21話 書類を書く音
「……買わせてもらおう……」
苦渋の決断、という雰囲気で店長が言った。
実際苦しい決断だろうな、とセルナは思った。顧客名簿の流出は商会が潰れるレベルの打撃を受ける。
これが普通の名簿ならそこまで問題にはならないが、完全に違法な売買に手を染めている者たちの名簿なのだ。その中には貴族の名前も多く含まれている。
「……小切手をセルナ嬢に返せ」
店長が言って、事務員がカバンからセルナの小切手を取り出す。不渡りだった6000万円の小切手だ。
事務員がそれをテーブルの真ん中辺りに置く。
それを見てセルナは顧客名簿を小切手の隣に置き、小切手を回収。
事務員が顧客名簿を取る。
セルナは小切手をその場で破いてその紙片をカルラに渡す。
事務員と店長が顧客名簿の中身をパラパラと確認。
「セルナ嬢……」店長が視線をセルナに向ける。「複写などは取っていないでしょうね?」
「それを手に入れたのは昨日。一流の写本職人でも一晩では無理だよ」
実際、セルナは顧客名簿の複製を作っていない。なんせ、これから作るのだから。
セルナはすでに中身を記憶しているので、原本を返しても問題ない。
そして当然、セルナが一晩で暗記したことなど店長は知らないし、夢にも思っていない。
「信じましょう」と店長。
「これで私たちの間には何の貸し借りもないね?」
「ええ。では我々は失礼します」
「まぁ待ちたまえ。そう焦るな。実は他にもいい物を持っているんだ」
セルナが言うと、店長が表情を歪めた。
セルナが左手をひょいと持ち上げると、カルラがカバンから二冊の本を取り出し、セルナに渡した。
「これ、何だと思う?」
セルナが淡々と質問し、店長は頭を抱えた。それが裏の帳簿であることを即座に理解したのだ。
「あの愚図がぁぁぁ……」
ここが公爵家でなければ、店長はきっとテーブルを殴っただろうな、とセルナは思った。
あるいは床に転がって手足をじたばたさせるかも。そう考えたら少し面白かった。
「帳簿まで……」
そう呟いたのは事務員の方。
さっきまで背筋を伸ばして座っていた事務員は、身体の力が抜けたかのようにダラッとした姿勢に。
「商売に帳簿は必須だよね」セルナが言う。「特に大きな商会は売上税を払うために帳簿を付けることが義務付けられている」
店長は何も応えず、ただ短く何度も深呼吸をしている。
「おっと、これは徴税官に見せない裏の帳簿だけどね」セルナが手に持った帳簿を左右に揺らす。「とはいえ、裏であれ表であれ、いつ、どこで、誰にどれだけの金を払ったか、あるいは何を売ってどれだけの利益を得たか。それらを記録しておく必要がある」
身内の横領対策にもなるし、そもそも組織を運営するためには金の管理が必須だ。
SIUにも事務員がいて金の動きと情報の売買を記録している。
「……それが我が商会にとってどれほど大切か……ジェイソンだって知っていたはずなのに……」
怒りを通り越した店長は、泣きそうな表情で言った。
店長はジェイソンがセルナに渡したという言葉を信じている。
(冷静になってもジェイソンが裏切ったと信じているわけか。元からジェイソンとは上手くいっていなかったということだね。いつか裏切るかも、という疑念があったのだろう)
セルナはそう判断した。
ジェイソン自身も、親も祖父も自分が人質になっても金を出さないと言っていた。つまり、この家族には愛情も信頼も何もなかったのだ。
セルナはふと、『カルラが人質にされたら私はどうするか』と考えた。
でも考えるまでもなかった。答えは『いくらでも払うからカルラを返してくれ』だ。そしてカルラが無事に戻ったら攫った奴を粛清する。
「さて店長、ここからは商談だよ」セルナいつもより元気よく言う。「今ならなんと、この裏帳簿が二冊セットで1億リブラ! お買い得だよ!」
