10-2話_Cascade
生春巻きを作ろうとしたら失敗しました。
――旧千代瀬集材所へと向かう道
「残念。あなたたちには、塩対応すら生ぬるいわ」
柄沢のこめかみが、ぴくりと引きつった。
「塩だぁ……?」
右手に握った短刀が、わずかに震えている。
岬との戦闘で受けた傷。
二分間に及ぶ双鳶姉妹との攻防。
呼吸はすでに荒く、右上腕から流れた血が袖を濃く染めていた。
それでも柄沢は短刀を握り直し、姉妹を睨みつける。
「さっきから、舐めた口ききやがって……!」
靂は答えなかった。
柄沢から視線を外さないまま、少し離れた場所に控えている召喚獣へ声をかける。
「シータ、周囲を警戒してて。あと、そこの暴れ馬が逸って邪魔しないように、見張ってて」
『ええ。任せて』
『誰が暴れ馬だ!』
すかさず声を上げたガンマへ、霹が振り返る。
「ガンマ以外にいんの?」
『我はただ、加勢する機を――』
「ないない。そこで大人しく見てて」
霹が片手を振る。
シータの身体から、無数の鱗が浮かび上がった。
薄い雷光を帯びた鱗は木々の隙間へ散り、道路沿いから上空に至るまで、戦場を取り囲むように静止する。
それを見届けた靂が、薙刀を構え直した。
「始めましょうか」
その一言を待たず、柄沢が動いた。
左腕を覆う黄土色の盾が、急速に縮小していく。
面積を失う代わりに密度を増し、半透明だった表面が岩盤のような厚みを帯びる。
柄沢は腰を落とし、凝縮した盾を地面へ叩きつけた。
轟音。
黄土色のイデアが亀裂となって地中を駆ける。
次の瞬間、霹と靂へ向かって地面が波打った。
舗装を内側から突き破り、岩塊が次々と隆起する。
砕けた路面を巻き込みながら迫る大地の奔流が、姉妹の姿を呑み込もうと大きくせり上がった。
だが、霹は避けなかった。
薙刀を頭上へ振りかぶる。
柄沢の目が見開かれた。
「だから――」
霹が一歩、強く踏み込む。
「生ぬるいって言ってんじゃん!」
振り下ろされた薙刀が、隆起した大地へ激突した。
土属性のイデアで固められた岩塊が、衝撃の中心から砕け散る。
土砂と岩片が左右へ吹き飛び、辺り一帯を濃い土煙が覆った。
その瞬間。
細長い影が、霹の死角へ滑り込む。
柄沢が大地を隆起させた時点で、真柴はすでにその陰へ身を移していた。
土煙を突き破り、四段に伸びた特殊警棒が霹の側頭部を狙う。
霹は咄嗟に薙刀の柄を立てた。
硬い音が弾ける。
警棒は衝撃を受けて大きくしなった。
だが折れることなく、鞭のように力を逃がすと、すぐに元の直線へ復元する。
「へえ。オモチャにしちゃ、頑丈じゃん」
「あなたに言われると、褒められている気がしないわね」
真柴は警棒を引き戻さない。
しなりから戻る反動を利用し、そのまま霹の手首へ打ち下ろす。
霹が薙刀を滑らせて受け止めた。
雷が弾ける。
真柴は真正面から力を受けず、警棒を斜めに傾けた。
霹の膂力を外側へ逃がしながら身を翻し、間合いの外へ抜ける。
二人の武器が離れた直後、土煙の向こうで再び雷鳴が轟いた。
霹と真柴。
靂と柄沢。
戦場は、自然と二つに分かれていた。
柄沢は地面へ叩きつけた盾を引き抜こうとした。
その背後で、砂利を踏む音がした。
振り返るより早く、薙刀の石突が右膝の裏へ叩き込まれる。
「がっ……!」
支えを失った右脚が折れ、柄沢は片膝をついた。
靂は止まらない。
返した薙刀の柄を、盾と一体化した左肩へ打ち据える。
一瞬遅れて、紫電が爆ぜた。
左肩から指先まで、痺れが突き抜ける。
黄土色の盾が激しく明滅し、その輪郭が崩れ始めた。
「ちっ……!」
柄沢は歯を食いしばり、右手の短刀を背後へ振るう。
負傷しているとは思えない、鋭い一閃。
靂は上体を反らして刃をかわした。眼前を通過した切先へ薙刀の柄を絡め、そのまま外側へ捻り上げる。
右上腕の傷が開いた。
柄沢の顔が苦痛に歪む。短刀を手放すまいと踏み留まるが、左腕の盾は形を保てない。
ひび割れるように黄土色の光が散り、召装が消失した。
それでも柄沢は倒れなかった。
短刀を地面へ突き立て、荒い息を吐きながら立ち上がろうとする。
靂は冷えた目で、その姿を見下ろした。
「しぶといのね」
――一方、霹の薙刀が真柴の特殊警棒と激しく打ち合っていた。
力では霹。
技術と武器の特性では真柴。
真柴は一撃たりとも真正面から受け止めず、警棒のしなりを使って薙刀の軌道を外し続ける。
薙刀の刃が横薙ぎに迫る。
真柴は警棒を両手で構え、斜めに受けた。
金属音とともに雷が走る。
霹の薙刀から流れ込んだ紫電が、真柴の警棒を伝っていく。
柄尻に埋め込まれた小さな灯が、一度だけ明滅した。
それは瞬きほどの光だった。
真柴自身すら確認しなかったその変化を、柄沢と対峙していた靂の瞳だけが捉える。
――あれは?
