配の方で違いがありますか」
長が、少し考えた。
「基本は同じだが……最近、若い者が商人から何か仕入れていると聞いた。何を買っているのかは知らないが」
トーコが、ダーグを見た。
「何を仕入れましたか」
ダーグが、少し目を伏せた。
「……乳、です」
長の顔が変わった。
「ダーグ、お前たち」
「長老、聞いてください。昔から、乳を飲むなという掟があります。でも……なぜ駄目なのか、誰も教えてくれなかった。ただ駄目だと言うだけで。だから、試してみたんです」
「掟を破ったのか」
「おいしかったんです。最初は。でも、しばらくして腹を下すようになって……でも、掟の理由がわからないから、やめられなくて。身体が慣れれば飲めるようになるかと思って」
長が、深いため息をついた。
トーコが言った。
「わかりました」
◇
「乳糖不耐症、という体質があります」
トーコが、長とダーグ、そして集まった集落の者たちに説明した。
「乳の中に、乳糖という成分があります。これを分解するためには、体の中に特定の酵素が必要です。その酵素を持たない人間は、乳を飲むとうまく消化できず、腹を下します」
「……それが、私たちなのですか」
「鬼族の方々は、先天的にその酵素を持ちにくい体質のようです。生まれつきの体質で、欠陥ではありません。ただ、乳を飲めない身体なのです」
「掟の理由が」
長が、静かに言った。
「昔の者たちは、なぜそうなるか言葉では説明できなかったのだろう。でも、経験から知っていた。だから掟にした」
「そう思います」
「ダーグたちは、掟の理由を知らずに破った」
「はい。しかし、理由を知らなければ守ることも難しい。掟を作った人たちも、理由を伝えなかったことで、こういうことが起きた」
「……おっしゃる通りだ」
長が、ダーグを見た。
「お前たちが悪いのではない。伝えなかった我々の落ち度もある」
ダーグが、頷いた。
「今後、乳は飲まないようにします。でも……治りますか、今の症状は」
「乳を断てば、数日で落ち着きます。今は腸が炎症を起こしています。薬草で抑えることもできます」
「助かります」
トーコが、薬草の調合方法をダーグに伝えた。
◇
帰り際、長がトーコを呼び止めた。
「一つ、聞いていいか」
「どうぞ」
「なぜ、来てくれたんですか。他の治癒師は断ったと聞いたが」
「患者がいたので」
「鬼族だとわかっていて」
「関係ありません」
長が、しばらくトーコを見た。
「我々は長い間、迫害されてきた。人食いという噂は嘘だが、否定しても信じてもらえない。だから、外の者には頼れないと思っていた」
「そうですか」
「あなたは……信用していいのですか」
「それはあなたが判断することです。私は患者を診ました。それだけです」
長が、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「何かあればまた来てください。あの病院は、誰でも来られます」
「誰でも」
「はい。鬼族の方も、人間も、魔物も」
長が、目を細めた。
「魔物も、と言ったか」
「セルシウスというフェンリルが、怪我をしたとき診ました。患者は選ばないので」
長が、しばらく沈黙した。
それから、低く笑った。
「……なるほど。そういう人か、あなたは」
「そういう人です」
ダーグが、隣で笑っていた。
◇
帰り道、ミリアが言った。
「先生、乳糖不耐症ってどうして鬼族に多いんですか」
「民族や種族によって、酵素の量が違います。前世でも、地域によって大人になると乳を飲めなくなる人が多いところがありました」
「知らなかった。じゃあ、掟って……知識だったんですね。理由はわからなくても、経験から正しいことがわかっていた」
「そうです。昔の人たちの知恵が、掟になった。でも理由が伝わらなかったので、若い者には守る動機がなかった」
「理由がわかれば、守れる」
「そうです」
ミリアが、少し考えた。
「先生の診察って、そういうことなんですよね。なぜそうなるかを説明して、患者さんが自分で判断できるようにする」
「そうなれば、一番いいと思っています」
「それが大事なんですね」
「はい」
馬が、デッドエンドへの道を進んでいた。
シルフィが肩の上で「きゅ」と鳴いた。
魔力視に映るのは、穏やかな翠の光だ。
遠くに、病院の建物が見えてきた。




