プロローグ
夏の空の色が大好きだった。でも今は、その蒼が悲しい。
他の季節よりもその濃さを増した空は、深い海を連想させて、もう届かない大切な人達への想いが、その底に沈んで行ってしまいそうで。
だけど、痛みだけは、確かにここに残されたままで。
気が付けば流れている涙も、この痛みを、あの空の向こうへ流し去ってはくれない。
いまでも。もしかしたら、いつまでも。
喪失の痛みは、それが強いほど、在りし日の愛情の強さを証明しているように思えるのに。
それでも容赦なく想いを遠ざけようとする“時”は、だから残酷だと言われるのだろう。
想いが色褪せる前に、愛する人達を愛したまま、私も一緒に失われてしまえたら。
それも一つの幸せなのではないか。
この、夏の空の色に、そんなことを思う。
それでも私は、ここにまだ生きている。
「……ぅにゃうぅん……」
それはきっと、この、唯一残った家族が、私を繋ぎ止めていてくれるから。
だらん、とだらしなく寝ていた状態からむっくり起き上がると、前足を前方に、お尻を上に突き出すように背中を反らせて、ぐうっ、と伸びをする。――共に暮らす大事な家族、猫のナツだ。
伸びを終えたナツは、お気に入りの場所を侵食する夏の日差しを嫌ってか、窓際から離れていく。
のそのそ。
のそのそ。
私が物心つく頃から一緒に育ってきたナツは、もう昔のように軽快なステップを見せてはくれない。
両親が、私が生まれる前から飼っていた、ハルカという雌猫の産んだ子供達、その中で唯一里子に出されなかったのが、ナツだ。
私にはその時の記憶はないけど、私がナツだけは抱きしめて離さなかったからね、と、父親から何度も聞かされたものだ(そういった思い出話は大抵、酔っている時に始まる。酔っ払いとは得てして何度も同じ話をすることを疑問に思わないものだ)。
ハルカが私達から隠れるようにして息を引き取ったのは、もう八年以上前になるだろうか。
ナツはもう、その時のハルカよりも長く生きている。
――もし、今、ナツまでいなくなってしまったら?
その考えは、不安や、悲しみや、恐れを。そして、それはそう遠くない未来に避けられない現実となるだろうという、諦観と言っても良いような予感を。私の胸に運んできて、ざわめかせる。
それは、父親と母親と恋人を同時に事故で失ってから、何度も、不意に、私の脳裏に現れてくる気持ちで。
そしてそんな気持ちは、時に、何か無闇に声の限り叫び出したくなるような衝動を、でも、それをしてしまえば、何かが決壊してしまいそうな恐怖を、同時に連れてきて。
そんな時、私は、身をすくめて、嵐をやり過ごすように、ただ耐える。
今もまた、心の中では、ぎゅっ、と、精一杯に身を縮こめて。
そうして衝動をやり過ごし、でもまだ少しざわついたままの気持ちでナツの方を見ると、扉の手前で振り返ったナツが、じっと私を見つめていた。
その視線には、なにか、強い想いが、こもっているように見える。
「ナツ? ……付いて来いって、こと?」
不思議と、そんな気がした。
「にゃっ」
尋ねた私に、微かに頷くようにして一声。
ナツは、私が立ち上がるのを確認すると、リビングの扉の下方に設置された、ナツ専用の出入り口を押しくぐった。
リビングを出ると、玄関とは反対の右側に向かうナツの後ろ姿。
ふにゃりふにゃりと左右に揺れる尻尾に目を奪われていると、ナツはそのまま廊下を進み、そして不意に立ち止まる。
「……ナツ?」
私が問いかけると、ナツは私を見て「んなーお」と一声上げると、横の扉に向き直り、上体を起こし二足立ちになって、その扉をガリガリと引っ掻き始める。
「……そこに、何かあるの?」
それはナツが「あけて、あけて」とお願いする時の動作だが、そこは物置として使っている部屋で、ナツがこの部屋にこんな風に興味を示したような事は、最近はほとんど無かったはずだ。
猫が何もない虚空を見つめている、なんてことはあるある話ではあるけど、私に見えない何かをナツがそこに見ている、なんてことは……無いよね?
