7-4話_After image
次回 8話~から、宿泊研修編のクライマックスです。
午後の演習が終わってから、数時間ほどが経っていた。
辺りはすっかり日が暮れ、温泉街には柔らかな光が灯りだした
九条リゾート千代瀬の大広間には、いくつもの円卓が並んでいる。
卓上には和洋中のオードブル料理。
壁際には山菜料理や川魚、海鮮料理、肉料理まで揃えたビュッフェ台が設けられ、その隣にはセルフサービスのドリンクコーナーがあった。
一日中、山間の演習場を走り回っていた生徒たちに、遠慮という言葉はない。
皿を手に何度も往復し、料理を積み上げ、あちらこちらで午後の演習を振り返る声が飛び交っていた。
「一緒にペア組んだ、榛名君だっけ」
伊勢海老のグラタンをつつきながら、奏が斜め前へ座る少年に尋ねた。
「そ。めっちゃいいやつ」
隣に座る綴が、本人より先に答えた。
「紹介が雑すぎない?」
少年は笑い、奏へ軽く手を上げる。
「榛名律。よろしく、天宮」
「よろしく。二人は午後、どこで戦ったんだ?」
「俺たちは早めに終わったよ。そのあとだいぶ時間あったから、ちょっと歩いてたら旧玖代線の終点まで着いてさ」
綴が箸を置き、両手を広げる。
「そしたら整備庫の中から、ドゴンッ!って。建物ごと吹っ飛んだのかと思った」
「安全障壁が張ってあったから、中までは見えなかったけどな」
榛名も続けた。
「何があったんだ、あれ?」
奏は黙ってグラタンへ視線を落とした。
正面に座る狛が、その様子を見逃さなかった。
「ほんと、お前ら聞いてくれよ」
半笑いを浮かべながら、狛が箸で奏を示す。
「こいつ、最後に俺へ向かってマジで撃ちやがったんだぞ」
「君ならどうにかしてくれると、信じてた」
奏は平然と答えた。
狛の箸が止まる。
やれやれ、と呆れ笑いを見せる。
「それで済ませるなよ。俺が一歩遅かったら、お前、殺人犯になってたんだぞ?」
「でも、間に合っただろ」
「結果論な!?それは!」
「コンクリートの中で止めるつもりだった」
「俺が逸らさなかったら、コンクリートに当たってねぇんだよ!」
狛の声が大広間に響く。
近くの卓から何人かが振り返ったが、すぐに自分たちの会話へ戻った。
今夜は、どの卓も似たような騒がしさだった。
「……こいつ、一発ぶん殴っていい?」
「え?」
榛名は笑わなかった。
奏を見つめたまま、眉間へ皺を寄せる。
榛名が椅子を引き、腰を浮かせた。
それまで笑っていた狛の表情が消える。
「やめとけ」
短く、低い声だった。
榛名の動きが止まった。
「分かり――……分かった」
椅子へ座り直す。
綴は二人の間を見比べたあと、何事もなかったように唐揚げを口へ放り込んだ。
「まあまあ。狛も無事だったんだし」
「お前まで結果論で済ませるな」
「午前とは違うよ」
背後から声がした。
飲み物を取りに行っていた岬が、グラスを二つ載せたトレーを手に戻ってくる。
「午後の弾丸は、安全障壁に影響を与えてない。威力も止める位置も、天宮くん自身が制御してたってことでしょ」
「――な?」
奏が胸を張る。
「だからって、人に向けて撃っていい理由にはならないから」
「……はい」
胸を張ったまま、奏は小さくなった。
岬は狛の前へグラスを置く。
「ありがとう、逢麻さん」
「次からは自分で取りに行って」
「次はないのか」
「一回頼まれただけだから」
岬が自分の席へ座ろうとした、そのときだった。
「お、空いてるじゃーん!」
料理を山盛りにした皿を持って、霹が現れた。
「あ、そこーー」
岬が止めるより先に、霹は空いていた椅子へ腰を下ろした。
「いただきまーす!」
「そこ、私の席なんだけど...」
「詰めれば座れるって!」
「六人掛けだし、椅子も足りてない」
「七人までは誤差!しかもビュッフェって、立ち食いって意味でしょ?」
岬は何か言い返そうとして、諦めた。
隣の卓から椅子を一脚借り、霹と奏の間へ差し込む。
