第4話 違和感
体力測定が終わり、生徒たちがバラバラに更衣室に戻っていくなかで、中川春菜が明日香を呼び止めた。
「堀口さん、さっきのハンドボール投げ、あれ何?」
「何のこと?」
中川春菜に呼び止められた明日香は、彼女が何を言っているのか理解できず、少し戸惑ってしまった。
「さっきのハンドボール投げ」
「えーと、25メートル投げたけど。遠くまで投げ過ぎたとか、何か問題あった?」
「25メートルでも十分遠いんだけど、堀口さんがちゃんと投げれば、もっと遠くに投げられたんじゃないの?」
「あれでもわたし、精いっぱい頑張ったんだけど。だから、25メートルも飛んだでしょ?」
明日香のこの言葉に嘘偽りがないことは、その顔を見れば中川春菜にも理解できる。理解できるのだが、何かがおかしい。
「うーん。まあ、いいけど。とにかく更衣室に急いで、着替えましょ。次は鶴井先生の数学1よ」
「了解」
中川春菜も明日香が少し変わっていることに気づき始めたようだ。ただ、実際は少しではないかもしれない。
更衣室で着替え終わって、教室に帰って席に着いたら、ほどなく次の授業開始を知らせるベルが鳴った。
端末を机の上に置いて次の授業の数学1を選び、鶴井静香がやってくるのを待っていたら、扉が開いて鶴井静香が教室に入ってきた。
数学1の授業は淡々と進んでいった。こういったはっきりした答えのある分野は明日香にとっては簡単な分野だ。
「次の練習問題は誰かに解いてもらおうか。解ける人?」
この問題の正答率といったデータはなかったが、クラスのうちの10分の1にあたる3人ほどが手を挙げた。適合率16パーセントなら10分の1に確実に入っているので、明日香も手を上げることにした。
「それじゃあ、堀口さん。前に出て黒板に式と答えを書いてくれる?」
言われた通り、明日香は前に出て、鶴井静香に渡されたデジタイザーペンで黒板に式と答えをすらすらと書いていき、書き上がったところで席に戻った。もちろん、黒板に書いた字は適当に崩れているし、少し曲がっている。明日香自身いい出来だと思っている。
「……よし。正解」
「時間があるからもう一問いこうか。次の問題」
そこで先ほど手を挙げた3人の他にもう一人が手を挙げたのだが、明日香は気を利かせて手を挙げなかった。
手を挙げた4人の中から一人が選ばれて、前に出て黒板に解答を書き出した。
「よし、正解。それじゃあ、残りの練習問題は宿題にするから、次の数学1の授業までにやってくること」
「「はーい」」
数学1の授業が終わり、休み時間になった。3時限目と4時限目の間の休み時間は10分。
明日香が、席に着いていたら、クラスの生徒たちが集まってきた。
「わたしの名前は伊藤蘭子。よろしくね。それで堀口さん、前はどこの学校にいたの?」
明日香は、基本的に寮で個人授業を受けていた関係で、学校に通っていない。しかし、高校までは義務教育なので、通っていなかったとなると、どう考えても『普通ではない』。どうするか?
