第5話 変わった人
桜が丘女子高校の学食は、食券制で入り口脇に置かれたガラスケースの中のホログラム映像でメニューの内容を知ることができる。
「わたしはA定食にするわ」と、早川紅葉。そのあと「わたしもA定食」と中川春菜。
今日のA定食はエビフライ定食でタルタルソースがかかった大ぶりのエビフライが2本に大盛りのキャベツと三日月に切ったトマトが添えられている。それにパンかご飯、スープかみそ汁が付いている。
栄養を最優先に考慮された『食品』だけを機械的に摂取していた明日香は、こういったものに縁がなかったので少々戸惑ったが、結局、二人と同じA定食を注文することにして、券売機の前に移動した。券売機には、支払い用のカードリーダーもなければ現金投入口もない。
「これ、支払いどうするの?」
「学食は無料なの」と中川春菜が教えてくれた。
「そうなんだ」
「堀口さんのインターナショナルスクールは有料だったの?」
架空の学校なのだが、この質問で、有料だったことになってしまった。
「うん、有料だった」
「ここは、保護者の寄付で無料みたい」
「そうなんだ。じゃあ、わたしが、じゃなくって祖父が寄付したほうがいい?」
無制限の与信枠を持つ明日香ならではの発想である。
「そんなの気にしないでいいよ」
「それでいいなら、いいけど」そう言って明日香はA定食のボタンを押した。
二人の会話を聞いていた早川紅葉は確かに堀口明日香はかなり変わっていると確信した。
配膳口で食券を渡し、そこで、パンかご飯、スープかみそ汁か告げて、トレイに載ったA定食を受け取り、3人で空いた席に移動した。3人ともご飯とみそ汁を頼んで、カゴに入れられた箸をトレイに入れた。
「お茶、取ってくるね」
そう言って中川春菜がお茶のサーバーまで行って湯呑3個に緑茶を入れてそれをトレイに載せて二人のところに持ってきてテーブルの上に置いた。
「中川さんありがとう」「ありがとう」
「どういたしまして」
「それじゃあ、いただきましょう」と早川紅葉が言って箸を使って食事を始めたので、残った二人も食事を始めた。
「堀口さん、うちの学食の味はどう?」と中川春菜が聞いてきたのだが、明日香にとって食事はエネルギー補給とナノマシン維持用の必要元素摂取行動なので、いままで味など気にしたこともなく、現在進行形で味など一切気にしていなかった。
それで慌てて、エビフライを箸で摘んで一口かじり、ゆっくりその気になって咀嚼した。それで、この食感と味がおいしいという感覚なのだと「定義」してから、
「うん。すごくおいしい」と答えたところ、「よかった」と中川春菜は微笑んだ。
「それで、堀口さん。堀口さんが知っているかどうかは分からないけれど、わたしはNASSOのC級エージェントなの」とそれまで黙っていた早川紅葉が口を開いた。
「誰とは聞いてなかったけど、C級エージェントが同じクラスにいることは鶴井先生から聞いてた」
「堀口さんって適合率高いと思うんだけど、差し支えなければ、適合率を教えてくれない? もちろん嫌なら教えてくれなくていいのよ。ちなみにわたしの適合率は18パーセント」
適合率は個人情報ではあるが、聞かれた場合、たいていの人間は素直に答える。ただ、エチケットとしてよほど親しくなければ適合率を尋ねない。ということで中川春菜は向かいに座った早川紅葉の顔を見た。その早川紅葉はいたってまじめな顔をしている。
「わたしの適合率は16パーセント。それでわたしもNASSOのC級エージェント」
そもそも偽装のステータスに過ぎないので、明日香は素直に答えた。
「やっぱりそうだったんだ」
中川春菜もその答えに納得し、今日の体力測定からいって、2パーセントの差は大きいんだと実感した。
「堀口さん。今度一緒に本部に行って適合訓練しない?」
フル・アダプターの自分には適合訓練は不要なのだが、ここで断るわけにもいかないと『空気を読んだ』明日香は「いいですよ」と答えた。
「じゃあ、次の日曜日。本部のホールに9時に待ち合わせでどうかな?」
「分かった」
「残念だけど、中川さんは本部に入れないから、ごめんね」と早川紅葉がフォローした。
「全然気にしてないから、大丈夫だから。聞いていいのか分からないけど適合訓練ってどんなことするの?」
明日香はそもそも適合訓練など一度もやったことがないので答えようがない。専用端末を使えばすぐに分かるが、そうする代わりに早川紅葉の顔を見たところ、早川紅葉が説明を始めた。
「反射神経を高めるために、ステップワークといって3×3のマス目の中に足を入れて、そのマス目の中を赤と緑の光が動くから、その動きに合わせて足を動かすの。決まった動きの時は簡単なんだけど、動きがランダムになると途端に難しくなるのよ」
「それは想像できる」
「ほかにもいろいろあるけど似たような感じ。あとは、瞬発力を高めるためにジャンプとか30メートルダッシュとか。生体ナノマシンを筋肉になじませるために、全力で400メートルを走るとか」
「400メートル走きつそうー」
「うん。すごくきついわ。そこまではどこでもできる筋肉と運動神経の訓練なんだけど、NASSOの本部とか支部には深層マシンというのがあって、そういった訓練をした後に深層マシンの中に入って体中の神経にナノマシンをなじませるの。それをすることで少しずつ適合率が上がっていくの」
