11.一つの、幸せ
マドルさん達が帰ってきてからすぐ、列車の出発準備が整ったという放送(やっぱり!)を聞いた私達は、日が暮れきらないうちに車上の人となっていた。
個室の中に入ると、テーブルには猫の餌用の容器と、どんぶり。先ほどの駅にも食事を提供するラウンジがあったから、そこから運び入れたのだろうか?
どんぶりの蓋を開けると、中身は牛丼。なんで? とは思ったが、嫌なわけでもなかったので、取りあえず頂くことにした。その味に不満はなかったが、お味噌汁は付けて欲しかったな、と思った。
ナツの食事は、缶詰の中身だろうか、フレークタイプの餌で、家では昔ナツが下痢をしてからあまり与えていないものだ。だけど、とても満足そうに口の周りを舐めるナツを見ると、もう少しウェットフードの機会を増やしてあげても良かったのかな、なんて思う。
そして、食事を終えて、不思議と温かいままのお茶を一服する頃、入り口の方からブザーが鳴った。
扉をスライドさせて開くと、そこにあったのは、やや小さめのワゴン。
「お食事はお済みですか? 食器の回収に参りました」
そんな声は、更に足元から。見ればそこに、耳の間にちょこん、と、小さなブリムを頂く猫。服は着てないが、白と黒の毛色のおかげで、いかにもメイドさんっぽい。初めて見る、ケトさん以外の乗務猫だ。
食器をワゴンに乗せてあげると、ぺこり、とお辞儀をして、ワゴンを前足で押すと同時に支えにして、後ろ足二足で歩いて行く。
その尻尾はバランスを取るように左右に揺れて、あまりの愛らしさに、ついつい扉の向こうにその姿が消えるまで目で追ってしまった。
その後、外が暗くなったため景色を眺めることもできなかった私は、就寝までの時間を、他の猫にデレデレしていたせいでそっぽを向いてしまったナツのご機嫌を取って過ごした。
翌朝。
「ようこそ、ウェヴェラフヘ」
新たな土地を踏んだ私達を迎えたのは、全身をきめ細かい絨毯のようなブルー(灰色)の毛並みに包んだ猫。その少しどっしりした感じだと、ロシアンブルーではなくシャルトリューだろうか。とはいえ、ただの個体差かも知れないし、そもそも、こちらの世界に元の世界の常識を当て嵌めてもしょうがないのかも知れないのだけれど。
「ようこそ、旅人さん達。俺はジロゥ。そして、こいつはアディエで、うちの自慢の家族さ」
そして、そう挨拶してくれたのが、飼い主のジロゥさん。イントネーションが違うし、顔立ちも日本人っぽくはないので、次郎(または二郎)ではなさそうだ。
「よろしくお願いします」
「にゃーん」
「なに、こちらこそ、だ。旅人なんて、そう頻繁に訪れるわけじゃないからな。その世話をできるってだけで、自慢になるってもんさ。アディエにいきなり、付いて来い、なんて言われた時は何事かと思ったが、こういうことなら大歓迎さ。……ただなぁ……」
そこでジロゥさんの顔が曇る。
「ああ、君達に問題があるわけじゃないぞ。ただ、うちは子供が四人もいて少々手狭でね。どうしたものか、とね」
「ご主人、ご主人の母上も家族の一員です。あちらの家なら余裕があるのでは?」
悩むジロゥさんに、アディエがそう提言するのが、私にも聞こえた。ナツが他の人に話す時は鳴き声にしか聞こえないから、ちょっと不思議に思ったけど、アディエが意識的に私達にも分かるようにしてくれたのだろうか?