「で、何の話?」
「奏が狛を殺しかけた話」
綴が簡潔に答えた。
「物騒すぎない!?」
「殺しかけてない」
「撃ったのは認めるんだな」
狛が即座に拾う。
「味方を巻き込んで大暴れしてた奴が何言ってんだ」
新たな声が割り込んだ。
霹が振り返る。
腕を組んだ霞と、その隣に箒が立っていた。
「ごめんごめん!てか、かっちゃん、聞いてよ。カナディールとコマッチの試合、色んな意味で楽しかったらしいよ!」
「お前も一番楽しそうに暴れ回ってただろ」
「だって楽しかったし!」
「開き直るな」
気がつけば、奏のテーブルには8人になっていた。
「かく言うお前も楽しそうだったけどな」
霹に説教する霞に向かって、箒が静かに言う。
「特に、あの必殺技」
「え?なになに?めっちゃ気になる!」
綴が目を光らせて食いついてくる。
霞の眉が動いた。
「なんだったっけ?風道雷鱗?」
「それ以上言うな!」
霞は耳を赤くして、声を荒げた。
***
大広間の端には、教員と職員用の円卓がある。
御手洗は生徒たちを見渡せる向きへ座り、瓶ビールをグラスへ注いでいた。
「死人が出なかったんだ。今日は飲むぜ」
威勢のいい宣言とは裏腹に、一口は小さい。
ビールをちびちびと飲みながら、御手洗は生徒たちの円卓へ目を向けている。
椅子が増え、立ったまま料理を食べる者まで現れたが、今のところ器物は壊れていない。
「御手洗先生。明日も早いですから、飲み過ぎには注意してください」
向かいに座る羽瀬川が、日本酒を一口含んだ。
その前には、空になった徳利が十本ほど並んでいる。
御手洗は自分の瓶ビールを見たあと、徳利を一本ずつ数えた。
「……羽瀬川先生にだけは言われたくなぇな。その墓標みてぇな徳利どもは何だ」
「私は飲み過ぎていません。適量です」
「あれー? 羽瀬川センセー、飲み過ぎじゃない!?」
霹が教員卓へやってきた。
追加の料理を取りに来たはずだが、手にしているのはデザートの皿だけだった。
「ウケる~。相当ストレス溜まってんじゃないの?」
「誰のせいだよ」
御手洗が割って入る。
羽瀬川は答えず、流し目で御手洗を見た。
「誰のせいでしょうね」
「何で俺を見る」
「てかさ、そんなにお酒強いんだったら、かっちゃんの親父さんと勝負してみてよ」
「私は遠慮します」
「めっちゃ飲むんだよ!ねえ、かっちゃん!」
霹が数メートル先へ声を張る。
「かっちゃんとこの親父さんって、めっちゃ酒飲むよね!?」
霞は聞こえないふりをした。
「かっちゃーん!」
もう一度呼ばれ、深く息を吐く。
周囲から集まる視線に耐え切れず、霞は教員卓へ歩いてきた。
「お前、酔っ払いに絡むなって」
「誰が酔っ払いだ!」
御手洗がグラスを卓へ置く。
羽瀬川は平然と徳利を傾けた。
「私は辞退しますが、代わりに御手洗先生がお相手なさるでしょう」
「勝手に決めんな。俺は量じゃねぇ。質を嗜む派だ」
「じゃあ、かっちゃんの親父さんの勝ちじゃん」
「上等じゃねぇか!」
御手洗が身を乗り出した。
「お前の親父には剣術では負けるが、酒では負けねぇぞ!」
「いや、剣術では負けるのかよ」
「そこじゃねぇだろ!」
「本人がいないところで勝手に張り合うなよ……」
霞は額を押さえた。
その横で羽瀬川が新しい徳利へ手を伸ばす。
「質を嗜むお話は、もうよろしいのですか」
「話の流れってもんがあんだろ」
***
教員卓まで騒がしくなったころ、奏はビュッフェ台の前に立っていた。
手にしているのは、自分の皿ではない。
救護室で休んでいる后へ届けるため、ホテルのスタッフから借りたトレーだった。
伊勢海老のグラタン。
唐揚げ。
ローストビーフ。
山菜の天ぷら。
炒飯。
そこへ刺身の小皿を追加しようとしたところで、横から手が伸びた。
「それはやめた方がいいよ」
岬が刺身を元へ戻す。
「華園さん、生ものは嫌いだったよ」
「そうなの?」
