14.さいごの願い
「ふぁ~~~あ」
少し気が抜けたのか、大きな欠伸が出てしまった。
「ふふっ。カノ、疲れた?」
カレに笑われたのは、ちょっと恥ずかしいけれど。未だにこうやって優しく声を掛けられると、心がふわっと、嬉しくなる。
「うん、ちょっと、はしゃぎ過ぎたかも……」
「でも、それだけ楽しかったってことでしょう? 私も楽しかったから、一緒で良かった」
カレはそう言って、さっきとは違う笑みを浮かべる。
初めて出逢った頃は、いつもムスッとしていたようなカレが、今はこうして、私に心からの笑顔を向けてくれる。それもまた、堪らなく嬉しい。
「眠いんだったら、寝ていても良いんだぞ?」
運転席の父さんが、ミラー越しに私をちらりと見て、そう声を掛けてくれる。
「ん。大丈夫。……なんか、寝ちゃうのは、もったいない気がするし」
「……そうか」
その呟くような父さんの声からは、どこか、嬉しそうな響きが感じられる。きっと助手席の母さんも、いつものように微笑みを浮かべているのだろう。
私とカレの交際に、最初は戸惑ったり心配したりしていた両親も、今ではこうして認め、受け入れ、カレとも本当の家族のように接している。
ありふれた日常の延長線上に、ただ有るだけの今が、とても特別な、かけがえのない時間のように思えて。
――今、私は、幸せだ。
言葉にすると、恥ずかしいような気もするけれど。だけど、心は確かに、そう感じている。
そして、前方のカーブから――そのバスが現れた。
「――ッ! ……カノッ! カノッ!!」
私に強く呼びかける声が聞こえて、瞼を開く。
――あれ? えっと……、何が、どうした? ……そうだ、バスが……!
顔を上げて前を見ると――助手席の背もたれが近い。そして、そこに、居るはずの人は、見えなくて。ただ、そこに、あるのは――。
ありえない。
わからない。
わかりたくない。
ぼんやりとした頭は、殴られたように覚醒して。でも、そんな言葉ばかりが駆け巡り、その意味と、目の前の現実は、結びつかない。
頭の中が混乱している。それだけは分かる。
思わず身じろぎした足元で、――ぴちゃり、と、音。
そして、鼻に届いた臭いに気付く。それは、ガソリンと、そして、鉄のような、だけど、これは、赤い――。
――わかりたくない!
息が詰まる。喉の奥から、胸の奥から、迫り上がるように、叫び声が――。
「カノッ!!」
「――ッ!」
私が我を失う直前に、強く呼びかけられて、踏みとどまった。愛しい、カレの声が、踏みとどまらせてくれた。
「……あぁ……。……ああ……!!」
でも、体中が震えて、まともな言葉が出てこない。
縋るようにカレの方を見ると――カレは、私の肩に手を置いて、真剣な眼差しで、私を見つめる。
「落ち着いて、カノ。そして、私の言うとおりにするの。いい? ……まず、シートベルトを外して」
ゆっくりと、そしてはっきりと伝えられたカノの言葉に頷いて、震える指でボタンを押し込むと、ベルトが緩んだ。
「よし。……次は、ドアが開くか確認して」
言われるままに振り返り、ドアを見れば、ロックは外れているのか、ドアは僅か、外に開きかけている。
何とか腕だけを伸ばして押すと、少し抵抗があったけど、ちゃんと開いた。
「よし。……次は……カノ、慌てずに外に出て」
思わずカレの方を振り向く。
「カノ。こっちのドアは歪んで開かないの。だから、そっちのドアから、カノが、先に出て」
カレの声は静かに、だけど、有無を言わさないような、強い意志に満ちていて。私は、歯を食いしばって、震える身体をほんの少しずつ、ドアへと寄せていく。
「……カノ、そのままで聞いて」
それは、いつもよりももっと優しい声で。
「あなたに出逢って、私は初めて、私の幸せを見つけた。それは、あなたが、幸せであること」
……どうして?
「私がカノを幸せにしてあげられたら、それが一番だけど。でも、あなたが幸せなら、それは、些細なこと」
……なんで今、そんな話をするの?
「だから、カノ、お願い。辛くても、乗り越えて。新しい幸せを、諦めないで」
……ねえ、カレ。何を、言っているの?
私はシートの縁で動きを止めて、カレを振り返ろうとして。
「美花乃ッ!! 生きなさい!!」
外へ、突き飛ばされた。
「生存者がいるぞ!」
「大丈夫か? 怪我は無いか?」
「まだ中にもいる!」
「足を挟まれてる! 誰か、ジャッキは無いか! 梃子になる物でも良い!」
「ガソリンが漏れてる! 急いでくれ!」
そんな周りの“音”が、聞こえるけれど。意味なんて、わかるわけない。
誰かに車から引き離された私は、ゆっくりと、ぼんやりと、カレの方を見る。
その顔は、いつものように、私に微笑みかけていて。
……ああ、いつも通り。だから、大丈夫。
そう思おうとして。だけど、次の瞬間。
――ゴゥッ!!
突如巻き起こった炎に、カレが、父さんが、母さんが。全てが、ああ……! 飲み込まれてしまう!
明るすぎて、暗くなっていく世界で。その景色が、意識の、とおく、遠くへ。
私は、遠ざかる大切なものたちを掴もうと、目一杯に、手を伸ばしたけれど。
その手が届く、その前に、世界は遂に、漆黒に塗りつぶされた。
――ざりっ、ざりっ。
頬骨の辺りに何かがこすれる感触を覚えて、私の意識が浮上した。
ゆっくりと目を開くと、目の前には、ナツの顔。
「カノッ!? カノッ、カノッ!」
「……ナツ……」
よろけながらも上半身を起こして見れば、そこはベッドの上だった。
私のおなかの辺りに、ナツが、私を責めるように、私に甘えるように、頭をぐりぐりと押しつけてくる。
私はそのナツの背中を撫でてやりながら、辺りを見回す。
――ここは?
私は、事故に遭って……。
――違う。
ナツが喋っている。私は、不思議な世界で……、そうだ。町が、炎に包まれていて。だから、私は――。
さっきまで夢で見ていた光景を、しっかり覚えている。そう、覚えているのは、夢じゃないから。
あれは、記憶。
私は、事故に遭った時、そのまま意識を失って、病院で目を覚ましたのだと、ずっとそう思っていた。
だけど、違った。
私は、こんなにも大切な事を、忘れてしまっていたんだ。
――でも、私は取り戻したんだ。
まだ、心の中は、整理のつかない想いで一杯だけど。
「……カノ……」
私を見上げるナツの、心配そうな声。
私の目からは涙が溢れ出し、止め処なく流れている。
「……大丈夫だよ、ナツ。悲しいけど、悲しいだけじゃ、ないから……」
それはきっと、私が、事故以来初めて、ちゃんと大切な人達を想って流した涙だった。




