10-5話_Vanishing Point
宿泊研修編は、これを含めて2~3話で終わります。
――やがて、音が消えた。
爆炎も、瓦礫が砕ける音も、とうに過ぎ去っている。
山間部へ戻ってきたのは、あまりにも不自然な静寂だった。
狛の耳の奥では、甲高い耳鳴りだけが鳴り続けている。
舗装の亀裂へ差し込まれた五節棍。
その柄を握った指が、僅かに動いた。
「げほっ……!」
肺へ入り込んだ砂埃を吐き出すように、狛が咳き込む。
目はまだ開けられない。
飛来する瓦礫から顔を守るために閉じた瞼を、そのまま固く閉ざしていた。
すぐそばから、低い息遣いが聞こえる。
――ウロだ。
爆発の直前に身を寄せてきた温もりが、今も狛の傍らに残っている。
やがて、土煙の一部が不自然に揺らいだ。
緩やかな風が瓦礫の上を走り、灰色の幕を押し退けていく。
その奥で、霞が地面へ突き立てた小太刀を支えに身体を起こした。
肩を上下させながら、小太刀を握る腕へ力を込める。
「……生きてるか」
土煙の向こうから、掠れた声が届いた。
狛は目を閉じたまま、もう一度だけ咳き込む。
「……なんとか」
浅く息を吐き、胸元に積もった砂埃を手のひらで二度、三度と払った。
顔を覆っていた腕を、ゆっくりと下ろす。
瞼を開くと、滲んだ視界の中で灰色の土煙が流れていた。
一度、二度と瞬きを繰り返す。
久垣の姿は、どこにもなかった。
ただ、狛の目はすぐに、その向こうへ奪われた。
旧駐車場の舗装は大きく抉れ、蜘蛛の巣状の亀裂が走っている。
その先。
鳥居は片方の石柱を失い、落下した笠木が石段を塞いでいた。
上へ続いていたはずの石段も、ところどころが抉り取られ、途中で道が途切れている。
さらに、その先。
高台に建っていた社殿は屋根の大半を失い、折れた梁を土煙の中へ晒していた。
散乱する石灯籠の欠片。
傾いた柱。
火の粉を上げながら燻る、かつての境内。
そこは確かに、狛の知っている廃神社だった。
けれど、狛の知っている景色は、もうどこにもなかった。
「なんで……」
答える者はいない。
ただ、すぐそばでウロが同じ景色を見上げている。
土煙に霞むその横顔へ、幼い日の面影が重なった。
古びた石段。
木々の隙間から差し込む、淡い光。
――幼い狛が、まだ名もなかった獣へ手を差し出している。
『……お互い、化かし化かされってか』
その手の先で、赤い耳が僅かに動いた。
『じゃあ……お前の名前は――ウロでどうだ?』
自分が、ウロへ名前を与えた日。
その記憶へ、別の声が重なった。
『いや、狛“吉”だな』
『狛吉の方が語呂がいいだろ?』
『それに、この町にまた人を呼び戻してくれたからな。九条狛より、狛吉の方が似合ってる』
温かな声が、少しずつ遠ざかっていく。
代わりに聞こえてきたのは、狛がいない場所で交わされていた声だった。
『あいつは狛吉つって、おだてておけばいいんだよ』
その言葉を叩き割るように、久垣の怒声が蘇る。
『九条だぁ!?』
『九条は――俺が殺す』
狛がウロへ与えた名前。
この町から与えられた名前。
そして、憎悪とともに突きつけられた姓。
どの声も、今なお耳の奥へこびりついている。
「……俺が、九条だからだ」
「何?」
霞が狛を見る。
「あいつが狙ってたのは、俺だ。俺がここへ来たから、あいつは……」
崩れた社殿を見上げたまま、狛は言葉を継いだ。
「俺が九条じゃなけりゃ、ここは――」
「そいつの恨みまで、てめぇが背負う必要あんのかよ」
「……簡単に言うなよ」
狛の声に、僅かに棘が混じる。
霞が眉を寄せた。
「俺が何をしたかなんて関係ねぇ。九条ってだけで期待されて、恨まれて……今度はここまで――」
