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Last Quartz  作者: 錢葵
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29/47

幕間_Two Names

九条狛の思い出です。お手すきの際に是非。

彼の事好きになってあげてください。


「九条、お前も迷ってる」


その言葉は、ひどく単純だった。


飾りもなければ、遠回しな気遣いもない。

慰めでも、詰問でもない。


ただ、目の前にいる相手を見て、そう感じたから口にした。

きっと天宮奏にとっては、それだけの言葉だったのだと思う。


けれど狛にとっては違った。


胸の奥に、ずっと残っていたしこり。

見ないようにしていたもの。

名前をつけないまま、笑ってやり過ごしてきたもの。


その中心を、まっすぐ指で押されたような気がした。


初めてだった。


九条狛としてではなく。

狛吉としてでもなく。


そのどちらの名前にも隠れきれなかった、ただの“俺”に向けられた言葉のような気がした。


温泉の湯気と共に、

記憶が揺蕩う


***


幼い頃、狛はよく親に連れられて山奥へ向かった。


舗装された道を外れ、車窓の景色が少しずつ緑に沈んでいく。

ビルも、駅前の雑踏も、見慣れた街の灯りも遠ざかっていく。


そうして辿り着く場所が、千代瀬町だった。

幼い狛にとって、そこは町というより、現世から少しだけ切り離された異世界のような場所だった。


山に囲まれた古い温泉街。

川沿いに並ぶ旅館。

色褪せた看板。

夕方になると少しだけ冷える空気。

そして、どこにいても耳に届く千代ノ瀬川のせせらぎ。


大人たちは、その町を見て難しい顔をしていた。


当時、まだ古い旅館だった建物のロビーで、狛は父の隣に座りながら、大人たちの会話を聞いていた。


「駅前は整備できるとして、問題は山側だな」

「導線を作るなら、こちら側の道路を拡張するしかない」

「例の神社は?」

「あそこは車で寄りつくには急すぎる。あの神社まで繋ぐインフラ整備の予算はない」

「それに、ああいう神聖な場所は、そっとしておいた方がいい」


意味は、よく分からなかった。

ただ、大人たちが難しい顔で話していたこと。

古い町が、これから変わろうとしていること。

そして、山のどこかに、そっとしておいた方がいい神社があること。


それだけが、狛の記憶の奥に残った。


***


それから、千代瀬は少しずつ姿を変えていった。


古びた旅館は九条リゾート千代瀬に生まれ変わった。

閉じていた店のシャッターが開いた。

駅前の道は整えられ、橋や遊歩道が新しくなった。

温泉街には灯りが増え、人の声が戻ってきた。


最初にその景色を見た時、狛は素直に思った。


うちの会社、すげぇ。


父や祖父が関わった場所。

九条の名前で生まれ変わった町。

古くなっていた場所に、人を呼び戻した会社。


幼い狛にとって、九条家はただ誇らしいものだった。


町の人も、ホテルの従業員も、狛を見つけるとよく声をかけてくれた。


「坊ちゃん、今日は一人かい」

「狛くん、川の方に行きすぎちゃ駄目ですよ」

「おう、九条の坊。元気してるか」


狛はそのたびに大きく手を振った。


坊ちゃんと呼ばれることに、何の疑問もなかった。

九条と呼ばれることにも、嫌な気持ちはなかった。


それは自分の名前で、自分の家の名前で、自分の好きな町に灯りを増やした名前だったからだ。


その日も、狛は川沿いの遊歩道を歩いていた。


春の終わり。

夕方の少し前。

千代ノ瀬川は、浅いところで陽の光を細かく跳ね返していた。


欄干にもたれて川を見ていると、後ろから声をかけられた。


「おう、九条の坊」


振り向くと、見覚えのあるような、ないような男が立っていた。


町の人だということは分かった。

土産物屋の人なのか、旅館の人なのか、工事に関わっている人なのかは分からない。

狛にとっては、そういう大人が町にはたくさんいた。


「ぼくは狛だよ」


狛がそう言うと、男はからからと笑った。


「そうかそうか。狛か」


それから少し考えるように顎を撫でて、男は言った。


「いや、狛『吉』だな」

「こまきち?」

「狛吉の方が語呂がいいだろ?」