「昨日の食事で残してたから」
「よく見てるな……」
「天宮くんが見てなさすぎるんだよ」
岬は奏のトレーへ視線を落とした。
しばらく黙ったあと、眉をひそめる。
「それと、全体的に茶色い」
「茶色い?バイキングって結局茶色になるけど…」
「もう少し彩りとか、栄養のバランスとか考えようよ」
岬は唐揚げを少し減らし、温野菜と白身魚の料理を加えた。
さらにスープと、小さく切られた果物を載せる。
「甘いものは?」
「そこまでは知らない」
「じゃあ全部一個ずつ――」
「多い」
「選べないだろ」
「病人にビュッフェを丸ごと届けるつもり?」
奏はデザートへ伸ばした手を引っ込めた。
「これは?」
伊勢海老のグラタンを指す。
「じゃあ、これは残す。うまかったし」
「天宮くんの好みは聞いてない」
二人で選び直したトレーは、最初より随分と色鮮やかになった。
「一緒に来る?」
「私は部屋も一緒だし、時間あったら行くよ。今はやめとく」
「今は?」
岬は一瞬だけ奏を見た。
「二人で確認することがあるんでしょ」
「……うん」
奏はトレーを持ち上げた。
「ありがとう」
「料理、落とさないでね」
「そこまで信用ないの?」
「料理を選ぶところから危なかったから」
言い返せないまま、奏は大広間をあとにした。
***
救護室の照明は落とされていた。
扉を開けると、廊下の明かりが細長く室内へ差し込む。
「眩しい。早く閉めて」
「あ、ごめん」
奏は慌てて扉を閉めた。
カーテンの向こうには、温泉街の優しい灯りが仄かに滲んでいる。
ベッド脇の間接照明だけが、静かな室内を薄く照らしていた。
后は上体をわずかに起こし、枕へ背を預けている。
演習直後の浅い呼吸とひどい発汗は、もう治まっていた。
顔色も戻りつつある。
ただ、視神経の奥には、まだ脈打つような痛みが残っているらしい。
光や人の動きを避けるため、后はほとんど目を閉じていた。
「暗くない?」
「暗くしてるのよ。視覚情報を最小限に抑えたいって言ったでしょ」
「それで飯食える?」
「あんたは私を何だと思ってるの」
奏はベッドテーブルへトレーを置いた。
「右にスープ。奥が温野菜。白身魚と、果物。真ん中がグラタン」
「介護みたいに説明しないで」
「見ない方がいいんだろ?」
「見れば分かるわよ」
「もういいわ……グラタン、こっちに寄せて」
奏は言われたとおり、グラタンの皿を后の手元へ動かした。
后が薄く目を開く。
「この料理、あんたが選んだの?」
「途中から岬に手伝ってもらった」
「でしょうね」
「俺だってグラタンは選んだぞ」
「そこだけ茶色いじゃない」
后はスプーンを手に取った。
奏はベッド脇の椅子へ座り、その様子を眺める。
「……何よ。見世物じゃないわよ」
「食べさせてあげようか?」
「私が病人で良かったわね」
「冗談だって」
后がスプーンを皿へ戻す。
沈黙が落ちた。
カーテン越しの光が揺れ、間接照明を受けた后のクォーツギアが、きらりと反射する。
ベレッタが宿るクォーツ。
それを見た奏が、思い出したように口を開いた。
「そういえば、最後のあれって……」
「私にも分からない。《リンクサイト》は、イデア学上では《共鳴》の一種とされている」
后は目を閉じたまま答える。
「私とベレッタの間で成立する共鳴現象。その能力が、あのときはあなたまで波及した。仕組みは分からない」
「……じゃあ、俺と后が共鳴したってこと?」
「ぶん殴るわよ?そういう言い方はやめて」
「何でだよ」
后は僅かに顔を背けた。
「私とベレッタの《共鳴》に巻き込まれたっていう表現が正しいか分からないわ。でも、そんな感じ」
「巻き込まれたって……」
「私だって、好きで巻き込んだわけじゃないわよ」
「でも、何で俺だったんだ?」
「それを考えてたの」
后は右手を持ち上げ、人差し指を奏へ向けた。
「何か、私のイデアを帯びたものを持ってなかった?」