「だから、てめぇまで“九条のせい”で済ませんのか」
狛が霞を振り返る。
「お前に何が分かる!」
「分かるわけねぇだろ!てめぇが何も言わねぇんだからな!」
霞は地面へ突き立てていた小太刀を引き抜いた。
切先は、狛を捕らえる。
痺れの残る腕が僅かに震える。
それでも、切先を下げることはなかった。
「それで勝手に全部背負って、被害者ぶって潰れるつもりか――」
霞の声が、崩れた境内へ響く。
「――いつまでもこの地に縋ってんじゃねぇ!」
「じゃあ、俺はどうすれば――!」
「そんなもん、てめぇで考えろ!」
二人の怒声が途切れた。
あとに残ったのは、互いの荒い呼吸だけだった。
霞もまた、見る影もなく崩れた社殿へ目を向ける。
小太刀の柄を握る手へ力がこもった。
「……前を見ろよ」
今度の声は、先ほどよりも低かった。
「俺には、追いつかなきゃならねぇ背中がある。護りてぇもんもある――」
霞は崩れた社殿から目を離した。
「――だから俺は、ここで立ち止まる気はねぇ」
それ以上は何も言わず、狛へ背を向ける。
その背中を、狛は黙って見つめた。
すぐそばで、ウロが一歩だけ前へ出る。
狛は五節棍を握り直した。
脇腹を走った痛みに顔を歪めながら、それを支えにゆっくりと立ち上がった。
***
その少し前――忘却の滝。
銃口から伸びた水の刃が、またしても空を薙いだ。
砥上の姿が視界から消える。
遅れて脇腹へ衝撃が走り、奏の身体が岩場を転がった。
「ぐっ……!」
銃を握ったまま片手を地面へつき、辛うじて身体を起こす。
半透明の刀身は揺らいでいたが、その中心を通る蒼い光は、まだ途切れていない。
アビスが唸り、滝壺の水面が大きく波打った。
「惜しいね」
数メートル先へ降り立った砥上が、軽い調子で言った。
「――?」
そのとき、砥上のポケットで短い振動音が鳴る。
砥上は奏から目を離さないまま、スマートフォンを取り出した。
画面へ一瞬だけ視線を落とす。
『第一目標、搬出完了。撤収へ移行』
返信することなく、端末をポケットへ戻した。
「その新しい武器、すごいね」
砥上が銃口から伸びる水の刃へ、興味深そうな視線を向ける。
奏は荒い呼吸を整えながら、その切先を砥上へ向けた。
「……時間稼ぎか?」
「いいや?」
砥上が僅かに首を傾ける。
その返答を待たず、奏は地面を蹴った。
水の刃が、砥上の喉元を目がけて突き出される。
だが、捉えたはずの姿が揺らいだ。
「――好奇心ってやつ。純然たる、好奇心」
声は、既に奏の背後から聞こえていた。
奏が振り返りざまに水の刃を薙ぐ。
砥上は身を沈めて切先を躱し、水圧を噴射して後方へ滑った。
次の一歩を踏み込もうとした、そのときだった。
「!!」
遠くで、何かが爆ぜた。
一拍遅れて、低い轟音が山肌を伝ってくる。
岩場が震え、滝壺の水面へ幾重もの波紋が走った。
頭上の岩肌から、小石がぱらぱらと落ちる。
砥上は一度だけ、千代瀬の方角へ目を向けた。
「……さて」
その視線が、再び奏へ戻る。
「そろそろ、フィナーレといこうか」
奏の足が止まっていた。
音が届いたのは、千代瀬の方角だ。
「……お前らの仕業か」
「自分がやったわけじゃないよ」
「仲間がやったんだろ」
奏が砥上へ視線を戻す。
「だったら、同じだ」
脳裏に、晴天の空へ響いた遠雷が蘇る。
「……じゃあ、さっきの雷も」
「さてね。自分は、ずっとここにいただろ?」
「お前ら――千代瀬で、何をやってる」
「質問が多いなぁ。ターン制だって言ったでしょ?」
「だったら、次は俺のターンだ」
奏が水の刃を構え直す。
「まずはお前を倒す。そしたら、お前は后の居場所を吐く」
「倒す?――目星でもついてるの?」
