幕間_Two Names
九条狛の思い出です。お手すきの際に是非。
彼の事好きになってあげてください。
「九条、お前も迷ってる」
その言葉は、ひどく単純だった。
飾りもなければ、遠回しな気遣いもない。
慰めでも、詰問でもない。
ただ、目の前にいる相手を見て、そう感じたから口にした。
きっと天宮奏にとっては、それだけの言葉だったのだと思う。
けれど狛にとっては違った。
胸の奥に、ずっと残っていたしこり。
見ないようにしていたもの。
名前をつけないまま、笑ってやり過ごしてきたもの。
その中心を、まっすぐ指で押されたような気がした。
初めてだった。
九条狛としてではなく。
狛吉としてでもなく。
そのどちらの名前にも隠れきれなかった、ただの“俺”に向けられた言葉のような気がした。
温泉の湯気と共に、
記憶が揺蕩う
***
幼い頃、狛はよく親に連れられて山奥へ向かった。
舗装された道を外れ、車窓の景色が少しずつ緑に沈んでいく。
ビルも、駅前の雑踏も、見慣れた街の灯りも遠ざかっていく。
そうして辿り着く場所が、千代瀬町だった。
幼い狛にとって、そこは町というより、現世から少しだけ切り離された異世界のような場所だった。
山に囲まれた古い温泉街。
川沿いに並ぶ旅館。
色褪せた看板。
夕方になると少しだけ冷える空気。
そして、どこにいても耳に届く千代ノ瀬川のせせらぎ。
大人たちは、その町を見て難しい顔をしていた。
当時、まだ古い旅館だった建物のロビーで、狛は父の隣に座りながら、大人たちの会話を聞いていた。
「駅前は整備できるとして、問題は山側だな」
「導線を作るなら、こちら側の道路を拡張するしかない」
「例の神社は?」
「あそこは車で寄りつくには急すぎる。あの神社まで繋ぐインフラ整備の予算はない」
「それに、ああいう神聖な場所は、そっとしておいた方がいい」
意味は、よく分からなかった。
ただ、大人たちが難しい顔で話していたこと。
古い町が、これから変わろうとしていること。
そして、山のどこかに、そっとしておいた方がいい神社があること。
それだけが、狛の記憶の奥に残った。
***
それから、千代瀬は少しずつ姿を変えていった。
古びた旅館は九条リゾート千代瀬に生まれ変わった。
閉じていた店のシャッターが開いた。
駅前の道は整えられ、橋や遊歩道が新しくなった。
温泉街には灯りが増え、人の声が戻ってきた。
最初にその景色を見た時、狛は素直に思った。
うちの会社、すげぇ。
父や祖父が関わった場所。
九条の名前で生まれ変わった町。
古くなっていた場所に、人を呼び戻した会社。
幼い狛にとって、九条家はただ誇らしいものだった。
町の人も、ホテルの従業員も、狛を見つけるとよく声をかけてくれた。
「坊ちゃん、今日は一人かい」
「狛くん、川の方に行きすぎちゃ駄目ですよ」
「おう、九条の坊。元気してるか」
狛はそのたびに大きく手を振った。
坊ちゃんと呼ばれることに、何の疑問もなかった。
九条と呼ばれることにも、嫌な気持ちはなかった。
それは自分の名前で、自分の家の名前で、自分の好きな町に灯りを増やした名前だったからだ。
その日も、狛は川沿いの遊歩道を歩いていた。
春の終わり。
夕方の少し前。
千代ノ瀬川は、浅いところで陽の光を細かく跳ね返していた。
欄干にもたれて川を見ていると、後ろから声をかけられた。
「おう、九条の坊」
振り向くと、見覚えのあるような、ないような男が立っていた。
町の人だということは分かった。
土産物屋の人なのか、旅館の人なのか、工事に関わっている人なのかは分からない。
狛にとっては、そういう大人が町にはたくさんいた。
「ぼくは狛だよ」
狛がそう言うと、男はからからと笑った。
「そうかそうか。狛か」
それから少し考えるように顎を撫でて、男は言った。
「いや、狛『吉』だな」
「こまきち?」
「狛吉の方が語呂がいいだろ?」
男はそう言って、川の方を見た。
「それに、この町にまた人を呼び戻してくれたからな。九条狛より、狛吉の方が似合ってる」
意味は、半分も分からなかった。