「そうなんだ。じゃあ、反射神経とか100メートル走は何のためにしてるの?」
「反射神経も100メートル走も地の能力を上げるためで、そういう意味では適合訓練じゃないわね。それだけじゃ適合率が上がらないから。でも、それをしてないと深層マシンの効果が薄い。そういう話なの」
そうなんだ。と、明日香は中川春菜同様、早川紅葉の説明に素直に感心した。
とはいえ、明日香の肉体も運動神経も生体ナノマシンの力で常に最高の状態で保たれているので、そんな訓練は無意味だ。フルはマックス、これ以上何も足せないということである。
ただ、彼女の左腋の下のサイドホルスターに入ったナノマシンインジェクターを使って体内にブースト用ナノマシンを強制注入すれば、数分間しか効果がない上にその後の反動があるが、明日香の全能力は最大20パーセント高まる。これまで明日香は実戦で苦戦などしたことはないので、ブーストインジェクターを実戦で使ったことはない。
このブースターだが、フル・アダプターである明日香以外が使用した場合、適合済みの体内ナノマシンが恒久的に破壊され、神経系が回復できない損傷を受ける可能性があることが判っている。ブースターはあくまで、国家の最高戦力であるフル・アダプター専用という位置づけである。
食事を終えて、トレイと一緒に食器類を下膳口に返した3人は教室に戻っていき、それぞれ席に着いた。その様子を教室にいたクラスメートたちが黙って見守っていた。
午後からは、物理と化学が階段教室で行なわれ、教室に戻ってきたところで、ほとんどの者が部活動に行くなかで、明日香は当然直帰組だ。中川春菜は華道部ということで、部室に向かっている。
かばんを持って教室を出た明日香は校門に向かった。
校門の近くに停まっていた迎えの黒塗りのボックスカーに乗り込み、いつもの癖で「なにかある?」と運転手の北村早苗に尋ねた。
「No.2が対応したA級案件が片付きました」
「そう。ほかには?」
「対応中のB級案件4件のうち3件は片付きましたが、1件は継続中です。他に2件のB級案件が起きていますが、いずれも現場で対応しています」
「S級案件はないの?」
「ありません」
「最近わたし、出動すること全然ないんだけど、それで高校に通うことになったのかな?」
「フル・アダプターでしか解決できないS級案件は、統計的に100年に1度あるかないかですから、明日香さんが高校に通うも通わないも関係はないと思います」
「A級案件だとか言われて出ていったのはいいけれど、いつも拍子抜けだものね」
「それがフル・アダプターの力です」
「今日学校で知ったんだけど、適合訓練って、走ったりした後、深層マシンとかいう機械に入るんだってね」
「ご存じなかったですか?」
「わたし、適合訓練なんてしたことはおろか聞いたこともなかったから」
「それはそうですよね。フル・アダプターには目指すべき上がありませんから」
「それで同じクラスにC級の子がいたんだけど、次の日曜にその子と一緒に本部で適合訓練しないかって誘われた」
「それで、どうしたんですか?」
「受けた」
「分かりました。何時の約束ですか?」
「本部の玄関で9時」
「了解です。そのようにお連れします」
「うん」
「それで、初めての学校はどうでした?」
「16パーセントの適合率に見せかけるのが結構大変で、いちど運を天に任せたことがあった」
「明日香さんが運を天にですか?」
「そう。25メートルライン上にハンドボールのボールを命中させなくちゃいけなかったんだけど、ただ投げるんじゃなくって、放物線を描くように投げろ、って体育の先生に言われたの。それで、端末を使って調べたんだけど、ハンドボールの弾道特性なんかどこにもないし、観測できないから風の影響なんて分からないし、勘に頼ってエイヤってパラメーターを決めてそれで計算して投げたら、うまい具合に25メートルラインに命中した。リ・ジェネシスのエージェントを斃した時よりうれしかった」
「それはよかったです。体育の時間でハンドボール投げは分かりますが、どうして25メートルラインに命中させる必要があったんですか?」
「高校1年の女子で適合率16パーセントならハンドボールを投げたら25メートル飛ぶって予想を立てていたから」
「それで、25メートルラインを『狙った』?」
「そう」
北村早苗は明日香のことを十分変わった女の子と思っていたが、その認識を新たにした。
お互いがお互いのことを変わった人間と思っているのだが、明日香は自分自身のことを自覚しているだけ、北村早苗よりマシかもしれない。
車は20分ほどで寮に到着し、寮の玄関の車寄せに停まった。
「明日も午前8時にお迎えに参ります」
それでワンボックスカーは走り去っていった。
車から降りた明日香は寮に入っていき、自室に帰って制服を片付け、普段着に着替えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の午後8時。NASSO本部の局長室。
山田は今日の明日香の行動についてまとめられた端末上のレポートを読んでいた。
「ハンドボール投げで25メートルライン上にきっちり落としたのか」
レポートにはボールの軌跡について触れられていなかった関係でその異常性は山田には伝わっていなかった。
「何はともあれ、順調な滑り出しのようで一安心だ」
そう独り言を言った山田は端末を落として帰路についた。