そんなことを考えてしまうと、ちょっと確かめるのが恐くなるが、確かめずにいるのはもっと恐くなる。
私は心持ち慎重にナツの元へ向かうと、扉の周りに変なところがないかを確かめる。
「にゃぁ」
私の不安を知ってか知らずか、ナツはそんな風に私を急かす。
「……分かったよ。……はぁ」
だから私は、溜息のようで深呼吸のようでもある一息と一緒に不安を吐き出して、ドアノブを下ろし、扉を押し開いた。
六畳ほどの物置は、片側に天井までの棚が設置されて、消耗品のストックや季節もの、非常用の備えなどが収められていて、入り口から正面の壁にはやや高いところに小さい窓が設置されている。そして今も、それら自体には何の異変も見られない。――そう、それら自体には。
だけど、扉を開いた私は、まず、自分の目を疑うことになった。
開いた扉の先、私の目に真っ先に飛び込んできたのは、部屋のほぼ中央、そんなところに有るはずのない、“扉”だった。
その形はどう見ても扉で、だけどそんな場所にある以上、扉としての働きを果たすものであるはずはなく、でもやはりそれは“扉”としか形容できない。
慌てて周りを見回すが、先述の通り、他におかしな所は何も無い、確かにいつもの物置の中だ。
改めてよく見れば、その“扉”は淡く光を放っているように見える。それは決して窓から差し込む光の加減というわけではなさそうで、余計に訳が分からなくなる。
目の前の現実とは思えない光景に、私は悲しみのあまり幻覚を見るようになってしまったのではないか、とさえ思えてしまう。
両親はこの家を含め、とても多くのものを私に残してくれたが、親族は皆いい人達で、話に聞くような醜い相続争いのようなこととは無縁だった。
だから、というわけではないだろうが、一連の手続きなどが落ち着いた後にすぐ訪れた凪のような日常で、私は大学へも行かず、ナツと一緒に、ただ生きる為の最低限だけをこなしながら、無気力に生きてきた。
そうした日々は、私の気付かぬうちに私の心を削り取っていて、その結果として、今、こんな幻覚なんかを見ているのではないか、と。
だけど、そんな考えこそが現実逃避だった。
足首の辺りに優しい何かが触れた感触が私を現実に引き戻す。
反射的に目を向けた足元には、その蠱惑的とさえ言える感触の肉球をぽむぽむと私の足首に叩きつける、ナツの姿。
そして、視線を前方に戻せば、やはりそこには、あるはずのない“扉”が、確かに存在していて。
「……分かったよ、ナツ。……はぁ」
今度は純粋な溜息一つ。そして私は、目の前の現実をただ認めることにした。
理由とか、理屈とか、きっと考えるだけ無駄なのだろう。
――すっ、と、私は自然な動作で屈み込んで。
考えても分からないことをいちいち考えるくらいなら――、こうして、ナツの肉球をプニる方がずっと有意義な時間の使い方というものだ。
「……ぅにゃぁぁ………………………………。…………? ……!! ニャッ!!」
怒られた。自分だってずいぶん気持ちよさそうにしてたくせに……。
「……で? ナツは私にこの扉を見せたかったの?」
ナツは返事の代わりにのそのそと“扉”まで歩いて行くと、またガリガリと、私に“扉”を「あけて、あけて」とせがむ。
「……だよねぇ……」
気乗りはしないけど、やっぱり確かめないのも気持ち悪い。
“扉”に近付き、まずは奥の方に回って裏側を見てみたが、扉の裏側があるだけだった。ただ、そちら側に取っ手は無く、開けられるのは入口側からだけのようだ。
その不自然さには嫌な予感を覚えるが、そもそもこんなところに扉があることが不自然なんだから、と、改めて覚悟を決める。
家の扉のレバー式とは違う、“扉”の丸いタイプのドアノブに手を掛ける。
捻ると、扉はまるで摩擦抵抗など無いかのように、音も無く奥へと開いた。
そして、私がその扉の向こうに見たのは――“外”の景色だった。
本作をご覧頂き、ありがとうございます。
私の今までの投稿作品はテスト用作品を除いて、完結まで書き上げてから連日投稿の形を取っていましたが、本作は当エピソード投稿時点でまだ最後まで書き上げていませんので、次回投稿は少し先になります(どうしても猫の日に投稿したかったのです)。
それほど長い作品にはならないと思いますので、週一回投稿のペースで最後まで完走できたら良いな、とは思っていますが、何分、筆者は遅筆なもので、そのペースは守れないかも知れませんが、読んでくれた方々に「猫がかわいいだけの小説だった」と言っていただけるよう、ベストを尽くしますので、見放さずに最後までお付き合い頂けたら嬉しく思います。