人を呼び戻す。
吉を運ぶ。
九条狛より、狛吉。
ただ、その響きだけが妙に耳に残った。
狛吉。
呼ばれた瞬間、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
坊ちゃんでもなく、九条でもなく、ただの狛でもない。
町の誰かが勝手につけた、変なあだ名。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
「狛吉かぁ」
狛が呟くと、男はまた笑った。
「おう。狛吉だ」
川のせせらぎが、すぐそばで聞こえていた。
温泉街の湯気。
古びた看板。
夕方になると少しだけ冷える山の空気。
川沿いの遊歩道。
橋の向こうで手を振る旅館の女将。
その全部が、幼い狛にとっては当たり前で。
けれどいつの間にか、それが自分を自分たらしめるものになっていた。
***
狛吉。
その名前は、あっという間に広がった。
最初は、あの男だけだった。
それが土産物屋のおばちゃんに移り、旅館の番頭に移り、大衆浴場の受付に移り、いつの間にか町のあちこちから飛んでくるようになった。
「狛吉、今日は学校休みか」
「狛吉くん、これ持っていきな」
「狛吉、また背伸びたんじゃないか」
狛は笑った。
そう呼ばれるたびに、笑った。
嬉しかったからだ。
自分がこの町の一部になれたような気がしたからだ。
九条家の子供としてではなく。
ホテルの関係者としてでもなく。
ただ、千代瀬の子供として。
この町は暖かい。
この町が好きだ。
この町を生まれ変わらせた九条家が、狛は誇らしかった。
けれど、時間は少しずつ物の見え方を変えていく。
***
中学生になる頃、周りの同級生たちは少しずつ未来の話をし始めた。
部活。
進路。
将来の夢。
どこの高校へ行くのか。
どんな大人になりたいのか。
ありふれた話題のはずだった。
けれど狛は、その輪の中でふと黙り込むことが増えた。
自分の前には、最初から歩きやすい道がある。
九条家の息子として、親の整えた道を進めばいい。
きっとそれが一番楽で、一番間違いがない。
けれど、それは本当に自分の道なのだろうか。
自分の会社は、結局、古いものを壊して新しいものを作っているだけではないのか。
町を救ったと言いながら、町を別のものに作り替えているだけではないのか。
そう思った時、狛は千代瀬を見たくなった。
親から何度も聞かされてきた町。
自分の会社が携わった町。
自分がいつか背負うかもしれないものが、どんな形でそこに残っているのか。
それを、自分の目で確かめたくなった。
***
久しぶりに一人で訪れた千代瀬は、記憶の中よりもずっと賑やかだった。
石畳を老若男女が行き交っている。
湯煙に混じって、観光客の笑い声が聞こえる。
土産物屋の軒先には新しい商品が並び、川沿いの遊歩道では、若い男女がスマートフォンを構えて写真を撮っていた。
夜になれば、温泉街の灯りは川面に揺れた。
狛はその景色を見て、少しだけほっとした。
壊しただけではなかった。
奪っただけではなかった。
少なくとも、この町には人が戻ってきている。
そう思いたかった。
「狛吉?」
声をかけられて、狛は振り向いた。
見覚えのある旅館の従業員だった。
昔より少し老けていたけれど、笑い方は変わっていなかった。
「やっぱり狛吉だ。大きくなったなぁ」
狛は笑った。
「どうも。お久しぶりです」
悪い気はしなかった。
けれど、昔ほど嬉しいわけでもなかった。
そのことに、狛自身が一番驚いた。
狛吉。
あだ名にしては、あまりにも自然に耳へ入ってくる。
呼ばれれば、反射的に振り返ってしまう。
笑ってしまう。
答えてしまう。
まるで、それが最初から自分の名前だったみたいに。
だからこそ、怖かった。
その名前に込められたものを、自分が本当に受け取っていいのか分からなくなっていた。
その日の夕方、狛は温泉街の裏手にある細い路地で足を止めた。
店の裏口。
積まれた酒瓶のケース。
古い換気扇の音。
表通りの賑わいから、ほんの少し外れた場所。
そこで、聞いてしまった。
