10-7話_No One Leaves Empty-Handed
宿泊研修編(いわゆる第2章)のエピローグです。
――昨日、昼頃。
『千代瀬に旅行中なんだけど、山の向こうに青い光が立った。何これ?』
『雷? 今日めちゃくちゃ晴れてるけど』
『千代瀬の青い光、加工じゃないです。現地にいた人みんな見てる。動画も撮った』
『召喚獣関係? 召喚士だけど、あんな規模のイデア見たことない』
『【現地映像】千代瀬の山中に謎の“蒼い光柱”出現 消される前に保存推奨!続報が気になる人はフォロー!』
――昨日、夕方から夜。
『さっき青く光ってた山、今度は爆発したんだけど』
『温泉街まで地面揺れた。山から煙と土埃が上がってる』
『近くの研究所でも警報が鳴ってたらしい。青い光と関係ある?』
『九条リゾート周辺、何ヶ所か通行止め。シャトルバスも止まってる。詫びビュッフェは美味かったけどな』
『聖召学園が宿泊研修に来てたって聞いたんだけど、まさか召喚士同士で戦った?』
『九条グループが何か事故起こしたんじゃないの? 作業車が夜通し走ってるけど、隠蔽じゃないよな』
『何でもかんでも隠蔽って言えば賢く見えると思ってそう。今まさに復旧作業してんだろ』
『九条グループ関係者さん、火消しお疲れさまですwwww』
――今朝。
『昨日の“青い光”で話題の千代瀬!実は絶景温泉と開運スポットが楽しめる穴場観光地なんです!大型連休中でもまだ間に合う!予約できるおすすめ宿七選はこちら→【PR】』
『昨日の千代瀬の光、あれは伝説の蒼竜アビス以外あり得んやろ』
『都市伝説信者乙wwwww』
***
――翌朝、午前六時を少し回った頃。
聖召学園の生徒たちを乗せた大型バスが、九条リゾート千代瀬を出発した。
車内は静かだった。
目を閉じて座席へ身体を預ける者。窓の外をぼんやり眺める者。
声を潜め、隣同士で言葉を交わす者。
怪我をした生徒たちも、ほかの生徒と同じバスに乗っている。
補助席まで使った往路とは違い、通路には誰も座っていない。
バスは速度を落としながら、山間の道路を進んでいた。
昨日まで封鎖されていた主要道路は、すでに片側交互通行ながら車両が通れる状態まで復旧している。
崩れた法面には仮設の防護柵が設置され、その脇では重機が唸りを上げていた。
九条グループの名を掲げた作業車両が、狭い路肩に何台も停まっている。
泥に汚れた作業員たちが誘導灯を振り、交互に車列を送り出していた。
対向車線を、九条リゾートのシャトルバスが通り過ぎていく。
一夜のうちに、運行を再開させたらしい。
窓際に座る九条狛は、流れていく復旧風景を黙って眺めていた。
九条の名を背負った車両が通るたび、その視線は何か皮肉めいたものを帯びていた。
御手洗は、そんな狛の横顔から目を離した。
――今、考えるべきことはほかにある。
昨夜から今朝にかけて集まった、三つの情報。
ひとつ目は、羽瀬川から共有された華園后の記憶だった。
『研究所が停電したあと、真柴さんと別の通路を通って避難しました』
『そこから先の記憶は……ありません』
后が最後にはっきりと覚えている人物は、真柴透子。
彼女に連れられ、ほかの生徒たちとは異なる通路へ入った。
その直後に記憶が途切れ、次に目を覚ました時には九条リゾートの救護室にいた。
発見された場所は、研究所から離れた旧千代瀬集材所。
――そして真柴は、事件後から華園重工にも自宅にも戻っていない。
連絡もつかず、今朝の時点で所在不明となっている。
二つ目は、昨日のうちに奏から聞いた話だ。
『ロビーで避難誘導をしていた真柴さんから、華園たちは忘却の滝付近の道路を通ってホテルへ向かうと聞きました』
奏はその情報を信じ、傷ついたベレッタがホテルへ戻った直後、忘却の滝へ向かった。
そこで待っていたのが、砥上沃哉という男。
最後のひとつは、御手洗自身が聞いた言葉だった。
『后お嬢様は、特別車両にて別途避難しております。避難先は九条リゾート千代瀬です』