「持ってないよ。君から何か貰った覚えもない」
「……貰ったんじゃなくて、残されたとしたら」
后の指が止まる。
「拘束具……」
「拘束具?」
「あれを解除したとき、認証のために私のイデアを流した。拘束具を通して、微量のイデア残滓があんたに付着していた可能性がある」
「他人のイデアって残るの?」
「転移すること自体は珍しくないわ。普通は時間が経てば消えるけど」
「可能性の話よ」
后は額へ手を添えた。
「残滓があるだけで他人へ属性や召喚獣の能力を譲渡・共有できるなら、とっくに報告例があるはずだもの。だから、仕組みは分からない」
「そっか」
「それで……」
僅かな間を置き、后が尋ねる。
「あんたには、どこまで見えてたの?」
奏はすぐに答えなかった。
車両整備庫を見下ろすベレッタの視界を思い出す。
障害物の向こうにいる狛と岬。
自分では見ることのできなかった角度。
戦場を走る四人の位置。
そして、その視界が何度も自分へ向けられていたこと。
「遠くから、俺を見てた」
「ベレッタの視界なんだから、当然でしょ」
「でも、俺を見つけたとき……少し安心してた」
后の眉が動いた。
「……気のせいよ」
「君の視線が止まったんだ。俺がちゃんと動いてるのを見て、それから――」
奏は自分の記憶を確かめる。
「そこからは、最低限の岬までのルートしか見てなかった」
「戦況を整理しただけでしょ」
「俺を見なくても、ちゃんと動くと思ったんだろ?」
「……」
「だから、后が俺に何を見せようとしてるのかも分かった」
后の手が、枕の端を掴んだ。
「勝手に人の感情まで分析するなッ!」
枕が奏の顔へ飛んだ。
后の目は戦闘の疲労からか、少し充血気味に見受けられた。
「痛っ!見せてきたのは君だろ!?」
「見せるつもりはなかったのよ!」
「目を休ませるんじゃなかったのか!?」
「あんたを殴るのに目は要らないわ!」
奏は床へ落ちた枕を拾い、后へ返した。
「でも、嬉しかったよ」
「き、急に何よ……」
「大丈夫って、信じてくれたんだろ?」
后は受け取った枕へ半分顔を埋めた。
否定の言葉は返ってこない。
「……はぁ。なんだか、また疲れてきたわ」
「大丈夫?」
「誰のせいだと思ってるのよ」
后は目を閉じたまま、ベッドテーブルの料理を指す。
「料理が冷めるから、もう出ていって」
「それ、俺が出ていく理由になってる?」
「いいから」
「……分かった。ちゃんと食べろよ」
「言われなくても食べるわ」
奏は静養室をあとにした。
扉が閉まる。
静けさを取り戻した室内で、后はしばらく枕へ顔を埋めていた。
やがて片手を伸ばし、まだ温かいグラタンを自分の方へ引き寄せた。
***
「あ゛~~……生き返る……」
大浴場に、霹の低い声が響いた。
肩まで湯へ沈み、浴槽の縁へ両腕を広げている。
「おじさんみたいな声出さないで」
隣で靂が眉をひそめた。
「だって疲れたんだもん。靂も入れば出るって、この声」
「出ないわよ」
靂も静かに肩まで浸かる。
「……はぁ」
「出たじゃん」
「これは溜め息」
少し離れたところで、岬も湯船の縁へ頭を預けた。
生徒しかいない大浴場は、実際よりも広く感じられる。
「みさっきーたち、勝ったんでしょ?」
霹が尋ねた。
「うん」
「なのに、全然嬉しそうじゃないね」
「勝ったけど……勝った感じがしないから」
靂が岬へ視線を向ける。
「少し分かるわ」
「靂も勝ったじゃん」
「勝ったのは私と霞。でも、最後まで立っていたのは霞だったし」
「あーしは負けたけど、めっちゃ楽しかったよ」
「見てれば分かるわよ」
「シュウとあんな戦い方できると思わなかったし。またやりたいなー」
「そっちも、敗者の方が満足そうだね」
岬が小さく笑う。
「そっちもそうだったの?」
「天宮くんたちは、満足そうだったみたい」
「ふーん。そういえば、きさっきーは?」
「まだ静養室。回復してきてるけど、目の奥が痛むって」