男はそう言って、川の方を見た。


「それに、この町にまた人を呼び戻してくれたからな。九条狛より、狛吉の方が似合ってる」


意味は、半分も分からなかった。


人を呼び戻す。

吉を運ぶ。

九条狛より、狛吉。


ただ、その響きだけが妙に耳に残った。


狛吉。


呼ばれた瞬間、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。

坊ちゃんでもなく、九条でもなく、ただの狛でもない。


町の誰かが勝手につけた、変なあだ名。

それなのに、不思議と嫌ではなかった。


「狛吉かぁ」


狛が呟くと、男はまた笑った。


「おう。狛吉だ」


川のせせらぎが、すぐそばで聞こえていた。


温泉街の湯気。

古びた看板。

夕方になると少しだけ冷える山の空気。

川沿いの遊歩道。

橋の向こうで手を振る旅館の女将。


その全部が、幼い狛にとっては当たり前で。

けれどいつの間にか、それが自分を自分たらしめるものになっていた。


***


狛吉。


その名前は、あっという間に広がった。


最初は、あの男だけだった。

それが土産物屋のおばちゃんに移り、旅館の番頭に移り、大衆浴場の受付に移り、いつの間にか町のあちこちから飛んでくるようになった。


「狛吉、今日は学校休みか」

「狛吉くん、これ持っていきな」

「狛吉、また背伸びたんじゃないか」


狛は笑った。

そう呼ばれるたびに、笑った。


嬉しかったからだ。

自分がこの町の一部になれたような気がしたからだ。


九条家の子供としてではなく。

ホテルの関係者としてでもなく。

ただ、千代瀬の子供として。


この町は暖かい。

この町が好きだ。

この町を生まれ変わらせた九条家が、狛は誇らしかった。


けれど、時間は少しずつ物の見え方を変えていく。


***


中学生になる頃、周りの同級生たちは少しずつ未来の話をし始めた。


部活。

進路。

将来の夢。

どこの高校へ行くのか。

どんな大人になりたいのか。


ありふれた話題のはずだった。

けれど狛は、その輪の中でふと黙り込むことが増えた。


自分の前には、最初から歩きやすい道がある。

九条家の息子として、親の整えた道を進めばいい。

きっとそれが一番楽で、一番間違いがない。


けれど、それは本当に自分の道なのだろうか。


自分の会社は、結局、古いものを壊して新しいものを作っているだけではないのか。

町を救ったと言いながら、町を別のものに作り替えているだけではないのか。


そう思った時、狛は千代瀬を見たくなった。


親から何度も聞かされてきた町。

自分の会社が携わった町。

自分がいつか背負うかもしれないものが、どんな形でそこに残っているのか。


それを、自分の目で確かめたくなった。


***


久しぶりに一人で訪れた千代瀬は、記憶の中よりもずっと賑やかだった。


石畳を老若男女が行き交っている。

湯煙に混じって、観光客の笑い声が聞こえる。

土産物屋の軒先には新しい商品が並び、川沿いの遊歩道では、若い男女がスマートフォンを構えて写真を撮っていた。


夜になれば、温泉街の灯りは川面に揺れた。


狛はその景色を見て、少しだけほっとした。


壊しただけではなかった。

奪っただけではなかった。

少なくとも、この町には人が戻ってきている。


そう思いたかった。


「狛吉?」


声をかけられて、狛は振り向いた。

見覚えのある旅館の従業員だった。

昔より少し老けていたけれど、笑い方は変わっていなかった。


「やっぱり狛吉だ。大きくなったなぁ」


狛は笑った。


「どうも。お久しぶりです」


悪い気はしなかった。

けれど、昔ほど嬉しいわけでもなかった。

そのことに、狛自身が一番驚いた。


狛吉。


あだ名にしては、あまりにも自然に耳へ入ってくる。

呼ばれれば、反射的に振り返ってしまう。

笑ってしまう。

答えてしまう。


まるで、それが最初から自分の名前だったみたいに。


だからこそ、怖かった。

その名前に込められたものを、自分が本当に受け取っていいのか分からなくなっていた。


その日の夕方、狛は温泉街の裏手にある細い路地で足を止めた。


店の裏口。

積まれた酒瓶のケース。

古い換気扇の音。

表通りの賑わいから、ほんの少し外れた場所。


そこで、聞いてしまった。