「今から、お前に吐かせる――」
蒼い切先を、砥上へ向ける。
「――ターン制バトルだろ!」
砥上は一瞬だけ目を丸くし、それから楽しそうに笑った。
「いいね。じゃあ、次で最後にしようか」
奏は隣へ浮かぶ幼い竜を見た。
「アビス。俺に合わせてくれ」
『莫迦者。お主が儂に合わせるのじゃ』
「……分かった」
その返事と同時に、砥上の肌が粟立った。
殺気――とは、少し違う。
滝壺も。
飛沫も。
濡れた岩肌も。
周囲にある水のすべてが、一斉にこちらを見たような感覚。
それでも、砥上の口元から笑みは消えなかった。
むしろ、先ほどよりも深くなる。
「……そうこなくっちゃ」
アビスが小さな翼を大きく広げた。
滝壺から巻き上がった水が弾け、無数の飛沫となって岩場へ広がっていく。
雨粒にも似た水滴が、地面へ落ちることなく空中で静止した。
砥上の両肩で、浮遊装具が翼を開く。
グローブから水圧が爆ぜた。
次の瞬間、砥上の姿が消える。
奏の右側。
空中へ漂う水滴の一角が、まとめて弾けた。
砥上の姿は見えない。
だが、自分の支配下にある水が乱された瞬間を、アビスは捉えていた。
その感覚が、《共鳴》を通して奏の意識へ流れ込む。
位置ではない。
右側の水が乱されたという、曖昧な感覚。
奏は反射的に上体を逸らした。
直後、砥上の拳が頬を掠める。
浅く裂けた皮膚から、血が滲んだ。
避け切れなかった。
それでも、これまで一度も反応できなかった拳が、初めて直撃を外れた。
「目で追うのは諦めた?」
奏は頬を伝う血を肩口で拭った。
「お前だけを見る必要はない」
再び、水滴が弾ける。
今度は振り向かない。
乱れた水の位置と、その向きだけを感じ取る。
奏は一歩踏み込み、水の刃を横薙ぎに振り抜いた。
砥上が身を沈めて切先を躱す。
同時に、滝壺から複数の水流が立ち上がった。
左側。
背後。
さらに、頭上。
砥上の進路を削るように、水流が立て続けに岩場へ叩きつけられる。
残されたのは、奏の右側だった。
水の刃を振り抜いた直後。
すぐには刃を戻せない、無防備な脇腹。
砥上は一瞬でそこへ狙いを定める。
罠だとしても、奏が刃を戻すより自分が懐へ入るほうが速い。
後方へ向けた右掌から、水圧が爆ぜた。
砥上の身体が、一息に加速する。
その瞬間、アビスの瞳が蒼く輝いた。
グローブから伸びた噴流が、根元から僅かに歪む。
加速は止まらない。
だが、その軌道が予定より僅かに内側へずれた。
――ほんの三十センチ。
砥上にとっては、本来なら誤差にもならない距離。
奏は振り返らなかった。
銃を握った右腕を身体の脇へ引き戻し、切先を斜め後方へ向ける。
砥上の姿などない空間へ、ただ刃を置いた。
水圧ジェットをずらされた砥上が、その切先の正面へ飛び込んでくる。
砥上の目が、僅かに見開かれた。
両肩の浮遊装具が瞬時に展開する。
逆向きの水圧が爆ぜ、砥上の身体へ急制動をかけた。
靴底が濡れた岩場を滑る。
水飛沫が大きく弾けた。
それでも、完全には止まり切れない。
砥上は上体を仰け反らせ、喉元へ迫る切先から逃れた。
蒼い刃が、その喉元数センチで止まる。
砥上は、止まった。
だが、躱すことはできなかった。
奏がゆっくりと身体をひねり、砥上へ向き直る。
切先は、喉元から外さない。
砥上は蒼い刃を見下ろし、それから奏へ目を向けた。
――やがて、ゆっくりと両手を挙げる。
「……参った参った。さすがラストクォーツ“様”だよ」
両手を覆っていたグローブと、肩の浮遊装具が水色のイデアへ解けていく。
散った光が砥上の背後へ集まり、カワセミの姿を形作った。
アルキュオネは一度だけ翼を広げると、そのまま淡い光となって送還された。
