8-3話_ Blue, Then Azure
タイトルを考える時が一番楽しいかもしれません。
九条リゾート千代瀬のロータリーへ、シャトルバスが滑り込んだ。
扉が開くと、御手洗と羽瀬川の誘導に従い、一年D組の生徒たちが次々と降車する。
研究所を出てからここへ到着するまで、車内には重苦しい沈黙が漂っていた。
ホテルのロビーへ入ったところで、羽瀬川が改めて生徒たちの所在を確認する。
やはり、華園后の姿だけがなかった。
御手洗は険しい表情のまま、エントランスの外へ目を向けた。
***
警報の鳴り響く研究所。
非常灯だけが点滅する薄暗い通路を、避難を促すアナウンスが繰り返し流れていた。
『これってテロってやつ!?撃退したらテレビ出れるかな!』
『いいから黙って外に出るぞ』
『避難指示に従って外へ出ろ!シャトルバスの前で点呼だ!』
霹の声を狛が制し、御手洗の怒声に追われるように、生徒たちは研究所の外へ向かった。
その最中、后の姿が見当たらないことに気づいた奏は、研究所のロビーで避難誘導を続ける真柴へ駆け寄っていた。
『后は!?』
『后お嬢様は、特別避難経路を使ってホテルへ向かっております。忘却の滝を経由するルートですので、ご安心ください』
研究所の外では、羽瀬川がシャトルバスの前に一年D組を集め、点呼を行った。
『御手洗先生、華園さんの姿が見当たりません』
そこへ、真柴が遅れて駆け寄ってきた。
『申し伝えそびれておりました。弊社の避難規定に則り、会長ご家族は特別車両にて別途避難しております。避難先は九条リゾート千代瀬です』
『あいつはうちの生徒だ。うちで責任を持って避難させなきゃならん』
『何卒ご容赦ください』
納得できないまま、御手洗は生徒たちをシャトルバスへ乗せた。
混乱の続く研究所に、一年D組を留めておくわけにはいかなかった。
走り出したバスを、真柴はただ静かに見送っていた。
***
そして現在。
后は、まだホテルへ到着していない。
ロビーに集まった誰もが、どう動くべきか判断できずにいた。
真柴の説明を信じるなら、后は別の車両でこちらへ向かっている。
しかし、その無事を確認する手段がない。
そのとき、光庭の向こうで何かが揺れた。
朱色の鳥型イデア体が、ホテルへ向かって飛んでくる。
けれど、その飛び方は正常なものではなかった。
羽ばたくたびに高度を落とし、片翼からは朱色の粒子が絶えずこぼれている。
身体の輪郭は明滅し、一部が欠けたように崩れ始めていた。
「ベレッタ……?」
奏の声に、朱色の鳥が顔を上げた。
華園后の召喚獣、ベレッタ。
ベレッタは光庭へ倒れ込むように不時着した。
その嘴には、黒い留め紐が固くくわえられている。
奏が駆け寄る。
崩れかけた輪郭の中で、ベレッタの瞳がまっすぐに奏を捉えた。
何かを伝えようとしている。
奏には、そう見えた。
しかし、声も、景色も、意思も届かない。
嘴がわずかに開き、黒い留め紐が地面へ落ちた。
次の瞬間、ベレッタの輪郭が朱色の粒子へほどけていく。
伸ばされた奏の手が触れるより早く、その姿は虚しく霧散した。
あとには、黒い留め紐だけが残された。
奏はそれを拾い上げる。
赤と金のあわいに輝く髪をまとめていた、黒い留め紐。
そこには、朱色の細い線が波打つ小さな飾りが取り付けられている。
ほんの少し前のやり取りが、脳裏をよぎった。
『后も何か持ってるのか?』
奏に尋ねられ、后は自分の髪へ触れた。
『これよ。私のイデア波形を、そのまま意匠にしてあるの』
『それも波形なのか。かわいいじゃん』
『そ、そうでしょ?ただの模様に見えるでしょうけど、私だけの形よ』
后の指先で、小さな朱色の波形が揺れる。奏はその形を、何気なく目で追っていた。
間違いない。
「后のだ……」
奏の手から、岬が髪留めを受け取った。
傍らに控えていたアールが鼻先を近づけ、その匂いを深く嗅ぐ。
負傷したベレッタが、后の髪留めを運んできた。
安全に保護されているはずの后が、自分の召喚獣へそれを託した。
奏の脳裏に、真柴の言葉が再び蘇る。
『忘却の滝を経由するルートですので、ご安心ください』
「忘却の滝……」
奏は顔を上げると、ロビーに掲示された千代瀬地域全体図へ駆け寄った。
現在地――九条リゾート千代瀬。
そして、忘却の滝。
二つの地点を、奏の視線が何度も往復する。
地図に記された経路と距離を、頭へ叩き込む。
腰にはハンドガンがある。
左手首には、アビスがいる。
自分だけが、后のいる可能性がある場所を知っている。
奏は踵を返し、エントランスの自動ドアへ向かって駆け出した。
「え、ちょっと、天宮君……!」
その動きに気づいた岬が声を上げる。
「悪い、みんなを頼む」
奏は足を止めなかった。
「お前!どこ行くんだ!」
御手洗の怒声が、ロビーに響く。
奏は走りながら一度だけ振り返り、誤魔化すように苦笑した。
「説教は後でちゃんと受けます!」
そのまま自動ドアを抜け、ホテルの外へ駆け出していく。
「あの馬鹿……!」
御手洗は鋭く舌打ちすると、羽瀬川先生へ振り返った。
「羽瀬川先生、ここをお願いできますか」
「御手洗先生は?」
「あいつを連れ戻します。華園も俺が捜します」