「九条の坊、来てるらしいな」

「ああ、狛吉だろ」

「監視しに来たんじゃないか?」

「まさか。あいつは狛吉つっておだてておけばいいんだよ」

「今のうちによくしておけば、こっちの要望を親に通してくれるかもしれないしな」

「特別扱いしておけば、面倒にはならないだろ」


呼吸が、止まった。


何かを言われたわけではない。

面と向かって責められたわけでもない。


けれど、その方がかえって痛かった。


狛吉。


その名前は、温かいものだったはずだ。

町からもらったものだったはずだ。

自分がこの町の一部になれた気がする、嬉しい呼び名だったはずだ。


けれど誰かにとっては、ただの便利な呼び方だった。


九条の坊を機嫌よくさせるための言葉。

財閥の息子を丸め込むための呼び方。

要望を通すための、愛想のいい札。


足元から、何かが静かに崩れていく気がした。


狛はその場を離れた。


誰にも気づかれないように。

何も聞かなかったふりをして。

いつものように笑わなければと思いながら。


けれど、笑えなかった。


     *


気づけば、狛は山側へ向かっていた。


どこへ行くつもりだったのか、自分でも分からなかった。

ただ、表通りの灯りから離れたかった。

湯煙と笑い声と、狛吉と呼ぶ声が届かない場所へ行きたかった。


その時、ふと思い出した。


幼い頃、古い旅館のロビーで聞いた大人たちの会話。


――あそこは車で寄りつくには急すぎる。

――あの神社まで繋ぐインフラ整備の予算はない。

――ああいう神聖な場所は、そっとしておいた方がいい。


手つかずの神社。


町が生まれ変わっていく中で、置いていかれた場所。

九条の開発計画から外された場所。

昔の千代瀬が、そのまま残っているかもしれない場所。


狛は、そこへ向かった。


神社へ続く道は、思っていたよりも急だった。

舗装はされているものの、車通りはほとんどない。

街灯も少なく、山の影が道の端に濃く沈んでいた。


しばらく登ると、小さな駐車場に出た。


そこからは、生まれ変わった千代瀬を一望できた。


眼下には、灯りを増やした温泉街が広がっている。

整えられた道路。

新しくなった建物。

川沿いに並ぶ宿の明かり。

遠くからでも分かる、九条リゾート千代瀬の大きな灯り。


誇らしい景色のはずだった。


けれど、その夜の狛には、少し眩しすぎた。


振り返ると、神社は真っ暗だった。


観光客も来ない。

鳥居の奥は夜の気配に沈んでいる。

石段は冷えきり、境内には古い木々の匂いが満ちていた。


狛は鳥居をくぐった。


小さな社。

苔のついた石灯籠。

対になった狐の石像。


狐たちは、暗闇の中でじっと狛を見ているようだった。


「……なんだよ」


思わず、狛は小さく笑った。


「お前らも、俺を見てんのか」


答えはない。

ただ、風が木々を揺らした。

その時、狐の石像の足元で、きらりと何かが光った。


狛は足を止めた。


落ちていたのは、小さな鉱石だった。


純粋無垢な、穢れのない半透明の石。

まだ何も宿していない、空のクォーツ。

オリジン。


なぜそんなものがここにあるのかは分からなかった。


けれど、目が離せなかった。


その石は、九条のものではなかった。

町のものでもなかった。

誰かが狛に与えた名前でも、役割でも、期待でもなかった。


ただそこにあった。

まだ何者でもないまま、暗い神社の片隅で静かに光っていた。


自然と手が伸びた。


救ってほしかったわけではない。

正解を教えてほしかったわけでもない。


ただ、この石なら、自分をどこかへ導いてくれる気がした。


指先が触れた瞬間、クォーツは淡く光を宿した。


夕暮れ時のような、やわらかな赤。

燃え上がる炎というより、沈みかけた陽が最後に残すぬくもりに近い色だった。


狛は息を呑んだ。


その光は、ここから見下ろす活気に満ちた千代瀬の夜景よりも。

狛が大好きだった、二つ目の故郷の夕景よりも。


ずっと、暖かかった。


光の中で、何かが揺れた。


小さな影。

狐の耳。

細い尾。

夜の闇に溶けるような輪郭と、夕暮れ色の瞳。


それは狛を見上げていた。


まるで、最初からそこにいたかのように。

まるで、狛が触れるのを待っていたかのように。