靂の視線が、ほんの一瞬だけ警棒の柄尻へ落ちた。
霹が薙刀を振り抜く。
真柴は受け流しながら後方へ跳んだ。
その着地点で、地面に残されていた微かな雷が瞬く。
真柴が眉を寄せた。
足元だけではない。
周囲の木々。
砕けた舗装。
先ほど霹が粉砕した岩片。
戦闘の最中、靂が通過した場所には、楔のような雷が打ち込まれていた。
真柴は警棒を構え直し、視線だけを巡らせる。
――いつから仕掛けられていた?
そう考えた直後、霹が再び間合いへ踏み込んだ。
重い斬撃が、真柴の逃げ道を削っていく。
右へ退けば、雷。
左へ逃れようとしても、そこにも微かな紫電。
霹の薙刀が、真柴の回避方向を限定する。
靂の雷が、その先を塞いでいる。
合図もない。
互いの姿を確かめることすらない。
それでも霹と靂は、戦場にいる二人を同じ場所へ追い立てていく。
柄沢と真柴が、背中合わせに近い位置へ追い込まれた。
柄沢が息を切らしながら吐き捨てる。
「こいつら、本当に学生なのか!?」
「さっき言いましたよね――この二人は御三家だって!」
「おい……何とかしろ、真柴……!」
「今、考えているわ!」
「考えてる間に、やられんだろうが……!」
真柴は答えず、周囲へ視線を走らせた。
地面に散らばる、無数の雷。
その中心で、霹が薙刀を両手に構えていた。
霹の薙刀へ、雷のイデアが収束していく。
刃から溢れていた紫電が消える。
否。
消えたのではない。
一筋も逃がさぬよう、刀身の内側へ押し込められている。
空気が震えた。
真柴は危険を察し、警棒を構えたまま後退しようとする。
その踵が地面へ触れた瞬間、靂の残した雷が行く手を遮った。
柄沢が短刀を引き抜き、霹へ向かって踏み出そうとする。
しかし、痺れの残る左脚が動かない。
「靂!」
霹が呼ぶ。
返事はない。
返事の必要もなかった。
靂はすでに薙刀を構え、静かに息を整えている。
霹が大きく振りかぶった。
「はぁぁぁぁっ!!!」
凝縮された雷を纏う刃を――地面へ深々と突き刺す。
轟音が弾けた。
刀身から地中へ流れ込んだ雷が、最も近くに残されていた紫電へ引き寄せられる。
一つ目が輝く。
そこから、二つ目へ。
二つ目から、三つ目へ。
雷が雷を呼び、その雷が、さらに別の雷を呼ぶ。
地面を走り、岩片を伝い、木々の間を跳ぶ。
戦場へ楔のように打ち込まれていた紫電が次々と誘雷し、柄沢と真柴の周囲へ巨大な網を編み上げていく。
「ぐっ……!」
柄沢が咄嗟に左腕を掲げる。
消えかけていた黄土色の盾が、再び輪郭を取り戻した。
だが、雷は正面から来ない。
足元から。
背後から。
砕けた岩片から。
多方向より襲いかかる雷が盾の外側を回り込み、柄沢の全身を貫いた。
真柴は特殊警棒で一筋の雷を受ける。
紫電が警棒を伝い、柄の内部へ流れ込んだ。
しかし、その一本を逃がしたところで終わらない。
別の楔から誘われた雷が背後で弾け、真柴の身体を飲み込んだ。
視界を白く染めるほどの雷光。
遅れて、腹の底まで震わせる雷鳴が山間へ轟いた。
――やがて光が収まる。
黄土色の盾は完全に消えていた。
柄沢は短刀を手放し、うつ伏せに倒れる。
真柴の手からも特殊警棒が滑り落ちた。
金属音を立てて地面を転がり、柄尻にある灯が沈黙する。
二人とも、動かない。
霹が地面から薙刀を引き抜き、肩へ担いだ。
「いっちょあがり!」
靂は薙刀についた土を払い、倒れた二人を見下ろす。
「大したことないわね」
少し離れた場所で見守っていたガンマが、ここぞとばかりに胸を張った。
『ああ、これぞ双鳶流――』
「はい、お疲れー!」
『待て! まだ我の解説が――』