『記憶にございません』というフレーズが頭をよぎったが、さすがにそんな言葉がこの場で通用するとは思えない。このまま黙り込んでしまっては、完全に変人だ。このミッションはかなり厳しい。と、明日香は認識し始めていた。
その思考と並行して明日香は、クラス全員の経歴を専用端末を通じて調べ、当たり障りのない出身地を設定したうえでストーリーを作り上げた。
すなわち、いままでコウベシティのインターナショナルスクールに通っていたものの、両親が海外転勤したので、桜が丘女子高校の理事と祖父が懇意だったこともあり、この学校に通うことになった。祖母は亡くなっており、今は祖父と一緒に住んでいる。という自分のヒストリーを素早く組み立てた。
「コウベシティのインターナショナルスクールに通っていたの」
「いいなー。わたし、コウベって行ったことないんだけど、いいところ?」
「そんなに変わらないと思う」
「それもそうか、今のニッポンってどこに行っても同じだものね」
「わたしの名前は篠原亮子よ、堀口さん、よろしくね。今どこに住んでるの?」
「両親は仕事の関係で海外なので、その関係で祖父が住んでるこっちに引っ越してきたの。それで、祖父がここの理事長の知り合いだったから、この高校に転校したの」
「そうなんだ」
ニュウトウキョウ内の特定の場所以外、つまりNASSO本部と自分が住んでいる寮しか気にしたことがない明日香は、ニュウトウキョウ内の特定の場所を答える代わりにうまく流すことができてほっとした。
いざとなれば、専用端末を使って地図を脳内で検索するだけだが、そうするとそれを覚えておかなくてはならないので、手間が増える。
「わたしは仲間幸恵。よろしくね。堀口さんはクラブ活動とかどこか考えてる?」
「何も」
「決めていないなら、演劇部に入らない? 今人が少なくて困ってるの」
「こら、仲間、自分の都合を語らない」
「なによ、少しくらいいいじゃない」
「まあまあ。何であれ、堀口さんは仲間の言うことなんて、少しも気にしないでいいんだからね」と、中川春菜。
「少しくらい気にしてくれてもいいんだよー」
「……」
そうこうしているうちにベルが鳴り、4時限目が始まった。4時限目は社会2(世界地理)の授業で、教師がやって来て黒板に世界地図や、風物などを映して授業が進んでいった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
このクラスというか桜が丘女子高校で、ただ一人のC級エージェント資格を持っていてそれを公表している早川紅葉は複雑な気持ちだった。自分のベーシック適合率は17.5パーセント。現在の適合率は18.0パーセント。これから適合訓練を続けていけば、最大で19.25パーセントまで適合率を伸ばすことができるが、20パーセントの大台に届くことは奇跡が起こらない限りありえない。
C級エージェントとして実績を積んでいけばB級エージェントにはなれるだろうが、A級エージェントになることはないだろう。
それはそれとして、今日の体力測定の結果から見て、転校生がかなり高い適合率を持つことは分かるし、NASSOのC級エージェントである可能性も否定できないが、あの結果では、自分以上の適合率であることはあり得ない。
しかし、何かがおかしい。特にあのハンドボールの遠投は異常だ。そもそもあんな変な投げ方で2投ともきっちり25メートルライン上にボールが落ちたことが不自然過ぎる。
不自然であるということは『故意』を疑うのが知性と理性の掛け算である賢さだ。早川紅葉は自分自身のことを賢いの反対である愚かとは思っていない。
では、25メートルの記録が故意だったとして、そういったことをする動機は何か? その動機が早川紅葉には分からなかった。この社会では適合率はステータスであり、適合率をわざと低く見せる意味はどこにもないのだから。ということで、昼食時、転校生を学食に誘って話をしてみることにした。
ベルが鳴って社会2(世界地理)の授業が終わり、昼休憩の時間になった。早川紅葉は席を立って、明日香の席まで歩いていった。
「早川紅葉よ。堀口さん、昼はわたしとご一緒しません?」
「いいですよ」
中川春菜は何か言おうとしたが何も言わなかった。その代わり、早川紅葉が気を利かせて、
「中川さんもご一緒しません?」と聞いてくれたので「は、はい」と、とっさに答えて3人で学食に行くことになった。
ほかのクラスメートたちもその状況を見守っていたが、何も言わなかった。なにせ、早川紅葉は本物の高校生C級エージェント。1年生でありながら桜が丘女子高校でのヒエラルキーのトップなのだから。
とはいえ、教室から3人が出ていったあと。
「早川さん、何の話を転校生にするのかな?」
「それは、あれよ。あれ」
「あれって?」
「学内での序列をきっちりさせるわけだよ」
「なーる」
「中川、その中にはさまったけど、大丈夫かな?」
「さあ。わたしじゃないし」
「世の中、そんなものだよね」




