8-2話_ The Situation Is Fluid
朝がだいぶ涼しくなってきた気がします
《同日 午前六時三十分》
朝靄が、千代瀬の山あいに薄く残っていた。
静かな温泉街を満たすのは、千代ノ瀬川の絶え間ない水音だけ。
川を挟んだ向かいには、九条リゾート千代瀬が、早朝の淡い光のなかで静まり返っている。
その対岸に建つ旅館の一室。
「――侵入は、予定どおり研究棟北側の搬入口から。解錠はこちらの協力者が行う」
そう言ったのは、座卓の手前に腰を下ろした長髪の男――佐岸弥陸。
旅館の浴衣姿で片膝を立て、そこへ片腕を軽く預けている。
崩した座り方に反して上半身の姿勢と襟元は整っており、傍らには湯気の立つ緑茶が置かれていた。
「協力者は、既に現地にいるってことっすか」
佐岸の言葉に確認を返したのは、柄沢迅吾。
明るい茶髪を短めのアップバングに整えた、健康的に日焼けした男だった。
黒い薄手のナイロンジャケットの下には、飾り気のない白いTシャツ。
首元では、安物めいたネックレスチェーン型のクォーツギアが、身じろぎに合わせてじゃらりと音を立てた。
「ああ。既に中へ入ってる。予定時刻になれば制御系統が落ち、搬入口が開く。停電が突入の合図だ」
佐岸は座卓に広げた地図へ指を滑らせた。
「久垣。お前は先に出て、指定した山道へ《目印》を置け。終わったら、そのまま指定地点で待機」
「……置きゃあいいんだろ」
低く、喉の奥で鳴るような声が返った。
座卓の奥で胡坐を組んでいるのは、久垣京次郎。
佐岸とほとんど変わらない長身ながら、肩幅も胸板もひと回り分厚い。
大量の白髪が混じった黒髪を肩より下まで伸ばし、油気を帯びた髪束を後方へ撫でつけている。
身につけているのは、色褪せた濃紺の作業用ブルゾンと黒いTシャツ。
エナジードリンクを掴む太い左手の親指には、鋼色のクォーツを嵌め込んだ金色のサムリングが、鈍く光っていた。
「で、そこで黄昏れてる兄ちゃんは、結局待機ってことっすか?」
柄沢が、座卓の右手にある広縁へ目を向けた。
「ああ。こいつは今のところ、保険だ」
「自分、待機なんで。変な問題、起こさないでくださいよ」
広縁から、気怠そうな声が返ってきた。
そう言ったのは、砥上沃哉。
旅館の浴衣姿で座卓には加わらず、千代ノ瀬川の向こうに建つ九条リゾートを眺めている。
灰褐色の柔らかな髪が耳へ僅かにかかり、色白の顔には穏やかな垂れ目と、薄い笑みが浮かんでいた。
傍らに置かれた緑茶からは、既に湯気が消えている。
「で、研究所は今日も普通に動いてるんすか?」
柄沢がミネラルウォーターの蓋を捻った。
「大型連休に絡む休日だ。製造棟も研究棟も、交代要員だけで動いてる。平日より人は少ないが、止まってるわけじゃぁない」
「誰もいないほうが楽だったんすけどね」
「完全に止まってりゃ、搬入口だけ開けても目立つだろ。人も設備も動いてるから、事故で紛れ込んだように見せられる」
柄沢は小さく頷き、開けたばかりの水を口へ運んだ。
「運び出すのは、iCASの研究データと試作機。現地で集めた連中には、停電と同時に搬入口から入らせる」
「荷運びは、そいつらにやらせるのか」
久垣がエナジードリンクの缶を座卓へ置いた。
「ああ。連中は実機と指定した機材を外へ運ぶだけだ。中身も、何を盗んでるのかも知らせる必要はない」
佐岸は地図上に記された搬入口から、山側へ延びる経路を指でなぞる。
「柄沢。お前は先に搬出経路を確認しろ。車両が問題なく抜けられるよう、邪魔になりそうなものは片づけておけ」
「了解っす」
「侵入後の指示は、現地の協力者から出す。勝手に動くな。予定にない問題が起きた場合も、必ず俺を通せ」
柄沢は水のボトルを置き、久垣は返事の代わりにエナジードリンクを呷った。
広縁の砥上だけは振り返らない。
佐岸は三人の反応を順番に眺めると、座卓に広げていた地図を畳んだ。
「それじゃあ、始めようか」
湯呑みを手に取り、まだ温かい緑茶を一口啜る。
「良い結果は、良い計画から」
柄沢と久垣が立ち上がる。
同じ時刻に旅館を出る二人が、その先も行動を共にすることはなかった。
それぞれが任された場所へ向かうため、別々に部屋を後にした。
***
「それでは、ここで二十分間の休憩とします」
真柴の案内で、生徒たちは研究棟内の休憩スペースへ移動した。
