1.不思議な奇跡
そこは見晴らしの良い高台の上だった。
なだらか、というにはやや急な斜面の向こうには、平原や、森。遠くを見やれば、連峰の影。
太陽は正面の上方、やや左より。時間が連続しているのであれば、私は今、南の方を向いていると考えられる。でも、夏の太陽にしては低い位置にあり、ここが家とは全然別の場所であると推測できるため、断定もできない。
そこでふと違和感を感じたので、思考を中断して、改めて意識的に空を見る。
そうして見上げた空一面には、よく見れば空の青に溶け込むような淡い色合いの光が、まるでオーロラのように揺らめいていた。
その光景は、私が不安や疑問を忘れて見入ってしまうくらいには、不思議で、美しく、幻想的な光景だった。
そうやってぼうっとしていたのはどの程度の時間だっただろうか?
「カノ、大丈夫?」
その私を呼ぶ声に、ハッ、と現実に引き戻される。そのニックネームで私を呼ぶ人は、限られているから。
咄嗟に周りを見回すが、望む人の姿はもちろん、人の姿自体どこにも見当たらないし、不審なものも何も無い。
そもそも、先ほどの声はカレの声ではなかった。解っていたはずのことだが、この場所の不思議な雰囲気が、もしかしたら、という期待を無意識に抱かせたのかも知れない。
そんな、軽い落胆で冷静になると、改めて心に引っかかりを覚える。
――何も、無い?!
慌てて後ろを振り返るが、そこにはやはり、“何も無い”。
そう、くぐってきたはずの“扉”は、消え失せていた。
「……どう、いうこと……?」
その事実に、呆然となって、思考が働かない。いったい何が起きているのだろう?
「カノ? ……カノ!!」
再び私を呼ぶ声。それは確かに聞こえる。さっきのもやっぱり空耳ではなかったのか。
そうなると、さっきは有り得ないと自然に除外していた可能性を考慮しないわけにはいかない。
この場所に私以外の人はいない。――そう、“人”は。
ならば考えられる可能性は――。
「ナツ、……なの?」
「……やっとちゃんとこっちを見てくれた、カノ」
「えっと……、ナツがしゃべってる……の?」
「そうだよっ」
そのナツの姿は、嬉しそうに「にゃー、にゃー」と鳴いているだけのように見えるのに、その声は確かに言葉として私の耳に届いている。
本当に、今、私達の身には何が起きているのだろうか? 立て続けに起こる不思議な出来事に、理解が追いつかない。というか、心が理解を拒絶しているのかも知れない。
私は、すっ、と、自然な動作で屈み込むと、ナツの脇に手を入れて持ち上げるように立ち上がらせる。そのまま親指をスライドさせて、ナツの前足へ。
――ふにふに。
――ぷにぷに。
「……ぅにゃぁぁ………………………………。…………? ……!! カノッ!!」
また怒られた。でも――。
「……気持ち良い時は普通に鳴き声のままなんだね……」
「知らないよっ! ……とにかく、現実逃避にボクを使うのはやめて!」
「……はぁい」
「……にゃぁ……」
今のは溜息っぽい。無意識に出るような言葉は鳴き声のままなのだろうか?
「とにかく。カノ、あっちを見て」
そう言ってナツが右の前足で指し示した方向、私が最初に向いていた方向のやや右手側を見ると。
木々が立ち並んだ辺りのさらに向こう、大きい道が続いていく先に、結構長い壁が囲うようにして、その内側には建物が並んでいるように見える。ここから見えているのは手前側の一部という感じで、その全景が見えているわけではないが、規模はかなり大きそうだ。
その場所は、壁に囲まれた町、のようではあるのだが、そう断言するには、何となく、違和感があるような気もする。かなり遠くて細かい部分が見えないからなのか、現代的なビルのような判りやすい建物が見当たらないからなのか。とにかく、ここでこうして見ているだけではその違和感の正体は分かりそうにない。
「……あそこがどうしたの?」
「あそこに、ボクのお仲間がいるみたい」
「お仲間って……、ネコ? ……分かるの?」
「何となく。じゃあ、行ってみようか」
私の疑問の後半にだけ答えて、ナツはスタスタと歩き出す。
「えっ? ちょっと、ナツっ!」
何が何やら分からないことだらけだけれど、ここに居ても何も分からないままなのは確かだし、今はナツしか頼れる存在はいない。
慌てて追いかけようとして、さっきまで家の中だったことを思い出して足元を見ると――。
「……なんで?」
いつの間にか、さっきまでのスリッパではなく、普段使っているスニーカを履いていた。
その事実にますます混乱するけれど、すぐに、訳が分からないのは今更だ、と、開き直る。
気を取り直して、ゆっくり歩いて行くナツを見れば、その尻尾はいつもよりも元気に振られている。
そんな、ちょっと浮かれているように見えるナツの後ろ姿には、そこはかとない不安も覚えてしまうけれど。
ここは大切な家族のことを信じよう、そう決めて、私は急いでナツの後を追いかけた。
――いつもより元気なのは、尻尾だけじゃなかった。
斜面を下った先にあった、横に腕を広げた大人が十人以上横に並んでも余裕で収まりそうな程に広い、石の敷かれた道。それに沿って目的地の方向へ少し歩き、森に差し掛かると、ナツが道の端ヘススッと走り出した。と思ったら、そのまま木にするするっ、と登り、枝から地面へジャンプを敢行する。
「ちょっ! ナツッ!?」
――何故だろう? 今、ナツが木に登った瞬間、どこか恐いような、そしてそれだけでもない、なにか複雑な気持ちがグッと湧き上がって、思わず大きな声が出てしまった。
ナツはそんな私の声をさほど気にするでもなく、何食わぬ顔で道に戻ってきて、私の前を歩く。
「……ねえ、ナツ、平気なの?」
「ボクは平気だよ、カノ。久しぶりに思うように動けるから、ちょっとはしゃいじゃった」
確かに、今のナツは昔のような元気な動きを見せている。むしろ、最盛期の時以上に動けているようにさえ見える。
ふと、若い頃ならひとっ飛びで登っていた段差に飛び乗ろうとして壁に激突し、それを見ていた私と視線が合った途端にごまかすように顔を洗い始めたナツの姿を思い出したが、今のナツにはそんな微笑ましいシーンは望めそうにない。
「ナツ、何でそんなに元気なの?」
「……きっと、ボクの願いが現実になっているから」
「願い……?」
「元気に動けるのも、……カノとお話しできるのも」
「……そっか」
少し胸に、じん――、と来た。
今、ナツと言葉で意思の疎通をしていることが、ナツがそれを望んだ結果であるなら。それは私にとって、思いがけず嬉しいことだったみたいだ。
だって、猫は時に素っ気なく、私の愛情が一方通行のように感じてしまうから。だから、ナツが私とお話ししたいと思ってくれていたことが、嬉しいと感じるのだろう。
どうしてナツの願いが叶っているのか、なんてことは、やっぱり考えても仕方ないんだろう。だから、この不思議な奇跡を、今は素直に喜びたい。
改めて私の前で元気に動き回るナツを見れば、その姿はとても上機嫌に見える。
今この胸に湧き上がった嬉しさに任せて、ナツを思いっきり撫で回したい気持ちはあるけれど、こういうときのナツにベタベタすると機嫌を損ねてしまう。
なら、今は我慢して、甘えに来てくれた時に思いっきり甘やかしてやろう、と思う。
大丈夫、その機会はさほど遠くない時期に訪れるだろう。
だって――、猫っていうのは本当に、気まぐれなのだから。