あの時、真柴はそう言った。
研究所の駐車場で、生徒たちの安全確認を急ぐ御手洗に対して。
后には、一般の避難者とは異なる通路を使うと伝えた。
奏には、后は忘却の滝を経由すると伝えた。
御手洗には、后はすでに特別車両でホテルへ避難したと伝えた。
三人へ、三つの異なる情報。
伝えられた内容だけではない。
それぞれが次に取る行動まで、巧妙に分断されている。
后を集団から引き離す。
奏を忘却の滝へ向かわせる。
御手洗には、后が安全な場所へ避難したと思わせる。
偶然で片づけるには、出来すぎていた。
――華園后を攫ったのは、真柴透子。
少なくとも、実行に直接関わっていると見て間違いない。
傷ついたベレッタだけがホテルへ戻ったことで、奏は后の身に危険が迫っていると判断した。
あの華園の召喚獣――ベレッタの帰還さえ、奏を動かすために仕組まれていたのだとすれば。
御手洗は、ゆっくりと息を吐いた。
バスが、再び速度を落とす。
窓の向こうに、昨日訪れた研究所が見えてきた。
敷地の周囲には規制線が張られ、正門の前には仮設フェンスが設置されている。
数台の警察車両が停まり、出入口では警察官と研究所の関係者、警備員が慌ただしく行き来していた。
停電した研究所内で、真柴は后を気絶させた。
そこまではいい。
だが、意識のない人間を一人で旧集材所まで運ぶことはできない。
まして真柴は、その後も研究所へ戻り、避難誘導を続けている。
奏へ嘘の行き先を教え、駐車場では御手洗にも別の情報を吹き込んだ。
后を運んでいる間に、それらすべてをこなすことは不可能だ。
研究所の内側か。
それとも、すぐ外に。
真柴から后を受け取った人間がいた。
御手洗が窓越しに見つめる中、規制線に囲まれた研究所は、ゆっくりと後方へ流れていった。
***
――もう、後には引けない。
華園后は、手を伸ばせば届く距離にいた。
真柴透子はその位置を確かめると、白衣のポケットの中で小型端末を操作した。
指先へ、短い振動が返る。
次の瞬間、研究所から光が消えた。
白く照らされていた館内が、一息に漆黒へ沈む。
直後、耳をつんざくような警報が鳴り響いた。
戸惑う声が暗闇の中で重なり、研究員たちが避難を呼びかける。
足音が入り乱れ、人の流れが一斉に出口へ向かい始めた。
「后さん、こちらへ」
真柴は迷わず、すぐそばにいる后へ声をかけた。
非常灯が点灯し、床と壁を薄い赤に染める。
后は真柴に促され、一般の避難経路とは異なる職員用通路へ進んだ。
防火扉を抜ける。
人の声が遠ざかり、けたたましい警報だけが暗い通路に反響していた。
真柴は半ば強引に先導する。
――だが、二つ目の角を曲がる手前で、后の足が止まった。
「真柴さん!何処に向かうの!?」
「后さんは避難規定に則り、特別車両にて別ルートで避難します」
真柴は后の前に立ち、通路の奥を示した。
后は眉をひそめる。
「そんな規定、知らないわよ。みんなのところに戻るわ」
「今まで、本当の避難をしたことがないからです。そんな規定があることさえ、知らなくて当然です」
真柴は騒然とする周囲へ視線を走らせながら、后をさらに奥へ促した。
「これは会長の――后さんのお父様のご意向です。后さんを守るためです」
「……私、戻るわ」
真柴も足を止める。
「特別扱いしないで。私は一生徒よ」
薄赤い非常灯の下で、后は真っ直ぐに真柴を見た。
真柴は、わずかに目を伏せた。
「そうおっしゃると思ってました」
私が――
――初めて后の手を握ったのは、彼女が初めてベレッタを召喚した日だった。
突如として工場内に現れたベレッタに、周囲の大人たちはパニックに陥った。
その中心で、幼い后は立ち尽くしていた。
差し出した真柴の手を、后は縋るように握った。
その小さな手は、震えていた。
――それから、后のイデア波形を研究する時には、時間の許す限り測定へ同席した。
后にせがまれれば、手も握った。