その様子が可笑しくて、カルラが背後で笑いを堪えていた。そのことを気配で察して、セルナはちょっと照れた。
「いいい、一億……!?」
驚愕の表情を浮かべたのは事務員の方。
店長は世界の終わりを目撃した時みたいな絶望的な表情をしていた。
セルナは帳簿をテーブルに置いた。ずっと持っておくのが面倒になったからだ。
「今日買わないなら、私は別の人間に売るよ?」セルナはあえてニヤニヤしながら言う。「だってこれ、欲しがる人間は山のようにいるだろう?」
セルナは盛った。実際のところ、情報ギルドぐらいしか買い手が思い浮かばない。個人でこの帳簿を欲しがる人間に心当たりはない。
「私を殺して奪おうなんて考えない方がいい。なんせ、君らが帰ったらすぐに売るから。君らが殺し屋を手配する頃にはもうこいつは別の人間の手の中さ」
「そんなことは考えていない……」
店長はそう言ったが、実際には考えたはずだ、とセルナは思った。
「そうかい? とりあえず1億で君たちの安全が買えるわけだけど、どうする? 私はどっちでもいい」
「……確約が欲しい」
「確約?」
「セルナ嬢が……二度と我々に関わらないという確約だ。どんな形であれ、セルナ嬢とは二度と関わりたくない」
「口約束でいいのかね?」
セルナが言うと、店長が首を横に振る。
「正式な契約書を結んでもらう。違反した場合はセルナ嬢が買ったものを公開し、さらに違反金として2億リブラを徴収する」
「なるほど」とセルナは少し考える。
正式な契約であるならば、法的な効力がある。内容が違法だろうと関係ない。要するに、これ以上何かするなら共倒れも上等というわけだ。
「いいだろう。でも君たちも、私や私の周囲に手を出さないと記しておけ。犯罪組織をけしかけられたら面倒だからね。もちろん、その場合は反撃するし、私が死んだら公爵家は君らを1人も生かしておかないだろうけど」
「それでいい。帳簿は1億で買おう。おい、契約書を作れ」
店長が言うと、事務員がカバンから契約書の用紙を取り出す。そして万年筆でスラスラと契約内容を書き込んでいった。
その用紙は二枚重ねになっていて、上の文字が下の紙にも写される仕様になっている。
万年筆で字を書く音だけが応接室に響く。いい音だ、とセルナは思った。たくさんの書類にサインをしていた前世を少し思い出した。
前世では志半ばで殺されたが、今世では必ず理想に到達する。なんせ、今世には前世のような明らかにヤバい奴がいないのだから。
前世では少なくとも2人、超えられない壁のような者がいた。国際連盟の盟主と戦闘傭兵国家の傭兵王。人知を超えた者たち。少なくとも、この世界ではそういう存在の話は聞いたこともない。
人知を超えそうだったアレシアはすでに死んだし、今後もそういう者を見つけたら成長する前に粛清すればいい。
「どうぞ、確認してください」
事務員が契約書をクルっとセルナの方に向けてから、テーブルの真ん中辺りまで移動させる。
セルナは契約書を手に取って隅々までチェックした。特に問題はない。
「よろしい。これでサインしよう」
セルナが言うと、カルラが万年筆をセルナに渡した。
セルナはサラサラと自分の名前を書いてから契約書を戻す。
店長がサインをして、二枚目の紙をセルナに渡す。
「控えだ。1億は小切手でいいな?」
「ああ。でも不渡りは勘弁しておくれよ?」
「……セルナ嬢じゃないんだ。心配しなくていい」
そう言って、店長が事務員に視線を向ける。
事務員はカバンから小切手を出して金額を書き込む。
セルナが小切手を受け取って、取引が終わった。
「……もう何も持ってないだろうな?」と店長。
「もうないよ。帰っていい。さようなら。もう会うこともない」
セルナが言うと、店長と事務員が挨拶もせずに立ち去った。
もちろん帳簿は二冊とも持って行った。
「これでアンシェル一家が雇えますね」とカルラ。
「ああ。早速、明日にでも依頼しよう」