「九条の坊、来てるらしいな」
「ああ、狛吉だろ」
「監視しに来たんじゃないか?」
「まさか。あいつは狛吉つっておだてておけばいいんだよ」
「今のうちによくしておけば、こっちの要望を親に通してくれるかもしれないしな」
「特別扱いしておけば、面倒にはならないだろ」
呼吸が、止まった。
何かを言われたわけではない。
面と向かって責められたわけでもない。
けれど、その方がかえって痛かった。
狛吉。
その名前は、温かいものだったはずだ。
町からもらったものだったはずだ。
自分がこの町の一部になれた気がする、嬉しい呼び名だったはずだ。
けれど誰かにとっては、ただの便利な呼び方だった。
九条の坊を機嫌よくさせるための言葉。
財閥の息子を丸め込むための呼び方。
要望を通すための、愛想のいい札。
足元から、何かが静かに崩れていく気がした。
狛はその場を離れた。
誰にも気づかれないように。
何も聞かなかったふりをして。
いつものように笑わなければと思いながら。
けれど、笑えなかった。
*
気づけば、狛は山側へ向かっていた。
どこへ行くつもりだったのか、自分でも分からなかった。
ただ、表通りの灯りから離れたかった。
湯煙と笑い声と、狛吉と呼ぶ声が届かない場所へ行きたかった。
その時、ふと思い出した。
幼い頃、古い旅館のロビーで聞いた大人たちの会話。
――あそこは車で寄りつくには急すぎる。
――あの神社まで繋ぐインフラ整備の予算はない。
――ああいう神聖な場所は、そっとしておいた方がいい。
手つかずの神社。
町が生まれ変わっていく中で、置いていかれた場所。
九条の開発計画から外された場所。
昔の千代瀬が、そのまま残っているかもしれない場所。
狛は、そこへ向かった。
神社へ続く道は、思っていたよりも急だった。
舗装はされているものの、車通りはほとんどない。
街灯も少なく、山の影が道の端に濃く沈んでいた。
しばらく登ると、小さな駐車場に出た。
そこからは、生まれ変わった千代瀬を一望できた。
眼下には、灯りを増やした温泉街が広がっている。
整えられた道路。
新しくなった建物。
川沿いに並ぶ宿の明かり。
遠くからでも分かる、九条リゾート千代瀬の大きな灯り。
誇らしい景色のはずだった。
けれど、その夜の狛には、少し眩しすぎた。
振り返ると、神社は真っ暗だった。
観光客も来ない。
鳥居の奥は夜の気配に沈んでいる。
石段は冷えきり、境内には古い木々の匂いが満ちていた。
狛は鳥居をくぐった。
小さな社。
苔のついた石灯籠。
対になった狐の石像。
狐たちは、暗闇の中でじっと狛を見ているようだった。
「……なんだよ」
思わず、狛は小さく笑った。
「お前らも、俺を見てんのか」
答えはない。
ただ、風が木々を揺らした。
その時、狐の石像の足元で、きらりと何かが光った。
狛は足を止めた。
落ちていたのは、小さな鉱石だった。
純粋無垢な、穢れのない半透明の石。
まだ何も宿していない、空のクォーツ。
オリジン。
なぜそんなものがここにあるのかは分からなかった。
けれど、目が離せなかった。
その石は、九条のものではなかった。
町のものでもなかった。
誰かが狛に与えた名前でも、役割でも、期待でもなかった。
ただそこにあった。
まだ何者でもないまま、暗い神社の片隅で静かに光っていた。
自然と手が伸びた。
救ってほしかったわけではない。
正解を教えてほしかったわけでもない。
ただ、この石なら、自分をどこかへ導いてくれる気がした。
指先が触れた瞬間、クォーツは淡く光を宿した。
夕暮れ時のような、やわらかな赤。
燃え上がる炎というより、沈みかけた陽が最後に残すぬくもりに近い色だった。
狛は息を呑んだ。
その光は、ここから見下ろす活気に満ちた千代瀬の夜景よりも。
狛が大好きだった、二つ目の故郷の夕景よりも。
ずっと、暖かかった。
光の中で、何かが揺れた。
小さな影。
狐の耳。
細い尾。
夜の闇に溶けるような輪郭と、夕暮れ色の瞳。
それは狛を見上げていた。
まるで、最初からそこにいたかのように。