成長するにつれて震えることのなくなった手は、真柴が握ると、いつも優しく握り返してきた。
そして、おそらくこれが――。
彼女の手を握る、最後の機会になる。
そう思うと、胸の奥が少しだけ締めつけられた。
「后さん!行きましょう!」
真柴は歩み寄り、后の手を握った。
その瞬間、手袋越しに雷属性のイデアが后の全身を駆け抜けた。
その手は、しばらく強張った。
やがて力を失い――。
するりと、真柴の手から落ちた。
「ぐっ……ベレッ……タ……」
崩れ落ちる寸前、后のもう一方の手がクォーツへ触れる。
紅い光が、薄暗い通路を染め上げた。
真柴は倒れる后の身体を受け止め、そのまま床へ膝をつく。
頭上で、鋭い鳴き声が響いた。
顕現したベレッタが、真柴へ敵意を向けている。
翼を広げようとするが、天井までは二メートル余り。
廊下の幅も狭く、本来の機動力を発揮できる空間ではない。
それでもベレッタは、主人を抱える真柴へ飛びかかろうとした。
真柴は空いた手で、白衣の内側から掌大の射出器を取り出した。
引き金を引く。
射出された数本の細い金属線が空中で網状に広がり、ベレッタの翼と胴体へ絡みついた。
翼を封じられたベレッタ――が床へ落ちる。
真柴は金属線の中央に取りつけられた制御部へ指先を当てた。
雷属性のイデアが、線を伝って流れ込む。
ベレッタの身体が跳ねた。
嘴から苦しげな鳴き声が漏れ、翼が痙攣する。
なおも主人のそばへ這おうとするベレッタへ、真柴は出力を慎重に調整しながら電流を流し続けた。
消滅させてはいけない。
飛べなくなるほど壊してもいけない。
今はただ、動きを止めればいい。
やがてベレッタは、翼を網状の金属線に絡めたまま動かなくなった。
真柴は射出器を白衣へ戻すと、意識を失った后の腕を自分の肩へ回した。
腰へ腕を添え、身体を持ち上げる。
だが、力の抜けた人間の身体は重い。
数歩進むだけで体勢が崩れ、后の靴が床を擦った。
「っ……」
真柴は息を詰め、后を背負うように肩を入れ直した。
支え、引きずり、何度も持ち直しながら職員用通路を進む。
警報に紛れ、裏手の搬入口まで辿り着いた頃には、真柴の呼吸も乱れていた。
内側から扉を開く。
待機していた二人の男が、すぐに近づいてきた。
作業服と帽子を身につけているが、研究所の職員ではない。
現地で金に釣られ、ここへ集められただけの人間たちだった。
搬入口の外には、企業名もロゴも入っていない商用バンが停まっている。
真柴が后へ説明した、特別車両。
その正体は、どこにでもある普通の車だった。
二人の男が、真柴から后を受け取る。
「丁重に運びなさい」
男たちの動きが、一瞬止まった。
真柴の声に含まれた圧を感じ取ったのか、二人は先ほどよりも慎重に后を抱え直す。
返事はしない。
后を車内へ横たえ、続いて拘束されたベレッタも運び込む。
真柴は、男たちが後部扉を閉めるまで見届けた。
商用バンが搬入口を離れていく。
指定した旧千代瀬集材所までは、十分もかからない。
真柴はその車へ同行しなかった。
何事もなかったかのように白衣を整え、再び警報の鳴り響く研究所内へ戻る。
ロビーでは、研究員たちが残った見学者を誘導していた。
その中に奏の姿を見つけると、真柴は足を止めた。
奏は、何か焦ったように駆け寄ってきた。
「后は!?」
「后お嬢様は、特別避難経路を使ってホテルへ向かっております。忘却の滝を経由するルートですので、ご安心ください」
それだけを伝え、奏が問い返すより先に避難誘導へ戻る。
研究所前のバス駐車場では、学園関係者が生徒たちの人数を確認していた。
そこに御手洗の姿がある。
真柴は、今度は彼へ駆け寄った。
「申し伝えそびれておりました。弊社の避難規定に則り、会長ご家族は特別車両にて別途避難しております。避難先は九条リゾート千代瀬です」
「あいつはうちの生徒だ。うちで責任を持って避難させなきゃならん」
「何卒ご容赦ください」