霹が、温泉のふちに腰かける
「きさっきーのその、《リンクサイト》って、いつも使ってるやつでしょ?」
霹の言葉に、靂が浴槽の縁へ背を預けた。
「いつもの、で済ませられる能力じゃないわよ」
「そうなの?」
「彼女は入学式の翌日の実戦演習で、私が打ち込んだ楔を一個一個把握してた。私の技を初見で全部無効化してきたのは覚えてる」
靂は片手を湯から出し、指先についた水滴を払う。
「ま、最後はゴリ押ししたけど」
「さすがゴリラ女!」
「ゴリラは繊細なのよ?」
「それ、あーしのやつじゃん!」
霹の声が浴場へ反響する。
岬が会話を戻した。
「今日は、その《リンクサイト》を使い過ぎたっぽくて、試合が終わった途端に倒れた」
「ベレッタの視界を受け取るだけでも、相当な情報量のはずよ」
「今も静養室ということは、じゃあさ、きさっきーって今おなかぺこぺこじゃないの??」
霹が不安そうに尋ねる。
「食欲はあるみたいだから、晩御飯はもっていったよ。問題は、料理を選んだのが天宮くんっていう……」
「どういう意味?」
「全体的に茶色かった」
「いいじゃん。茶色いものは美味しいよ!」
「あんたは黙ってなさい」
そのとき、仕切り壁の向こうから、霞の怒声が響いた。
『笑うなッ!』
三人の間に沈黙が落ちる。
「……かっちゃん?」
「何してるの、あいつら」
「考えない方がいいと思う」
岬の忠告を無視し、霹は壁へ向かって声を張った。
「かっちゃーん!何イジられてんのー!?」
一瞬の間。
『何で分かったッ!?』
三人の笑い声が、大浴場へ響いた。
***
数分前。
男子浴場に併設されたサウナでは、七人の男子生徒が横長のベンチへ並んでいた。
壁に掛けられた1分時計だけが、静かに動いていた。
サウナあるじゃん!入ろうよ!
最初に言い出したのは綴だった。
誰も勝負をするとは言っていないが、おのずと我慢比べ大会になりつつあった。
ただ、しばらくして奏が立ち上がろうとしたとき、狛が口を開いた。
「もう出るのか?」
「水を飲みに行くだけだよ。なんだよその顔」
「別に。早いなと思って」
「じゃあ、まだいる」
奏は再び座った。
向かい側で、綴が楽しそうに笑う。
「じゃあ、最後まで残ったやつが今日の最強ってことで」
「戦闘結果をサウナで上書きするな」
箒が即座に否定した。
「くだらん」
霞も鼻で笑う。
サウナの扉を開けて、振り返る。
「我慢する意味がない」
「でも、霞もう顔真っ赤だよ」
「これは暑いからだ!」
「怒ってるからじゃなくて?」
「てめぇ――!」
霞の右手が、反射的に腰へ伸びた。
いつもなら小太刀の柄がある場所を掴もうとして、その手が虚しく宙を切る。
一瞬、サウナが静まり返った。
「……何を抜こうとしたの?」
綴が尋ねる。
「ないぞ、刀」
奏が霞の腰を見る。
「全裸で抜刀すんなよ」
狛が堪え切れずに笑った。
「笑うなッ!」
霞の怒声が、壁の向こうまで響いた。
直後、女湯から霹の声が飛んでくる。
『かっちゃーん!何イジられてんのー!?』
「何で分かったッ!?」
サウナの全員が吹き出した。
箒まで顔を背け、肩を震わせている。
「シュウ、お前まで笑うな!」
「すまん。だが、お前が悪い」
園尾晴が汗を拭いながら、静かに立ち上がった。
「僕は一旦出るよ…」
晴は必要最小限の言葉だけ残し、サウナを出ていった。
それを皮切りに、綴も立ち上がる。
「俺も無理。風になってくる」
「ただ出ていくだけだろ」
箒の言葉を背中で受け、綴は逃げるように退室した。
奏も続く。
「俺も水分補給」
「脱落者がよく喋るな」
「君、あとで覚えてろよ」
榛名は少し遅れて立ち上がった。
「俺も限界。熱い」
残ったのは、狛、霞、箒の三人。
「御三家って、サウナでも大したことないんだな」
狛が言った。
「九条の人間は、口から先に干からびるらしい」
霞が返す。
「言ったな」
「そっちこそ」