最後まで言わせず、霹がガンマを送還する。
ガンマの姿が朝焼け色の光へほどけ、不満げな声とともにクォーツへ吸い込まれていった。
その直後だった。
遠くの森の奥から、獣の遠吠えが響いた。
「……アール?」
霹が顔を上げる。
もう一度、遠吠えが聞こえた。
今度は先ほどよりも近い。
靂の表情がわずかに緩む。
「岬たちの合図ね」
「ってことは――」
「后を見つけたのよ」
二人は倒れた柄沢と真柴へ一瞥を向けた。
そのとき、周囲へ散っていた鱗が一斉に明滅する。
シータが顔を上げた。
『人が来るわ。四人――こちらへ向かっている』
靂が木々の奥へ視線を向ける。
「敵?」
『その様子はないわ』
やがて複数の足音と、無線から漏れる声が近づいてきた。
木々の間から姿を現したのは、統一された装備に身を包んだ九条側の警備員たちだった。
先頭の男が霹と靂を確認し、足を止める。
「聖召学園の生徒さんですか。羽瀬川先生から連絡を受けてきました」
男の視線が、地面に倒れている柄沢と真柴へ移った。
「その二人ですか…ご協力いただきありがとうございます」
霹が薙刀を下ろす。
「そ。まだ生きてるから、あとはよろしく~」
警備員たちは二手に分かれた。
柄沢と真柴の呼吸を確認し、手際よく両手を拘束する。
地面へ落ちていた短刀を拾い上げ、それぞれ別の収納袋へ収めた。
その間にも、霹は遠吠えの聞こえた方向を見つめていた。
「靂、行こ!」
「ええ」
それを聞いた靂が、シータへ目を向ける。
「ありがとう。もう戻っていいわ」
『ええ。彼女をお願い』
シータの姿が、夜明け前の空に似た淡い光へ変わる。
周囲へ展開されていた鱗も一枚ずつ光へほどけ、靂のクォーツへ吸い込まれていった。
霹と靂は、旧千代瀬集材所へ続く道へ向かって駆け出した。
***
雷鳴の残響が、山間を渡っていく。
忘却の滝へ届いた頃には、その音も滝の轟音へ呑み込まれていた。
コイツに、刃を――。
奏は岩へ背中を預けたまま、右手のハンドガンを持ち上げた。
息を吸うたびに腹部が軋む。
水圧によって加速された拳。
岩へ叩きつけられた背中。
どちらの痛みも、まだ身体の奥へ重く残っている。
口元に滲んだ血を手の甲で拭い、銃口を砥上へ向けた。
砥上は追撃してこない。
|《召装》《インシグニア》を纏ったまま、奏が何をしようとしているのか、離れた場所から黙って観察している。
奏はその視線を振り切るように、銃口へ意識を集中させた。
周囲を流れる水。
アビスが自分を守るため、幾重にも巡らせている水の一部へ、奏は意思を伸ばす。
水が反応した。
細い流れが水壁から離れ、ハンドガンの銃口へ集まっていく。
集める。
細く。
鋭く。
銃口の先で、水が短い切先のような輪郭を作り始めた。
だが、その形は一秒と保たなかった。
水がアビスの方へ引き戻され、切先が飛沫となって崩れ落ちる。
「……くそ」
奏はもう一度、銃口へ意識を集中させる。
先ほどよりも強く、水を引く。
水壁の一部が大きく揺れた。
銃口へ集まった水が伸び、刃らしき形を作ろうとする。
『何をしておる、奏!』
アビスの声が響く。
同時に水を引き戻され、二度目の刃も形を結ぶ前に崩壊した。
「あと少しだったのに……!」
『勝手に儂の水を持っていくでない!』
砥上は動かない。
奏とアビスの間で、水が行き来する様子をじっと見つめている。
奏が水を引けば、銃口へ集まる。
アビスが取り戻せば、水壁へ戻る。
そのたびに奏を覆う防御の一部が、ほんの一瞬だけ薄くなっていた。
砥上の目が、わずかに細められる。
奏は三度、銃口へ水を集めようとした。
水壁から細い流れが引き抜かれる。