「私は次のプログラムの準備がありますので、一度失礼します。お時間になりましたら、館内放送でご案内します」
真柴は教員二人へ一礼し、職員専用扉の向こうへ姿を消した。
扉が閉じても、その表情は変わらなかった。
廊下を進み、技術発表ホールに併設された準備室へ入る。
発表用の大型スクリーンや舞台照明、格納された二機の試作機は、それぞれ待機状態へ移行していた。
真柴は操作卓の前へ座ると、端末へ職員証をかざした。
表示されたのは、先ほどまで生徒たちが体験していたイデア波形測定の記録。
その一覧から、天宮奏の名前を選択する。
水属性を示す青い波形。
体験者向けの画面に表示されたものと同じ、何の変哲もない測定結果だった。
だが、画面の隅には、権限を持つ真柴にしか見えない通知が残されている。
――登録済波形との照合基準値を超過。
測定中、端末の裏側では、生徒たちの基礎波形と、前日に採取したイデア残滓との自動照合が行われていた。
天宮奏が測定装置へ入ったとき。
生徒たちが見守る画面には、通常の水属性を示す青い波形だけが現れた。警告音も、異常を示す表示もなかった。
しかし、真柴の操作端末にだけ、小さな通知が浮かんだ。
その瞬間、操作盤の上で指が止まった。
ほんの一瞬だけ。
真柴はすぐに通知を閉じ、普段どおりの微笑みを奏へ向けた。
――天宮さんも、問題ありません。
真柴は保存された二つの記録を開いた。
一つは、CPNo.10のコンクリート床に穿たれた孔から採取したイデア残滓。
特殊な測定器を通したことで、通常の水属性とは異なる蒼色を示したもの。
もう一つは、今日測定した天宮奏の基礎波形。
二つの波形を重ね合わせる。
感情や体調によって変動する表層部分を除いても、その輪郭は高い水準で一致していた。
真柴は結果を確認すると、通話を接続した。
「本日は休日稼働です。製造棟、研究棟ともに交代要員のみ。設備は通常どおり動いていますが、在館者は平日より少なくなっています」
耳元へ届くのは、浅い呼吸音だけだった。
『こちらは俺と、砥上が千代瀬に待機している。柄沢と久垣はすでに出発し、任務遂行中。報告を続けてくれ』
真柴は構わず、報告を続ける。
「iCASの実演中、瞬間的な電力負荷が規定値を超え、保護系統が作動したようにログを偽装します。合図は当初どおり、停電です。研究棟北側の搬入口は、警報と連動して電気錠が常開へ切り替わります。そこから侵入してください。監視、認証を含むセキュリティ系統は全てシャットアウト。管制画面上では、非常用電源へ正常に切り替わったよう表示されます。また、停電と同時に守衛室も隔離します。警備員は、しばらく外へ出られません。以上です」
必要な報告は終わった。
真柴は一度、重なり合った波形へ目を戻す。
「……それと、作戦には直接関係ありませんが、もう一点」
『なんだ?』
「あくまで仮説の段階ですが……本日の見学生徒のなかに、ラストクォーツ保持者がいる可能性があります」
通話の向こうから、衣擦れの音がした。
『根拠は?』
佐岸の声色は変わらない。
「昨日、CP9の安全障壁に異常が発生しました。高校一年生の出力で、華園重工の障壁が損傷すること自体、通常では考えられません」
『設備側の不具合は』
「確認されていません。障壁は正常に作動していました。入力されたイデア出力だけが、想定値を大幅に上回っています」
『称号持ちなら?』
「その可能性はあります。ですが、その後に調査したCP10で、別の異常が見つかりました」
『別の異常?』
「穿孔痕に残されていたイデアです。専用機器を通したところ、通常の水属性とは異なる――蒼色を示しました」
わずかな沈黙。
『それで、誰なんだ?』
「本日の波形測定中、残滓との自動照合を行いました。基準値を超える一致が確認されています」
真柴は画面上で重なる二本の波形を見つめた。
「CP10に残されていたイデア残滓の持ち主――天宮奏です」
その名前が、通話を介して、研究所から離れた旅館の一室へ届いた。
座卓の手前に座る佐岸は、黙ったまま地図へ目を落としていた。
一方、広縁に腰を下ろしていた砥上沃哉の身体は、本人の意識より先に反応した。
青緑の瞳孔が開く。
心拍が速まり、冷めた緑茶の傍らに置かれた指先が微かに震えた。
恐怖ではない。
経験も、技術も、積み上げてきたすべてを、ただ純粋な力だけで踏み潰す存在。