狛はしばらく言葉を失った。


けれど、黙っているのが急に恥ずかしくなって、いつもの調子で口角を上げた。


「……お互い、化かし化かされってか」


狐は答えなかった。

ただ、淡い赤の光が、狛の指先を包んでいた。

その時、狛は少しだけ分かった気がした。


このクォーツは、九条という名前に応えたわけではない。

狛吉というあだ名に応えたわけでもない。


手を伸ばした自分に、応えたのだ。


九条狛でもなく。

狛吉でもなく。


そのどちらでもない、ただの自分に。


***


それからも、狛は笑うことを覚えていった。


九条狛として。

狛吉として。

その場に求められる顔を選び、求められる声で答え、求められる軽さで空気を整える。


嘘をついているつもりはなかった。

でも、本当のことだけを言っているわけでもなかった。


自分に嘘をつく。

誰かに嘘をつかれる。

化かし、化かされる。


そんなものだと、いつの間にか思うようになっていた。


それでもウロだけは、狛がどんな顔で笑っているのかを知っていた。


乾いた笑いも。

反射的に上がる口角も。

笑っていない目も。


全部、知っていた。


九条狛。


それが本当の名前だ。


戸籍にも、学生証にも、ホテルの関係者名簿にも、そう書かれている。

九条財閥の血を引く者。

九条家の子供。

いずれ何かを背負うことになる人間。


では、狛吉は何なのだろう。


ただのあだ名。

名前も知らない地元の男が、思いつきで呼んだだけの、他愛もない呼び名。


そのはずだった。


それなのに、長い時間をかけて刷り込まれた二つ目の名前は、あだ名にしてはあまりにも自然に耳へ入ってくる。


「狛吉」


そう呼ばれるたび、振り返ってしまう。

笑ってしまう。

答えてしまう。


まるで、それが最初から自分の名前だったみたいに。


自分は今、どちらの仮面をつけているのだろう。


九条狛。


それとも、九条狛吉。


九条狛は、家の名前を背負った自分。

狛吉は、町の期待を背負った自分。


どちらも嘘ではない。

どちらも嫌いではない。


だからこそ、厄介だった。


どちらかが偽物なら、まだよかった。

どちらかを捨てれば、本当の自分が残るのなら、まだ楽だった。


けれど、九条狛も狛吉も、確かに自分の中にある。


ホテルのロビーを誇らしげに見上げていた子供も。

川沿いで変なあだ名をもらって笑った子供も。

町の裏側で言葉を聞いてしまった自分も。

暗い神社でウロに出会った自分も。

それでも千代瀬が好きだと思っている自分も。


全部、自分だった。


だから分からなくなる。


本当の自分の名前は、どちらなのか。


それとも。


名前で呼ばれる前の自分は、どこにいるのか。


***


「九条、お前も迷ってる」


天宮奏は、きっとそこまで考えて言ったわけではない。


九条家の事情も。

千代瀬という町の重さも。

狛吉という名前が、狛にとってどんな意味を持っているのかも。


何も知らないはずだった。


それなのに、その言葉だけは不思議と深く届いた。


さっきまで交わしていた軽口や、いつもの調子のやり取りとは違う温度で。

逃げ場を与えないほど真っ直ぐに。


笑って誤魔化してはいけないと思った。

軽口で流してはいけないと思った。

無碍(むげ)にしてはいけないと思った。


その言葉には、狛にとって特別な深みがあった。


九条狛でもなく。

狛吉でもなく。


そのどちらの名前にも隠れきれなかった、ただの“俺”を見つけられたような気がした。


だから狛は、いつものように笑うまでに、一拍だけ遅れた。


川のせせらぎが、遠くで聞こえた気がした。


あの日、名前も知らない男に狛吉と呼ばれた時と同じ音だった。

暗い神社で、ウロの光に触れた時と同じ静けさだった。


胸の奥に残っていたしこりが、静かに形を変えていく。


迷っている。


たぶん、それは否定できない。


九条狛として。

狛吉として。

そのどちらでもない、ただの俺として。


それでも、その迷いを見ないふりだけは、もうできない気がした。


水曜日に、本編と関係ない【用語集】【登場人物ファイル】を投稿することがある可能性がなきにしもあらずです。

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