その瞬間。
防壁の表面に、縫い目のような薄い箇所が生まれた。
砥上の姿が沈む。
(……そこか)
両肩の浮遊装具が角度を変えた。
グローブから噴き出した水圧が、砥上の身体を一直線に押し出す。
――速い。
奏が反応するより早く、加速された拳が水壁の縫い目へ滑り込んだ。
アビスが水圧を奪う。
拳を押し出していた水が支配を失い、空中へ弾け飛んだ。
それでも、すでに生まれた勢いまでは消えない。
砥上の拳が水壁をかいくぐり、奏の顔面へ迫る。
『奏!』
アビスが翼を広げた。
滝壺から大量の水が巻き上がり、薄くなった防壁へ横合いから流れ込む。
砥上の拳と激流が衝突した。
拳そのものは止まらない。
だが、その軌道がわずかに外側へ逸れる。
奏の頬を掠めた拳が、背後の岩へ突き刺さった。
砕けた岩片と水飛沫が、奏の横顔へ降りかかる。
あと数センチずれていれば、今度こそまともに受けていた。
砥上は岩から拳を抜くと、浮遊装具を噴かして後方へ滑る。
数メートル離れた場所へ着地し、補填された水壁を見つめた。
「……へえ――」
その声には、落胆も苛立ちもなかった。
新しい答えを得たように、砥上はわずかに口元を緩める。
「――間に合うんだ」
『何をしておる、奏!』
アビスが奏の前へ飛び出した。
小さな翼を忙しなく羽ばたかせながら、鼻先を突きつける。
『儂が間に合わなければ、今ので終わっておったぞ!』
「分かってるよ……」
『分かっておらん! 儂の水を勝手に持っていくから、守りが薄くなるのじゃ!』
「ごめんって! 次は……失敗しない」
『そういう問題ではない!』
アビスの尾が、水面を叩いた。
滝壺の水が飛沫を上げ、奏を取り囲む水壁へ加わる。
砥上の拳に破られかけた箇所が、再び厚みを取り戻していく。
奏は、その流れを見つめた。
自分が水を引けば、アビスの守りが薄くなる。
アビスが守りへ戻せば、銃口に集めた水は形を失う。
互いに同じ水へ、違う命令を与えている。
これでは何度繰り返しても同じだ。
「アビス」
『なんじゃ!』
「全部じゃなくていい――」
奏はハンドガンを握り直した。
「――君の水を、少しだけ貸してくれ」
アビスが目を瞬かせる。
「君が俺を守るために使ってる水は、もう取らない。だから――刃を作る分だけ、俺に預けてほしい」
アビスはしばらく奏の顔を見つめた。
やがて鼻を鳴らすと、滝壺へ向かって前脚を伸ばす。
水面から細い流れが持ち上がった。
透き通った水は宙を渡り、ハンドガンを持つ奏の右手の周囲へ集まっていく。
『奏の水は、こっちからここまで!』
アビスが空中へ境界を引くように、前脚を横へ動かす。
『あとは儂の!勝手に持っていくでないぞ!』
あまりにも大雑把な線引きだった。
それでも、先ほどまでとは違う。
奏の右手を巡る水は、アビスに引き戻されない。
奏が触れても、水壁は揺らがない。
「……分かった。それでいこう」
『最初から儂に聞けばよいのじゃ』
「そんな暇、なかっただろ」
『あった。あやつは、ずっと待っておったではないか』
奏は砥上へ目を向けた。
確かに、攻撃してこない。
砥上は二人のやり取りを遮ることなく、数メートル離れた場所に立っている。
奏と視線が合うと、砥上は軽く肩を竦めた。
本当に待っていたらしい。
その妙な律儀さに、奏の口元から小さな笑いがこぼれた。
アビスも牙を覗かせ、得意げに笑う。
砥上の目が、わずかに見開かれた。
(コイツら……この状況で笑ってやがる……)
驚きは、ほんの一瞬だった。
砥上はいつもの飄々とした表情へ戻り、両手を軽く持ち上げる。
「準備はできた?」