二人の間で、意味のない意地が膨らんでいく。
その横で箒だけが、黙って座っていた。
「シュウ、お前……平気なのか」
霞が尋ねる。
「いや。普通に熱い」
「じゃあ何でそんな顔してんだ」
「顔に出にくいだけだ」
箒は立ち上がった。
「俺はもう出る。二人もそろそろやめた方がいいぞ」
「お前が出たなら、あとはこいつだけだ」
「奇遇だな。俺も同じことを考えていた」
箒は呆れたままサウナを出た。
やがて、狛と霞はほとんど同時に立ち上がり、互いに譲らず扉へ肩をぶつける。
「俺の方が先だ」
「俺が先に立った!」
結局、どちらが先に出たのかは誰にも分からなかった。
***
騒ぎが収まったあと、奏は一人で露天風呂へ戻った。
ほかの者たちは水分補給をするか、先に脱衣所へ向かっている。
山間の夜気が、サウナで火照った肌に心地よかった。
湯面から立ち上る白い湯気。
その向こうに、千代瀬の山々と、雲の切れ間から覗く星が見える。
奏は湯船の中で右手を持ち上げた。
昼間の感覚を思い出す。
空気の中。
地面の中。
木材の中。
そして今は、目の前に満ちている、掌を湯面へ向ける。
意識を集中すると、温泉の表面が僅かに盛り上がった。
湯が細い糸を引きながら浮かび、小さな水球を形作る。
一度目は、すぐに形を失った。
湯船へ落ち、小さな波紋が広がる。
奏はもう一度、掌を向けた。
自分の意思で集め、自分の意思で留める。
掌の上で、蒼い水球が静かに回った。
「……できた」
数秒後、奏は力を抜いた。
掌から離れた蒼いは形を失い、温泉へ溶けて消えた。
けれど――すべての蒼が、元いた場所へ帰れたわけではない。
***
同じ頃。
旧玖代線終着駅の車両整備庫では、華園重工の社員たちが午後演習後の点検を行っていた。
作業灯が、古びた車両と土間コンクリートを白く照らしている。
「障壁発生装置、異常ありません」
「稼働ログも規定値内です」
社員たちが装置を確認するなか、真柴 透子は一人、整備庫の奥へ視線を向けた。
安全障壁に異常はない。
しかし、午後の演習では床面に新しい損傷が生じたと聞いている。
「そういえば、ここは……」
真柴は、CP9で安全装置を破損させた二人が、午後にはCP10へ移動していたことを思い出す。
土間に残された穿孔痕の前で足を止めた。
直径はそれほど大きくないが、孔は深い。
作業灯を向けても、その底までは見通せなかった。
真柴は携行ケースから、ゴーグル型の測定器を取り出す。
電源を入れ、目元へ装着した。
視界に測定用のグリッドが浮かび上がる。
孔へ顔を寄せた瞬間、真柴の表情が変わった。
「――!」
肉眼では、ただの暗い穿孔痕にしか見えない。
測定器を通した視界では、その深淵に、濃密な蒼が滞留していた。
戦闘から何時間も経過している。
それにもかかわらず、消えることなく孔の奥へ沈んでいる。
真柴は表示された数値を確認する。
水属性。
残留濃度は、通常の演習痕とは比較にならない。
「真柴さん、そちらはどうですか?」
背後から社員の声が飛ぶ。
真柴は孔から顔を上げた。
「軽微な床面損傷です。安全装置への影響はありません」
「記録だけお願いします」
「分かりました」
平静を装って答え、真柴は携帯型の残滓採取器を取り出した。
細い採取管を、穿孔痕の奥へ差し込む。
機器が低い作動音を立てる。
測定器の中で、孔の底に留まっていた蒼がゆっくりと吸い上げられていく。
やがて採取器の表示が完了を告げた。
真柴は採取管を引き抜き、機器から小型の検体カートリッジを外した。
測定器を通して見れば、透明な容器の内部で、濃い蒼が渦を巻いている。
周囲に誰も見ていないことを確かめ、真柴はカートリッジを作業着の内側へ滑り込ませた。
ゴーグル型測定器を外す。
――蒼は消え、そこには暗い孔だけが残った。
お盆前後は更新日がイレギュラーになるかもしれませんのでご容赦ください。




