第3話 体力測定
桜が丘女子高校での1時限目の国語1の授業が終わり、2時限目は体育実技。ということで、各自が着替えを持って体育館脇にある更衣室に移動を始めた。
「堀口さん、更衣室に案内するね」
「ありがとう」
そういうことで、明日香は体操服の入った袋を持って中川春菜に連れられて更衣室に入っていった。
桜が丘女子高校の更衣室は他校と同じで個室ブース形式になっていて、そこで着替えて、荷物などは体育が終わって着替えるまでそのままでいいようになっている。また反対側の出入り口は室内プールに繋がっている。
明日香は制服から黒いレギンスと、白いTシャツの体操服に着替え始めた。サイドホルスターを一度外してからブラウスを脱ぎ、下着の上からサイドホルスターを着けてその上からTシャツを着た。
こげ茶色のサイドホルスターがわずかにTシャツから透けて見えるが、そこらの女子高生がそれを見たとしても、ホルスターとは思わないだろう。
最後にスポーツシューズを履いて個室ブースを出たら、中川春菜が更衣室の出口で待っていてくれた。なにげに面倒見がいい。
二人そろって、他の生徒たちと一緒にグランドに向かって歩きながら、
「今日の体育は先週からの体力測定の続きで、50メートル走とハンドボール投げの2種目なの」
「そうなんだ」
ここで明日香は、サイドホルスターに入った専用端末を『操作』して目的のデータを呼び出した。
高校1年の女子50メートル走の場合、平均は8.8秒、標準偏差は0.6秒程度。6.4秒以下だと1000人に二人以下ということになる。そして、ハンドボール投げの平均値は約14メートル。標準偏差は約4メートル。25メートルとなると、約25.5メートルが1000人に二人ということになる。
ということで、明日香は50メートル走の目標タイムを6.5秒に設定し、ハンドボール投げの目標を25メートルに設定した。
人類100億の中でただ一人のフル・アダプターからすれば、1000人に一人とか二人という数字は何の意味も持たない。
「いきなり体力測定だから、堀口さんもビックリだよね」
「うん。すごくびっくりしてる」
びっくりしていると言った割には言葉が平坦だったかもしれない。明日香は少しだけ反省した。
着替え終わった生徒たちが更衣室から校舎前のグラウンドの隅の方に集まっていき、そのあたりでベルが鳴った。
白いジャージを着た30代くらいに見える小柄な女性が駆け足でやって来て、首から下げたホイッスルを鳴らし、生徒たちを2列横隊で整列させた。もちろん、明日香はどこに並んでいいのか分からないので列の外で立ったままだ。
「わたしは、戸田敏子。堀口さんは、そうねー、このクラスの人数は31人になったから、一番端に並んでもらってバディを組む時はわたしと組むことでいいかな。欠席の人がいればそこに入ってもらうわ」
「はい」
明日香は駆け足で列の一番端に向かってそこで整列した。
「それじゃあ、準備体操始めるわよ。堀口さんは、みんなの動きをまねて体を動かしてみて」
「はい」
「桜が丘体操始め!」
各人が戸田敏子の「1・2・3・4、2・2・3・4、……」の声に合わせて体を動かしていき、それを横目で見ながら真似をしていった。
この体の動きに何の意味があるのか明日香には理解できなかったが、一種の儀式なのだろうと、端末を使って検索することもなかった。
準備体操が終わったところで、
「それじゃあ、柔軟体操。各自バディーを組んでね。堀口さんはわたしとバディーだから」
戸田敏子は明日香のところへやって来てゴム製のグラウンドの上にじかに座って足を延ばした。
「堀口さん、みんなの真似をしてわたしの背中を押してくれる」
明日香はみんなの動きをまねて、戸田敏子の背中を押したのだが、推定される戸田敏子の腰椎の稼働限界までまじめに押してしまうと大変なことになるので、気を使っていた。
そういう意味では彼女にとって体育の実技というより、最適化演算だった。NASSOの本部や支部では適合訓練という名の訓練を行っているのだが、その内容はフィジカル中心のもので、フル・アダプターの明日香は今まで適合訓練を受けたことはなく、適合訓練の内容を知らないどころか、名前すら知らない。
戸田敏子の最初の柔軟体操が終わったところで、攻守交替。
先ほど検索した時、高校1年女子の腰椎の稼働限界のデータがないと返ってきていたので、戸田敏子の腰椎の稼働限界と同じ程度の稼働限界を想定して明日香は腰の反発力を調整することにした。
「堀口さん、けっこう体が柔らかいのね」
「そうですか?」
「わたしと同じくらい曲がるもの」
あの程度が柔らかい部類だったのか。この柔らかさのデータは貴重だ。そういえば、他の生徒たちは戸田敏子ほどは曲がっていなかった。明日香は早速このデータを専用端末からNASSOのデータベースにアップロードしておいた。
柔軟体操が終わったところでいよいよ体力測定の50メートル走だ。
「それじゃあ、体育係は用具室からスタートポールとゴールポール、それにハンドボールを2つ持ってきてくれる。ハンドボールは投てきサークルの中に置いてくれればいいわ。あとの人はスタート地点に移動。出席番号順に並んで、二人ずつで走るわよ。堀口さんは一番最後で一人だけど大丈夫かな?」
「大丈夫です。慣れていますから」
不用意な発言をしてしまったと明日香は思ったが、戸田敏子は気づかなかったか、気づいたかもしれないが、流してくれた。
そそて、一般人との会話がこれほど難易度が高いことに明日香は少々戸惑いを感じていた。