奏には、忘却の滝を経由する警備班。
御手洗には、すでにホテルへ向かった特別車両。
異なる二つの情報を残し、真柴は避難誘導へ戻った。
やがて、生徒たちを乗せたバスが研究所を出発する。
真柴は駐車場から、その車体が見えなくなるまで見送った。
――研究所から旧集材所までは、車で十分もかからない。
研究所からホテルまでは、バスで数十分。
ベレッタが万全なら、旧集材所からホテルまで三分とかからない。
先ほどの麻痺と負傷を考慮すれば、五分少々。
それで十分だった。
バスがホテルへ到着する。
生徒たちがロビーへ集められ、点呼が始まる。
后が戻っていないと判明する。
そこから、さらに数分。
――これは賭けだ。
ベレッタがホテルに向かう確率は五分五分。
ただ、主が皆の元に戻りたいと言う“想い”をベレッタは汲み取るはず。
真柴は研究所を離れ、旧集材所方面へ続く道を進みながら腕時計へ目を落とした。
算出した時刻まで、あとわずか。
秒針が重なる。
――今。
真柴は腕時計の側面にある解除ボタンを押した。
***
――同刻
旧千代瀬集材所。
元事務所として使われていたプレハブの中で、小さな作動音が鳴った。
壁際の長椅子には、意識を失った后が横たえられている。
その足元で、ベレッタを拘束していた金属線が一斉に緩んだ。
ベレッタは、すぐには動かなかった。
痺れの残る翼を床へつき、何度か身体を震わせる。
やがて顔を上げると、長椅子へ横たわる后を見た。
近づき、嘴の先で頬へ触れる。
反応はない。
ベレッタはふらつきながら翼を広げた。
一度、床へ倒れる。
それでも起き上がり、もう一度翼を広げる。
主を救うため。
助けを求めるため。
傷ついたベレッタはプレハブを飛び出し、九条リゾート千代瀬へ向かった。
***
真柴の賭けはもう一つあった。
――真柴は、気を失ったふりをしていたわけではない。
双鳶霹と靂。
二人の雷を受け、真柴は間違いなく敗北した。
意識を断ち切られ、地面へ倒れた。
隣では柄沢も気を失っている。
左腕を覆っていた《召装》は解除され、地面には短刀が転がっていた。
駆けつけた九条側の警備員は四名。
二人の呼吸と脈拍を確認し、目立った外傷と意識の有無を調べる。
命に関わる状態ではないと判断すると、暴れる可能性に備えて両手首を拘束した。
使用されたのは、金属製の手錠ではなく、幅の広い強化樹脂製の簡易拘束具だった。
二つの輪で両手首を固定し、一度締めれば素手では緩められない構造になっている。
柄沢の短刀と、真柴の特殊警棒も回収された。
四段に伸びていた警棒は短く収納され、ほかの所持品とともに厚手の収納袋へ収められる。
警備員たちは、現場で可能な限りの処置を行った。
霹と靂は二人の身柄を彼らへ引き渡すと、岬と后のもとへ向かった。
その足音が完全に遠ざかってから、しばらくして。
真柴の意識が、暗闇の底から浮かび上がった。
最初に戻ったのは、痛みだった。
全身の筋肉が軋み、肺が上手く膨らまない。
耳鳴りの奥で、男たちの声が聞こえる。
真柴は目を開けなかった。
指一本動かさず、浅い呼吸を繰り返す。
自分の手首が背中側で拘束されていることを確かめる。
警棒の重みも、白衣のポケットにあった端末の感触もない。
すべて回収されている。
だが、服の下に装着したものまでは見つかっていなかった。
真柴の腰には、薄いサポーターが巻かれている。
その背面、腰骨に沿う位置へ組み込まれているのは、薄型の装置。
大きさは、小型のモバイルバッテリーほど。
丸みを帯びた長方形の外殻は、内部が透ける煙色をしていた。
その内側には淡い水色と紫色の蓄積セルが並び、銀色の回路が細く張り巡らされている。
隅に灯る、ミントグリーンの小さな表示灯。
現場で行われる簡易的な身体確認だけでは、それが危険物だと見抜くことは難しい。
戦闘中、真柴は特殊警棒で双鳶姉妹の雷を受けていた。
警棒そのものに、雷を蓄える機能はない。