「お前のターンだ……!后の場所を言え!」
「后ちゃんの居場所、か」
砥上は考えるような間を作った。
その視線が、ほんの一瞬だけ下がる。
奏は、その動きを見逃さなかった。
視線の先にあるのは、自分の左腕。
――蒼いクォーツを収めた、父の腕時計だった。
砥上が何かを見つけた。
そう思った瞬間、奏も反射的に視線を落とす。
空中に静止していた水滴が、一粒だけ落ちた。
続いて、もう一粒。
張り巡らされていた水の網が、僅かに綻ぶ。
空気が弾けた。
奏の前髪が激しく揺れ、足元の水滴が一斉に吹き飛ばされる。
「――っ!」
顔を上げたときには、砥上の姿はなかった。
奏は声のない場所へ銃剣もどきを振るう。
切先は、何も捉えない。
「残業はしない主義でね」
声は滝の音に紛れ、岩壁の間へ消えていった。
奏は声のした方角へ切先を向ける。
水の索敵網へ意識を戻し、周囲を探る。
だが、水滴はもう何者にも乱されない。
砥上の姿も、気配も、どこにもなかった。
張り詰めていたものが、僅かに緩む。
銃剣もどきの中心を通っていた蒼い光が明滅した。
一度。
そして、二度。
光が途切れた瞬間、半透明の刀身が形を失った。
大量の水滴となって弾け、滝壺へ降り注いでいく。
あとには、華園重工製のハンドガンだけが奏の手に残った。
――奏は近くの岩まで、足を引きずるように歩いた。
途中で一度、岩肌へ手をつく。
乱れた呼吸を繰り返しながら、それでも数歩だけ進む。
腰を下ろした――というより、もう身体を支えきれず、岩肌へ落ちるように座り込んだ。
「……少しだけ、休むよ」
アビスが奏の隣の岩へ降り立つ。
『これで、儂の苦労も身をもって分かったじゃろ?ただただお主の肩に乗っておるだけではないのだぞ』
アビスは得意げに胸を張った。
『そもそも、水というのはじゃな。ただ動かせばよいというものではない。流れを感じ、隅々まで支配してこそ――』
奏は岩肌へ身体を預けたまま、荒い呼吸を繰り返す。
『全盛期の儂にかかれば、ここら一帯の水という水を、ぜーんぶ宙へ集めることだって可能じゃぞ。それを一気に落としてやれば――』
アビスの講釈は、いつの間にか武勇伝へ変わっていた。
声は聞こえている。
ただ、その言葉は奏の頭へ入ってこなかった。
奏は、つい先ほどまで自分の中に流れ込んでいた感覚を反芻していた。
砥上が弾いた水滴。
水流の揺らぎ。
目では捉えられなかったはずの、その軌道。
あれはアビスの感覚だったのか。
それとも、自分の感覚だったのか。
今の奏には、もう区別がつかなかった。
***
窓の外では、千代ノ瀬川が何事もなかったかのように流れていた。
その向こうでは、店や宿から出てきた人々が足を止め、山の方角を見上げている。
橋の上にも人が集まり始め、温泉街は明らかに落ち着きを失っていた。
そのざわめきも、ラウンジの大きな窓を隔てれば遠い。
御手洗と佐岸は、今もローテーブルを挟んで向かい合っていた。
御手洗はソファへ浅く腰掛け、抜き放った日本刀を手にしたまま、佐岸から警戒を外していない。
不意に、ロビーの自動ドアが開いた。
「――!」
御手洗が反射的にそちらへ視線を向ける。
だが、入口には誰もいない。
開いた自動ドアが、ゆっくりと閉じ始めていた。
「帰りますよ」
声は、視界の外から聞こえた。
「――!?」
御手洗が振り返る。
佐岸の座るソファ。
その背後に、砥上が立っていた。
両手をポケットへ入れ、呼吸一つ乱していない。
ただ、衣服はところどころ水を吸い、裾には泥と細かな砂が付着していた。
濡れた前髪の先から、一滴の水が落ちる。
(こいつ――疾い!)
遅れて、爽やかな香水の香りがラウンジを横切った。