その絶対性を知る者の、畏怖と興奮だった。
「……あの方と、同じ力を……?」
「真柴。どこまで確信してる?」
『ラストクォーツ保持者だと断定できる段階ではありません。ただ、CP9とCP10、そして今日の測定結果。この三つが偶然重なったとは考えにくいかと』
「……自分が、確かめても?」
佐岸は、広縁へ視線を向けた。
「よかったじゃぁないか。手ぶらで帰らずに済むぞ、砥上――とはいえ、研究所の中でお前に暴れられちゃ困る。こっちは盗みに入るんだ。ラストクォーツ相手の実力試しまで、同じ場所で始めるつもりはない」
『では、彼を孤立させますか?』
「自分がソイツをとっ捕まえて、山奥で二人きりにでも――」
「お前は、すこーし喋るのを我慢しろ」
佐岸は砥上の言葉を遮った。
「俺と真柴で、お前のために最高の舞台を用意してやる」
佐岸は座卓の地図へ視線を戻した。
「真柴。混乱に乗じて、天宮だけを別の場所へ運び出せるか?」
『難しいかと』
「理由は?」
『見学には、学園の教員が二名同行しています』
「誰だ?」
『羽瀬川先生と――御手洗先生です』
佐岸の表情から、笑みが消えた。
「……御手洗かよ」
「そのミタライって先生、自分が相手すればよくないですか?」
「無理だ」
佐岸は、考える間もなく切り捨てた。
「さすがのお前でも、準備なしにぶつけてどうにかなる相手じゃねぇよ」
「……それほどですか」
「それほどなんだよ。お前を死なせたら、お前の上司になんて報告すりゃいいか分からねぇよ」
一度、沈黙が落ちた。
「くそ...天宮の確保は、一旦白紙だ」
それきり、佐岸は口を閉ざした。
ラストクォーツ保持者かもしれない天宮奏を、仮説だからと見過ごすことはできない。
だが、天宮へ手を出せば御手洗が動く。
現在の人員と配置では、iCASの奪取と並行して対処できる相手ではなかった。
十数秒の沈黙。
佐岸は傍らの湯呑みを手に取り、緑茶を一口啜った。
天井を仰ぎ、細く息を吐く。
天宮をこちらから連れ出せば、御手洗に追われる。
ならば――こちらから連れ出さなければいい。
「真柴」
『はい』
「天宮が自分から動くような、“餌”はないか?」
『餌、ですか?』
「教師にも他の生徒にも相談せず、一人で追いかけてくるような何かだ。そいつと関わりの深い人間は?」
数秒の間を置いて、真柴が答えた。
『……后様。華園后、です』
真柴は、奏と后が同じクラスであること、昨日の実地演習でペアを組んでいたことを説明した。
今日の見学中も、互いの様子を気にかけている。
少なくとも、后に危険が迫っていると知れば、奏が無視するとは考えにくかった。
「華園重工のお嬢様!? ……こりゃあ、話が早いな」
天宮奏を誘き寄せるための餌。
それだけではない。
iCASのデータと実機を奪い損ねた場合も、華園重工会長の一人娘を押さえておけば、交渉の札として使える。
一つの駒で、二つの目的を満たせる。
「なら、そのお嬢様には一時、俺たちの客になってもらおう」
佐岸は地図へ視線を落とした。
問題は、どうやって華園后だけを――
『后様を釣る餌は、私が務めます』
真柴の声が、その思考を遮った。
「……ほう?」
『混乱に乗じて、后様にだけ別の避難経路を案内します。私が誘導すれば、疑われる可能性は低いかと』
真柴は淡々と言葉を続けた。
『その後、...これは賭けですが、天宮さんは后様の安否を確認するはずです。そのとき、后様を保護した警備班が忘却の滝方面へ向かったという情報を、天宮さんにだけ伝えます』
「技術者らしからぬギャンブル精神だな...任せるぞ」
佐岸は迷わず同意した。
「そんなに上手くいきます?」
砥上が口を挟んだ。
「教師や他の生徒には、どう伝えるんです?」
『后様は別の避難経路へ誘導されたと説明します。残る生徒と教員についても、ホテルへ避難するよう根回しします』
「お前も、“らしく”なってきたじゃねぇか」
佐岸が、喉の奥で笑った。
『……ありがとうございます』
「でも、ターゲットが一人で動く確証は?」
「“主人公”ってのは、考えるより先に身体が動くもんだって相場が決まってる」
佐岸は、手元の地図を指先で叩いた。
「博打ではある。だが、賭ける価値はある。俺たちの本筋は、あくまでiCASのデータだ」
通話の向こうで、真柴は画面を切り替えた。