受け止めた雷属性のイデアを身体へ流し、腰の装置まで導くための導線。
それが、あの特殊警棒のもうひとつの役割だった。
雷が装置へ送られるたび、警棒の柄尻に埋め込まれた小さな灯が一度だけ明滅する。
霹と靂が戦闘中に目にしたとしても、その意味までは分からない。
もっとも、真柴自身も無傷では済まなかった。
装置が蓄えられるのは、警棒を通して受けた雷の一部だけ。
残りは真柴自身の身体を焼き、意識を奪った。
――だから敗北は偽装ではない。
真柴は確かに、二人の雷に打ち負かされた。
ただし、その雷は消えていない。
腰の装置に、まだ残されている。
警備員の一人が、無線で状況を報告していた。
別の一人が、真柴のそばへ屈み込む。
「こっちから運ぶぞ」
搬送の準備が始まったらしい。
真柴は閉じた瞼の裏で、周囲の気配を数える。
四人。
拘束された柄沢。
双鳶姉妹の気配はない。
――今しかなかった。
真柴は指先へ、ごく微弱な雷属性のイデアを集めた。
拘束された両手からではない。
自身のイデア波形そのものを起動信号として、腰の装置へ送り込む。
ミントグリーンの表示灯が明滅した。
次の瞬間。
蓄積されていた雷が、真柴を中心に一斉に放出された。
白青色の閃光が地面を走る。
近くにいた警備員の身体が跳ねた。
無線機を持っていた男の腕が硬直し、装置が地面へ落ちる。
離れた場所で搬送器具を準備していた二人も、逃れる暇はなかった。
雷は範囲内を無差別に駆け巡り、拘束された柄沢の身体にも襲いかかった。
声を上げる間もなく、四人の警備員が崩れ落ちる。
殺すための出力ではない。
神経と筋肉を一時的に麻痺させ、数分間だけ行動を奪う。
装置は真柴自身のイデア波形に合わせて調整されている。
放電の中心にいた彼女への影響は、最小限に抑えられていた。
それでも、身体の奥を焼くような痛みが走る。
真柴は歯を食いしばり、ゆっくりと目を開けた。
警備員たちは倒れている。
全員、呼吸はある。
柄沢も拘束されたまま動かない。
真柴は痺れの残る脚を引きずり、最も近くに倒れた警備員へ身体を寄せた。
腰の装備から、刃が露出しない専用の安全カッターを抜き取る。
背中側で刃口を拘束具へ噛ませ、何度も動かした。
強化樹脂が少しずつ削れる。
やがて、鈍い音とともに輪が切れた。
自由になった両手で、残った拘束具を外す。
真柴は立ち上がり、回収品を入れた収納袋へ向かった。
中からスマートフォンと、必要な所持品を取り出す。
最後に、四段伸縮式の特殊警棒を回収した。
それは単なる武器ではない。
双鳶姉妹の雷を腰の装置へ送ったことを示す、証拠そのものだった。
ここへ残してはいけない。
真柴は警棒を手に取り、収納袋を閉じた。
柄沢の短刀には触れない。
警備員の装備も、車両も奪わなかった。
起動したスマートフォンに、事前に共有されていた座標を表示する。
山中に設定された――回収地点。
双鳶姉妹が岬たちのもとへ向かった以上、同じ道を通れば鉢合わせる危険がある。
真柴は舗装された道を外れ、木々の間へ続く斜面を選んだ。
疲労と負傷で、足取りは重い。
それでも歩き出す。
その背後で、柄沢の指がわずかに動いた。
双鳶姉妹の雷によって途切れていた意識が、二度目の放電による強烈な刺激で引き戻された。
意識は戻っても、身体は動かない。
柄沢は地面に頬をつけたまま、遠ざかる真柴の背中を見た。
「おい!真柴ぁ!俺を助けろ!!!!」
真柴の足が、一度だけ止まった。
振り返らないまま、答える。
「……必要犠牲です」
「くっ……クソアマぁぁぁぁぁぁ!!!!」
怒声が山中へ響き渡る。
真柴は一度も振り返らなかった。
***
バスは研究所を通り過ぎ、山道を進んでいく。
仮設フェンスも、警察車両も、やがて窓の向こうから見えなくなった。
それでも御手洗の思考は、あの建物に残されたままだった。
――今回、デスペラードが千代瀬へ現れた理由。
天宮奏の持つ、ラストクォーツ。