奏は岩から背を離した。
痛む腹部を押さえ込み、両脚へ力を込める。
右手のハンドガンを構え、その横へアビスが並ぶ。
砥上の口元が、わずかに吊り上がった。
「じゃあ――次のターンだ」
奏は息を吐いた。
部の痛みが呼吸を浅くする。
それでも、ハンドガンを下ろさない。
右手の周囲を巡っていた水へ、意識を伸ばす。
今度は、引き戻されなかった。
アビスから預けられた水が、奏の意思に従って銃口へ集まっていく。
――焦るな。
――ただ集めるだけでは駄目だ。
水を刃へ変えるには、もっと細く、鋭く研ぎ澄ませなければならない。
奏の脳裏に、研究所で見た剣型iCASの実演が蘇る。
水のイデアを刀身へ伝導し、細く収束させる。
それによって生まれた刃は、分厚い標的を容易く切り裂いていた。
同じことを、このハンドガンで。
銃だから、撃つだけである必要はない。
奏は左手をグリップへ添え、銃口へ集まった水を押し留める。
しかし、水は定まらない。
細く伸びようとしては崩れ、銃口の周囲で不規則に波打つ。
形を作れ。
ただの水ではなく、自分が必要としているものへ。
そのとき、もう一つの記憶が蘇った。
実地演習で初めて作り上げたイデアの弾丸。
空だったはずの薬室から撃ち出した、存在しない一発。
あのときと同じだ。
集める。
圧して。
銃口へ留める。
ただし、今度は撃ち出さない。
奏の腕時計に埋め込まれたクォーツが、淡い蒼色を帯び始めた。
アビスが、奏の隣で翼を広げる。
小さな身体から溢れた蒼いイデアが、預けられた水へゆっくりと重なっていく。
君のイデアを。
君の想いを汲み取って――。
「留めて……形にする!」
銃口から、水が一気に伸びた。
飛沫を散らしながら、蒼い刀身が形作られていく。
ハンドガンに対して、明らかに長い。
銃口から伸びた半透明の刃は、根元に厚みを持ち、先端へ向かうほど鋭く細くなっている。
その中心を、一本の蒼い光が走った。
刀身の輪郭は不安定に揺らぎ、表面から絶えず水滴が零れ落ちる。
だが、水滴は地面へ落ちない。
空中で軌道を変え、再び刀身へ吸い戻されていく。
刃が脈打つたび、奏の腕へ重い負荷がかかった。
身体を内側から引かれているような感覚。
痛む腹部に力を込め、両手でハンドガンを支える。
「まだだ……」
水の刃が大きく揺れる。
奏は歯を食いしばった。
「まだ、足りない……!」
アビスが奏へ顔を向ける。
『奏!』
その声とともに、アビスから溢れるイデアが強くなった。
奏は、銃口の先だけを見つめる。
細く。
鋭く。
君の想いを、ここに。
波打っていた刀身の輪郭が、徐々に静まっていく。
零れていた水滴が、一斉に刃へ戻った。
根元から切先まで、蒼い光が真っ直ぐに通る。
――その瞬間。
奏の腕時計とアビスが、同時に強い光を放った。
忘却の滝を流れ落ちる水が、蒼く染まる。
滝壺が輝く。
宙を舞っていた水飛沫の一粒一粒が光を帯び、周囲の岩肌を蒼色に照らし出す。
光は奏とアビスを中心に渦を巻き、滝の轟音すら呑み込む勢いで上空へ立ち昇った。
砥上が目を見開く。
蒼い光が、その瞳を染めていた。
驚愕は、やがて別の感情へ変わっていく。
恐怖ではない。
警戒でもない。
それは、恍惚にも似た歓喜だった。
(あぁ……あの方と同じだ)
色も、形も違う。
それでも、間違えようがない。
周囲のすべてを己の色へ染め上げる、圧倒的なイデア。
砥上の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「……そうでなくちゃ」
その眼前で、忘却の滝を貫く蒼い光柱が、天高く立ち昇っていた。