グラウンドにはすでに50メートル走のラインもハンドボール投げのラインも引いてあるので、戸田敏子は50メートル走のゴール地点に立ち、生徒たちはスタート地点の後ろに並んだ。
体育係がスタートポールをスタートラインの両端に、ゴールポールをゴールラインの両端に置いてから、ハンドボールを投てき用のサークルの中に置いて、みんなのところに戻って列に並んだ。
「それじゃあ、始めるわよ。位置について。……、よーい」
戸田敏子が端末をタップしたと同時にスタート地点の両脇に立ったスタートポールの先端がフラッシュした。
二人の女生徒がその光を合図に駆け出して、そして、ゴールラインを通過した。それと同時にゴールポールがカシャッ、カシャッ、っとそれらしい音を立てて、結果が戸田敏子の端末に送られた。
「秋吉久美、8.4秒。綾瀬遥、8.6秒」
それから、順に生徒たちがスタートしていった。
「飯島直実、8.9秒。伊藤蘭子、9.2秒」
「岩崎好美、7.9秒。石野真琴、8.5秒」
……。
「中川春菜、8.2秒。仲間幸恵、8.5秒」
……。
「早川紅葉、5.4秒。林昌子、9.1秒」
早川紅葉の5.4秒にはどよめきが起こった。
「藤村美紀、8.4秒。山口千恵、9.4秒」
「それじゃあ、最後に一人になるけど堀口さん、位置について、よーい」
スタートポールが光り、明日香は、62個の瞳で見つめられる中、きっちり秒速7.7メートルで駆けだした。
この走りが異様だったのはスタンディングのスタートで飛び出した瞬間、秒速7.7メートルでゴールまで一切加速も減速もなかったこと。
「堀口明日香6.5秒」
ここではわずかに拍手が起こった。何となく教師の戸田敏子を含め生徒たちは違和感を覚えたのだが、だれもその違和感の正体に気づけなかった。
「それじゃあ、次はハンドボール投げ。体育委員は先にスタートポールとゴールポールを片付けて」
体育委員が走り出て、スタートポールとゴールポールを用具室に運んでいる間に、残りの生徒は駆け足でハンドボール投げの投てきサークルの後ろまで移動した。
ハンドボール投げ用のラインは30度の角度で開いていて、投てきサークルから5メートルおきに弧が描かれている。
スタートポールとゴールポールを片付け終わって体育委員たちが戻ってきたところで、
「今度は出席番号順に一人ずつ。最初は秋吉久美」
「はい」
秋吉久美は右手にハンドボールを持って、投てきサークル内で勢いをつけてボールを投げた。ボールはふらふらと上がってそして10メートルラインの向こう側に落っこちた。
「12.8メートル」
体育教師用の端末をかざすことで、投てきサークルの先端からボールが最初に落ちたところまでの距離が測定できるようになっている。
「次、綾瀬遥」
「……。綾瀬遥、15.3メートル」
……。
そうやって、早川紅葉の順番が回ってきた。
早川紅葉の投げたボールは山なりに飛んでいき30メートルラインをわずかに超えた。
「早川紅葉、30.2メートル」
ここでも、歓声が上がった。
……。
「最後、堀口明日香」
明日香はハンドボールを右手に持ち、目標である25メートルラインに向けて投げつけた。ボールは一直線に25メートルラインに『命中』してそのまま転がっていった。
全員の注目を浴びた程度ではなく、みんな呆れたような顔をして転がっていくボールと明日香を交互に見つめている。何か問題があったのだろうか?
「堀口さん、まっすぐ投げるんじゃなくて、放物線を描くように投げられない? もう一回投げてみてくれる?」
そういうことか。つまり、迫撃砲のような弾道曲線を描けばいいわけだ。
しかし、幅が10センチもないライン上に弾道を描いて弾を落とすとなると少し計算が難しくなる。なぜなら、ハンドボールは迫撃砲弾より軽いうえに大きいので空気抵抗がその分大きくなり、計算が複雑になる。幸い現在は無風なのでその分計算は楽だ。とはいえ、そう簡単ではないことも事実。
明日香は腋の下の専用端末の助けを借りて素早く弾道計算を済ませた。
グラウンドの端まで転がっていったボールを体育委員が拾って戻ってきたところで、明日香はハンドボールを投げ上げた。
上空に舞い上がったハンドボールはゆっくりと降下を始め、25メートルラインの真上に落ちて数回バウンドしてそこで止まった。ここで計算が狂っていたら、フル・アダプターとしての矜持が許さないところだったが、明日香は計算が正しかったことに少し安堵していた。
リ・ジェネシスのエージェントを斃した時よりよほど満足感がある。口元が緩んだのが自分でも分かる。
「堀口明日香、25メートル」
誰の声も聞こえない中で戸田敏子の結果を告げる声だけが響いた。
――放物線を描いて投げるように言った通り、堀口さんが投げたボールは確かに放物線で山なりのコースを飛んだことは認めよう。そして、きっちり25メートルラインの真上に落っこちた。何かおかしくない?
――この時期にうちに転校してくること自体普通じゃないから、いちいち気にしても始まらないか。
ということで戸田敏子は首をかしげたものの、一人納得してそれ以上は考えることを止めてしまった。
「それじゃあ、今日は整理体操して終わり」
生徒たちが整列して整理体操が始まり、明日香も列の端でみんなの動きに合わせて体を動かした。
「解散。体育委員はボールを片付けておいて」そう言って、戸田敏子は半分首をかしげながら校舎に帰っていった。
生徒たちもバラバラに更衣室に戻っていくなかで、明日香は中川春菜に呼び止められた。
「堀口さん、さっきのハンドボール投げ、あれ何?」