そう仮定すれば、大半の出来事には説明がつく。
真柴は研究所で奏のイデア波形を測定していた。
停電が起きるよりも前に、奏がラストクォーツ保持者である可能性を掴んでいたはずだ。
だから奏を忘却の滝へ誘導し、砥上と接触させた。
実際に召喚獣を呼ばせ、その正体を確かめるために。
だが――。
ラストクォーツが目的なら、なぜあの場で奏を攫わなかった。
研究所は停電し、館内は完全な暗闇に包まれていた。
警報が鳴り響き、研究員も生徒も混乱している。
真柴は奏の居場所を把握していた。
后へしたように別の通路へ誘導することも、闇に紛れて不意をつくこともできたはずだ。
それでも真柴は奏に手を出さず、后を攫った。
なぜ、そんな回りくどい手を使った。
奏を容易に攫えない理由があったのか。
ラストクォーツが秘める、未知の力。
無理に手を出せば何が起きるか分からない。
だから、まずは人目のない場所へ誘い出し、慎重に確認しようとした。
――違う。
御手洗は、その考えを切り捨てた。
ヤツ――佐岸弥陸は、ラストクォーツについて何も知らない人間ではない。
蒼竜アビスの存在も。
その保持者が持つ力も。
少なくとも、未知だからという理由だけで恐れるような男ではない。
ならば、佐岸の側に立って考えろ。
あの男は、立てた計画へ固執する人間ではない。
現場でイレギュラーに遭遇すれば、その場にある人間と情報を材料に、即座に最適解を組み直す。
今回、佐岸にとってのイレギュラーは何だった?
ラストクォーツ保持者である奏と接触するうえで、最も邪魔になるもの。
戦力か。
人目か。
学園か。
――教師。
そこまで考え、御手洗の目が細くなる。
いや。
俺か。
御手洗が引率として千代瀬にいる。
それが、佐岸にとって想定外の一枚だったとしたら。
研究所内で奏へ手を出せば、御手洗が動く。
奏だけを人目のない場所へ誘い出したとしても、その失踪が判明すれば、御手洗は必ず追う。
だから后を使った。
真柴が后を避難者の中から切り離す。
傷つけたベレッタをホテルへ帰し、后の危機を奏に知らせる。
同時に、忘却の滝という偽の行き先を与える。
奏が単独でホテルを出るように仕向け、その先へ砥上を配置する。
奏が出たあと、自分も追おうとした。
そこで佐岸が現れた。
ヤツの役目は、ホテルにいる生徒たちを襲うことではない。
自分を、あの場へ留めておくことだった。
奏と砥上の接触へ介入させないために。
柄沢という男は旧集材所へ続く道で、后を捜す岬を止めた。
久垣という男は廃神社方面で、別経路から動いた狛を迎え撃った。
真柴は研究所と旧集材所を行き来し、すべての起点を作った。
砥上、柄沢、久垣、真柴。
そして佐岸。
離れた場所で起きていた戦闘は、それぞれが独立したものではない。
すべてが、同じ作戦の上に配置されている。
奏を孤立させる。
救援を分散させる。
御手洗をホテルへ縫い止める。
その結果、砥上は誰にも邪魔されず、天宮奏と接触した。
蒼い光柱が立ち上った。
奏とアビスが、通常の召喚獣と召喚士では起こり得ない現象を引き起こした。
連中は、欲しかった確証を得た。
そう考えれば、筋は通る。
だが、御手洗の中に残った違和感は消えなかった。
砥上は、奏を連れ去ろうとしなかった。
后も、旧集材所へ置き去りにされている。
そして砥上は、戦闘の最中に届いた連絡を受け、撤収へ移った。
『第一目標、搬出完了。撤収へ移行』
第一目標。
確認ではない。
確保でもない。
――搬出。
何かを、その場から運び出した。
しかも、その連絡が入った時点で、奏も后もまだ千代瀬に残されていた。
では、何を運び出した。
御手洗は窓の外へ目を向けた。
山間に建つ研究所は、もう見えない。
佐岸は、御手洗を奏から遠ざけるためにホテルへ留めたのか。
それとも。
御手洗を、研究所へ戻らせないためだったのか。
複数の戦場。
蒼い光柱。
廃神社の爆発。