それから、ロビーに残された生徒たちを見回す。
「お前ら、無謀な行動はするな。羽瀬川先生の言うことを聞け」
「分かりました。こちらは任せてください」
羽瀬川先生の返事を受け、御手洗は足早にロビーを離れた。
数分後。
自室に保管していた日本刀を左腰へ帯び、御手洗は再びロビーへ戻ってきた。
そのとき、エントランスの自動ドアが開いた。
***
その少し前。
千代ノ瀬川を挟んだ、向かいの旅館。
早朝に作戦会議を行った客室の広縁から、佐岸は九条リゾート千代瀬を眺めていた。
ほどなくして、一台のシャトルバスがホテルのロータリーへ滑り込む。
開いた扉から、制服姿の生徒たちが次々と降りてきた。
その後に続く、教員と思しき大人の姿もある。
生徒たちは誘導に従い、ホテルの中へ入っていく。
避難は滞りなく進んでいるらしい。
「さてと……」
佐岸は窓辺を離れ、身支度を始めた。
室内に、砥上の姿はない。
忘却の滝へ向けて出発してから、すでにしばらく経っている。
広縁の小卓には、飲みかけの煎茶が置き去りにされていた。
砥上が脱いだ浴衣は乱雑に放られることなく、部屋の隅へ綺麗に畳まれている。
客室には、あの男が残していった柑橘系の香りだけが薄く漂っていた。
しばらくして、佐岸はシャツとスラックス姿で窓際に立っていた。
鏡を覗き込みながら、肌へ化粧水を馴染ませる。
ふと、視界の端を朱色の何かが横切った。
佐岸は手を止め、窓の外へ目を向ける。
朱色の鳥型イデア体が、山間から九条リゾートへ向かって飛んでいた。
羽ばたきは弱々しく、何度も高度を落としている。
やがてその姿は、ホテルの光庭がある辺りへ消えていった。
「思ったより、向こうが動くのは早かったな」
佐岸は鳥の消えた方角を眺めながら、ネクタイを締めた。
ベストを羽織る。
最後に、ダークブラウンのジャケットへ腕を通した。
残っていた荷物をキャリーケースへ収め、ファスナーを閉じる。
取っ手を引き上げると、佐岸は部屋の中央へ戻った。
広縁。
座卓。
床の間。
室内を順番に指差しながら、最後の確認を済ませる。
「忘れ物無いな。ヨシ!」
玄関に置かれていた、透明なアクリル棒の付いたルームキーを手に取る。
鍵が、じゃらりと小さな音を立てた。
佐岸はキャリーケースを引き、客室をあとにする。
フロントでルームキーを返し、チェックアウトを済ませると、そのまま旅館の外へ出た。
休日の千代瀬は、多くの観光客で賑わっていた。
駅前のマルシェには人が集まり、《CHIYONOSE》のオブジェには記念撮影を待つ列ができている。
温泉饅頭屋の前では、若者たちが商品を手に写真を撮っていた。
その傍らでは、店主らしき老人が翻訳機の画面を外国人観光客へ見せながら、身振りを交えて何かを説明している。
佐岸は、その人波に紛れて歩いていた。
ダークブラウンのスリーピースに、片手にはキャリーケース。
石畳の上を転がる車輪が、規則正しく小さな音を立てている。
人気のスイーツ店の前を通りかかったところで、佐岸はわずかに歩みを緩めた。
ショーケースには、色鮮やかな“映え”スイーツが並んでいる。
佐岸はそれらを流し目で眺めた。
「久しぶりに会うわけだし、差し入れでも買っていくかな」
そう呟きながらも、店へ入ることなく歩き続ける。
そのとき、観光客の人波とは明らかに違う速さで、向こうから駆けてくる青年が目に入った。
何かに焦っているような表情だった。
大事な相手に、想いでも伝えに行くのだろうか。
海のように深い群青色の髪は、陽光を受ける角度によって、佐岸のスーツと同じ焦茶色にも見えた。
「青いねぇ……」
距離が縮まる。
五メートル。
三メートル。
青年は佐岸へ目もくれず、その脇を駆け抜けた。
すれ違う、その一瞬。
佐岸は見逃さなかった。
青年の左手首。
クォーツの嵌め込まれた腕時計が、日の光を反射する。
その奥に宿る色を。
「蒼い……ねぇ」
佐岸は呼び止めることも、振り返ることもしなかった。
青年が駆けてきた方向へ、変わらぬ足取りで歩き続ける。
やがて、九条リゾート千代瀬が見えてきた。
ロータリーへ入り、正面玄関へ向かう。
センサーが佐岸を捉え、エントランスの自動ドアが左右へ開いた。
ダークブラウンのスリーピース。
片手にはキャリーケース。
どこからどう見ても、旅先のホテルへやってきた宿泊客だった。
佐岸はロビーへ足を踏み入れ、何食わぬ顔で尋ねた。
「九条リゾート千代瀬って、ここで合ってますか?」
張り詰めていたロビーに、短い沈黙が落ちる。
左腰に日本刀を帯びた御手洗が、ゆっくりと振り返った。
佐岸の革靴。
ダークブラウンのスラックス。
同色のベストとジャケット。
そして、その顔。
御手洗は、足先から頭の先まで確かめるように視線を動かした。
羽瀬川は御手洗の異変に気づかないまま、佐岸の前へ歩み寄る。
「すみません。今、ホテルの方をお呼びしますので――」
その言葉を遮るように、白刃が閃いた。
羽瀬川と佐岸の間へ、御手洗の刃が滑り込む。
わずかに遅れて、鞘走りの音と鋭い風がロビーを抜けた。
「――てめぇ、何しに来やがった!」
佐岸に似合うスーツを考えに、スーツ屋さんに行きました。