測定結果が閉じられ、代わりに発表用の資料と、二機のiCAS試作機の状態が表示される。
真柴は通話を維持したまま、止めていた実演準備を再開した。
その手が表向きの仕事へ戻る一方で、耳元では新たな作戦が形になり始めていた。
佐岸が全体通話へ柄沢と久垣を加える。
『何かあったんすか?』
柄沢の声が加わった。
『……手短にしろ』
続いて、久垣の低い声。
『今のが、朝言ってた現地の協力者ってヤツっすか?』
「ああ。話はあとだ。配置を変える」
佐岸は地図を見下ろしたまま告げた。
「柄沢。実機の搬出は現地の連中に引き継げ。お前は指定した車道を封鎖」
『了解っす』
「久垣は予定どおり《目印》を置け。その後は指定地点までの裏道を警戒。邪魔が入ったら足止めしろ」
『……分かった』
「砥上。お前は停電と同時に出ろ。忘却の滝で天宮を待て」
「了解です」
佐岸は地図から顔を上げた。
「...俺はホテルへ向かう。御手洗は、そこで止める。俺がホテルに入ったあとは、自由に連絡が取れないと思え」
佐岸は返事を待つ間もなく続ける。
「停電の合図まで、各自で作戦を反芻しろ。成功までの流れを、頭に叩き込んでおけ」
佐岸は、座卓に広げた地図を静かに畳んだ。
「変更は以上だ。砥上、チェックアウトの準備をするぞ」
一拍置いて、通話の向こうにいる者たちへ告げる。
「……あとは頼んだぞ、お前ら」
その言葉を最後に、通話が切れた。
研究所の準備室で、真柴は耳からイヤホンを取り外し、操作卓の脇へ置いた。
やがて、館内放送の開始を告げるチャイムが鳴る。
『まもなく、技術発表ホールにて次のプログラムを開始します。見学生徒の皆様は、係員の案内に従ってご移動ください』
薄暗い室内を、待機状態にある二機のiCASと、操作端末の光だけが照らしていた。
真柴は白衣の襟元を整えると、一度だけ深く息を吸った。
そして、薄暗い準備室を後にした。
***
実演を終えた二機のiCASは、舞台上で再安定化処理へ移行していた。
真柴は手元のパッド型端末へ測定結果を記録しながら、床へ収納されていく透明防護壁を確認する。
「このあとは、実機を間近でご覧いただけます」
真柴が舞台の端へ移動し、生徒たちを手招きした。
「構造や装着された属性クォーツが気になる方は、ぜひ舞台前方へお越しください」
生徒たちが一斉に席を立つ。
真柴はその動きを逐一追わず、手元のパッド型端末へ視線を落とした。
銃器型の瞬間出力。
剣型が展開した水属性防壁の持続時間。
実演後の温度上昇と、再安定化までの予測値。
表向きは、実演結果の記録に集中している。
その一方で、視界の端から二人の生徒を外してはいなかった。
天宮奏は、剣型試作機の近くにいる。
刀身の根元へ組み込まれた水属性クォーツと、その周囲を走る伝導機構を熱心に観察していた。
もう一人――華園后。
后は試作機へ向かわなかった。
周囲の研究員から少し離れた真柴を見つめ、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
――貴女なら、真っ先に私のところへ来る。
真柴は端末へ数値を入力しながら、その足取りを視界の端で追った。
もう少し。
あと数歩だけ、近くへ。
「真柴さん」
呼びかけに気づき、真柴が振り返った。
「どうされました、后様?」
后は周囲の生徒たちへ一度だけ目を向ける。
それから声を抑え、真柴との距離を詰めた。
手を伸ばせば届く距離だった。
――掛かった。
「本当にこの技術、社内の倫理委員会も公認なの?」
「と、申しますと?」
真柴はパッド型端末を、僅かに身体の側へ引き寄せた。
実演結果を示す画面の隅には、権限を持つ者にしか表示されない実行待機のアイコンが浮かんでいる。
后へ柔らかな微笑みを向けたまま、真柴は親指を重ねた。
「これって、いわゆる――」
真柴の親指が、画面へ触れる。
バツン。
后の言葉を遮るように、客席後方の照明が落ちた。
続いて通路脇。
天井。
巨大なスクリーン。
バツン、バツンと音を立て、研究所の明かりが奥から順番に消えていく。
「え……?」
誰かの声が漏れた。
舞台を照らしていた最後の光が落ちる。
視界が、完全な暗闇に閉ざされた。
一拍遅れて、床際のバッテリー式非常灯が赤く点灯する。
その直後。
耳をつんざく警報音が、研究所全体へ鳴り響いた。