「なるほどな。そういや最近は顔を出してなかったし、ちょうど良いか。……旅人さん、掃除とかに少々時間をもらうかも知れないが、それでいいかい?」
「もちろんです。ありがとうございます」
そうして私達は、今はジロゥさんの母親が一人で住むという家に案内されることになった。
「お袋ッ!」
家の奥から聞こえてきたのは、ジロゥさんの緊迫感のある声。
それは、呼び鈴を鳴らしても反応がない上に、扉に鍵も掛かっていないことを訝しんだジロゥさんが、アディエと共に様子を見にいってすぐのことだった。
そのただ事ではない様子に、私達も思わず中へと駆け入った。
「ああ、旅人さん、お袋が……!」
見れば、ベッドに上体を突っ伏すようにして苦しげに呻く、高齢の女性。
「ジロゥさん、落ち着いて下さい。病院は近いですか? 運ぶ必要がありますか? それとも、医者にこちらへ来てもらえますか? 私は“ここ”のことはよく知りません。ジロゥさんがしっかりしないと!」
「ああ……! そうだ、医者だ。大丈夫、来てもらえる。早く呼んでこなければ!」
「ジロゥさん、近くに他のご家族はいますか? ここに私だけでは不安です、もし呼べるのであればそれもお願いします」
「ニャッ!! ニャッ!!」
「アディエ……、そうだな、頼む。……旅人さん、家族はアディエが呼んできてくれる。俺は医者を連れてくる。それまで、お袋を頼む」
少しは落ち着いた様子のジロゥさんは母親を抱え上げてベッドの上に寝かせると、アディエと共に慌てて外へと駆けていった。
「……旅人さん」
「! ……大丈夫ですか?」
苦しそうにしていたジロゥさんのお母さんが、ベッド脇でただその様子を見ていることしか出来ない私に、突然囁くように話しかけてきて、慌てそうになったけど、何とか落ち着いた声で応えることができた。
「……ありがとうね、息子を連れてきてくれて……」
苦しそうな顔に、それでも私に向かって弱々しい微笑みを浮かべて、ジロゥさんのお母さんは、そう言った。
「……そんな。私は何も……」
痛々しさに胸が詰まりそうになって、私はただ、それしか言えない。
「いいえ……。……息子が、間に合ってくれたのは……。あなたのおかげ……」
所々、痛みに耐えるように言葉を切って。何も言えずにいる私に、伝える。
「ジロゥにはね、兄がいたの……。ジロゥが生まれる前に、亡くなってしまった……。ああ……子供に、先立たれる。あれほどの不幸は、ないわ……。だけど……。ジロゥは、立派に育って、家庭を持って。孫の顔も、見せてくれて。……私は、最期に、一人じゃなくて。あの子達に看取られて、逝けるなんて。……私にとって、これ以上の幸せは、ないのよ」
――どうして。
苦しいはずなのに、辛いはずなのに、恐いはずなのに。どうして、こんな、心の底から幸せそうな笑顔を、浮かべることができるのだろう。
そんな顔を見せられれば、これ以上の幸せはない、と言ったその言葉が、強がりでもなく、私への慰めでもなく、ただ、本当のことを言っているだけなのだと、信じずにはいられない。
私は今、こんなにも悲しいのに。良かったと、思えてしまう。
「……だから、ありがとう、旅人さん。……ふぅ……。聞いてもらって……。少し、気が紛れたわ……」
ジロゥさんのお母さんがそう言って、また私に弱々しく微笑む。
私は変わらず何も言えず。頭の中で、考えにならない考えが、言葉にならない言葉で、ぐるぐると廻るようで。
――私は今、どんな気持ちを感じているのだろう?
それさえも、今はまだ定かにはなってくれずに。
ジロゥさんの奥さんとその子供達にベッド脇の席を譲っても尚、私はそんな状態で目の前の光景を見ていた。
「ありがとう、旅人さん」
私に向かって深く頭を下げて、ジロゥさんが母親と同じ言葉を口にする。
「嘘じゃないぞ。……医者によれば、今夜が峠だそうだ。君達が今日来てくれなければ、俺は絶対に母の死に目に会えなかった。本当に感謝してる」
私はきっと、ありがとう、と言われて、困惑するような表情をしていたのだろう。ジロゥさんは苦笑いを浮かべて、そう釈明するように言葉を付け足した。
「いえ。ジロゥさんの言葉を疑っているわけではありません。ジロゥさんのお母さんにもありがとうと言われましたけど、それだって全く疑ってません。ただ、私は最近に両親を亡くしているので、そのせいで今回のことをまだ上手く考えられず、戸惑っているのだと思います」
「……そうか。……その……俺は、君に何も言ってやれないが……。君のこれからが幸せであるよう、祈らせてもらうよ」
「……ありがとうございます」
「済まないな、見送りもできず」
「いえ。お母さんの側にいてあげて下さい」
つい先ほど、列車の出発準備が整ったと放送があった。
ここでのことは、あっという間の出来事に感じたけど、陽はとっくに中天を越えて、西の方へ傾いている。
「それでは……、さようなら」
「にゃぁん」
「ああ、ありがとう。良い旅を!」
そうして私は、未だ形にならない気持ちを抱えたまま、ナツと並んでジロゥさんの家を後にした。