まるで、狛が触れるのを待っていたかのように。
狛はしばらく言葉を失った。
けれど、黙っているのが急に恥ずかしくなって、いつもの調子で口角を上げた。
「……お互い、化かし化かされってか」
狐は答えなかった。
ただ、淡い赤の光が、狛の指先を包んでいた。
その時、狛は少しだけ分かった気がした。
このクォーツは、九条という名前に応えたわけではない。
狛吉というあだ名に応えたわけでもない。
手を伸ばした自分に、応えたのだ。
九条狛でもなく。
狛吉でもなく。
そのどちらでもない、ただの自分に。
***
それからも、狛は笑うことを覚えていった。
九条狛として。
狛吉として。
その場に求められる顔を選び、求められる声で答え、求められる軽さで空気を整える。
嘘をついているつもりはなかった。
でも、本当のことだけを言っているわけでもなかった。
自分に嘘をつく。
誰かに嘘をつかれる。
化かし、化かされる。
そんなものだと、いつの間にか思うようになっていた。
それでもウロだけは、狛がどんな顔で笑っているのかを知っていた。
乾いた笑いも。
反射的に上がる口角も。
笑っていない目も。
全部、知っていた。
九条狛。
それが本当の名前だ。
戸籍にも、学生証にも、ホテルの関係者名簿にも、そう書かれている。
九条財閥の血を引く者。
九条家の子供。
いずれ何かを背負うことになる人間。
では、狛吉は何なのだろう。
ただのあだ名。
名前も知らない地元の男が、思いつきで呼んだだけの、他愛もない呼び名。
そのはずだった。
それなのに、長い時間をかけて刷り込まれた二つ目の名前は、あだ名にしてはあまりにも自然に耳へ入ってくる。
「狛吉」
そう呼ばれるたび、振り返ってしまう。
笑ってしまう。
答えてしまう。
まるで、それが最初から自分の名前だったみたいに。
自分は今、どちらの仮面をつけているのだろう。
九条狛。
それとも、九条狛吉。
九条狛は、家の名前を背負った自分。
狛吉は、町の期待を背負った自分。
どちらも嘘ではない。
どちらも嫌いではない。
だからこそ、厄介だった。
どちらかが偽物なら、まだよかった。
どちらかを捨てれば、本当の自分が残るのなら、まだ楽だった。
けれど、九条狛も狛吉も、確かに自分の中にある。
ホテルのロビーを誇らしげに見上げていた子供も。
川沿いで変なあだ名をもらって笑った子供も。
町の裏側で言葉を聞いてしまった自分も。
暗い神社でウロに出会った自分も。
それでも千代瀬が好きだと思っている自分も。
全部、自分だった。
だから分からなくなる。
本当の自分の名前は、どちらなのか。
それとも。
名前で呼ばれる前の自分は、どこにいるのか。
***
「九条、お前も迷ってる」
天宮奏は、きっとそこまで考えて言ったわけではない。
九条家の事情も。
千代瀬という町の重さも。
狛吉という名前が、狛にとってどんな意味を持っているのかも。
何も知らないはずだった。
それなのに、その言葉だけは不思議と深く届いた。
さっきまで交わしていた軽口や、いつもの調子のやり取りとは違う温度で。
逃げ場を与えないほど真っ直ぐに。
笑って誤魔化してはいけないと思った。
軽口で流してはいけないと思った。
無碍にしてはいけないと思った。
その言葉には、狛にとって特別な深みがあった。
九条狛でもなく。
狛吉でもなく。
そのどちらの名前にも隠れきれなかった、ただの“俺”を見つけられたような気がした。
だから狛は、いつものように笑うまでに、一拍だけ遅れた。
川のせせらぎが、遠くで聞こえた気がした。
あの日、名前も知らない男に狛吉と呼ばれた時と同じ音だった。
暗い神社で、ウロの光に触れた時と同じ静けさだった。
胸の奥に残っていたしこりが、静かに形を変えていく。
迷っている。
たぶん、それは否定できない。
九条狛として。
狛吉として。
そのどちらでもない、ただの俺として。
それでも、その迷いを見ないふりだけは、もうできない気がした。
水曜日に、本編と関係ない【用語集】【登場人物ファイル】を投稿することがある可能性がなきにしもあらずです。