あまりにも派手な出来事へ意識を向けさせ、その陰で別の目的を果たしたのだとすれば。
すべては、天宮奏の持つラストクォーツを狙った作戦に見える。
だからこそ、引っかかった。
本当に――連中の目的は、ラストクォーツだったのか。
***
生徒たちを乗せたバスが千代瀬を離れようとしていた頃。
千代瀬から少し離れた、名も分からない建物の一室。
窓は少なく、外の様子を窺うことはできない。
天井から吊られた一本の蛍光灯が、低い駆動音を響かせている。
室内にあるのは、使い古された長机と数脚の折り畳み椅子。
壁際には、運び込まれたままの搬送ケースが積まれていた。
人が生活している痕跡はない。
ここは次の移動まで身を潜めるためだけに用意された、一時的な滞在場所だった。
部屋の奥に、一人の男がいる。
スーツの男――佐岸弥陸。
佐岸は黒いキャリーケースに腰掛け、正面に置かれた二つの搬送ケースを眺めていた。
どちらの表面にも、華園重工第三イデア技術研究所の管理票が残されている。
開かれたケースの内側には、緩衝材に挟まれた二種類の実機。
ひとつは銃器型。
もうひとつは剣型。
昨日まで研究所に保管されていた、iCASの試験機だった。
長机の上には、複数の記録媒体と制御用端末が並べられている。
実機だけではない。設計情報、制御技術、実験記録。
iCASを完成へ近づけるために必要なものが、研究所から持ち出されていた。
今回の作戦における第一目標。
iCAS実機、技術、データの奪取は、成功している。
佐岸の隣では、薄型端末が光を放っていた。
画面上に、二つのイデア波形が重ねて表示されている。
ひとつは、研究所へ持ち込まれた蒼色の残滓から採取された波形。
もうひとつは、研究所見学の測定で得られた、天宮奏の波形。
細かな揺らぎまで重なった二本の線の下に、解析結果が示されていた。
――同一波形。
その隣には、千代瀬の山間部を貫いた蒼い光柱の画像。
忘却の滝で確認された現象と、砥上から送られた観測記録。
ラストクォーツ――蒼竜アビスは学園の手中にある。
保持者は、天宮奏。
さらに二人は、《共鳴》を始めている。
第一目標に加え、想定を上回る成果だった。
不意に、部屋のドアが軋んだ音を立てた。
佐岸が顔を上げる。
開いたドアの向こうに、真柴透子が立っていた。
服には山中を歩いた時の泥が残り、ところどころが裂けている。
髪も乱れたまま。
応急処置を受けた腕には包帯が巻かれ、露出した肌には細かな擦過傷がいくつも刻まれていた。
回収した特殊警棒だけは、手元にある。
佐岸はキャリーケースに腰掛けたまま、軽い調子で言った。
「早かったじゃねぇか」
真柴は答えなかった。
佐岸を見ることもない。
部屋へ入った真柴の視線は、真っ先に二つの搬送ケースへ向けられていた。
銃器型と、剣型。
昨日まで、自分がいた研究所に保管されていたiCAS。
企業の判断に阻まれた研究。
安全基準と倫理審査によって、完成へ進むことを許されなかった技術。
それが今、佐岸と真柴の間に置かれている。
真柴は、開かれたケースの向かい側で足を止めた。
佐岸はそんな彼女を眺め、わずかに顎を上げる。
「倫理ってのは、多数派の価値観の押しつけだ。何が正しいかなんざ、誰が決める?」
真柴は何も言わない。
蛍光灯の低い音だけが、二人の間を満たした。
「現場にイレギュラーは付きもんだろ?」
佐岸は足元のiCASへ視線を落とす。
「場所も、人間も、必要なもんはこっちで用意する」
そして、銃器型と剣型の実機を順に見た。
「コイツが――この世界にとってイレギュラーのまま終わるか、次の常識になるか――それは、お前の腕にかかってる」
真柴は二つのiCASを見つめたまま、ようやく口を開いた。
「……絶対に、完成させてみせますよ」
「あぁ――“お前”じゃなかったな」
佐岸はキャリーケースに腰掛けたまま、iCASを挟んで向かいに立つ真柴へ、右手を差し伸べた。
「よろしく。トーコちゃん」




