5-3話_In the Frame
屋内訓練場での御手洗先生との組み手が終わったあと、
奏たちD組生徒一同は一度、それぞれの部屋へ戻された。
客室階へ戻る廊下には、まだ生徒たちの熱が残っていた。
誰かが「先生、手加減してたよな」と言い、別の誰かが「いや、あれで手加減なら無理だろ」と返す。
そういう声を聞きながら、奏は自分たちの部屋のカードキーを取り出した。
部屋の中へ入ると、最初に綴がベッドへ倒れ込んだ。
「……御手洗先生、強すぎない?」
「教師だからな」
九条狛はそう言いながら、自分の荷物を開く。
茶色い髪の内側に入った赤いメッシュが、客室の照明を受けてちらりと見えた。
九条狛、園尾晴、空木綴、そして天宮奏。
この4人が、今回の同室メンバーだった。
「教師ってだけであの動きになるなら、世の中の先生みんな怖いんだけど」
「綴、汗かいたままベッド使うと怒られるよ」
園尾晴が、淡々とした声で言った。
園尾は荷物が少なかった。
ベッドの上に置かれた鞄は薄く、着替えも必要最低限しか入っていないように見える。
奏がそれを横目で見ると、園尾は当たり前のようにハンガーへ私服をかけていた。
「風呂、行く?」
綴が上半身だけ起こして言う。
狛は窓際に置かれていた館内案内をちらりと見るでもなく、すぐに答えた。
「風呂は今清掃中だ。シャワーにしようぜ」
「……なんで九条が知ってんの?」
「館内スケジュールくらい見るだろ。あと浴場の利用時刻については初日に先生から説明があったし」
「……やむなしか」
綴はそう言いながら、結局タオルを持って立ち上がった。
順番にシャワーを浴びることになり、最初に綴が浴室へ入った。
水音が聞こえ始めると、部屋の中の空気が少しだけ落ち着く。
奏はベッドの端に腰を下ろし、訓練着の上着を脱いだ。
御手洗先生との組み手は、長くはなかった。
けれど、短い時間の中で、何度も足を止められた。
――撃つ前に迷うな。
御手洗先生の声が、まだ耳の奥に残っている。
技術的な注意だった。
そう受け取ることもできる。
けれど、奏にはそれだけに思えなかった。
銃口を向ける前。
引き金に指をかける前。
自分でも気づかない一瞬の迷いを、御手洗先生は見ていた。
奏は私服の袖に腕を通しながら、胸の奥に残る小さな引っかかりを押し込んだ。
「奏は先生に、何言われた?」
浴室から戻ってきた綴が、濡れた髪をタオルで雑に拭きながら聞いてきた。
「え?」
「俺、姿勢が雑って言われた。あと、勢いでどうにかしようとしすぎって」
「それ、だいたい当たってるな」
横から狛が笑う。
「うるさい。そういう九条は?」
「昔から変わってないな、って言われた」
狛はさらりと言った。
綴は少しだけ首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
園尾がシャワーから戻ると、薄手のシャツに細身の上着を羽織った。
全体的に淡い色でまとめられていて、宿泊研修というより休日の街歩きに近い。
綴がまじまじと見る。
「園尾君って、私服めっちゃおしゃれじゃん。少し寒そうだけど」
園尾は前髪を軽く整えながら、何でもないことのように言った。
「おしゃれは我慢」
「名言みたいに言うじゃん」
綴が笑う。狛も肩を揺らした。
奏も少しだけ笑った。
けれど、胸の奥に残る御手洗先生の言葉は、まだ消えていなかった。
やがて館内放送が鳴り、自由行動前の集合が告げられた。
***
ロビーには、すでに何人かの生徒が集まっていた。
大きな窓の外には、千代瀬の温泉街が見える。
川沿いに立ち並ぶ建物の隙間から、白い湯気が細く上がっていた。
御手洗先生は点呼を終えると、宿泊研修のしおりを片手に生徒たちを見渡した。
「細かいことは宿泊研修のしおりに書いた通りだ。だが、念のため再確認する」
いつもの軽い調子ではあるが、声はよく通る。
「自由行動は17時まで。行動範囲は温泉街中心部と旧駅前広場までだ。単独行動は禁止。必ず二人以上で動くこと」
生徒たちの何人かが頷く。
「クォーツギアの不要な起動、召喚獣の召喚は禁止。一般の観光客も、地元の人もいる」
御手洗先生は、そこで少しだけ声の温度を落とした。
「店の前で騒ぐな。周囲の人に迷惑をかけるな。学校の代表として、最低限まともに行動すること。緊急時は教員へ連絡。以上。解散」
生徒たちがそれぞれの小グループに分かれていく。
奏たちも自然と、同室の四人で動くことになった。
綴が狛を見る。
「九条、ここ詳しいんだろ?」
「まあ、そこそこ」
「じゃあ案内よろしく」
園尾が横から言った。
「でも合理的」
「園尾まで乗るのかよ」
狛は呆れたように言いながらも、特に断る様子はなかった。
生徒たちがロビーを出ていったあと、御手洗先生はしおりを閉じた。
その背後から、静かな声がかかる。
「御手洗先生」
振り返ると、蕗上教頭が立っていた。
背筋の伸びた女性で、ロビーのざわめきの中でも、その声には余計な揺れがない。
「天宮奏の様子は?」
御手洗先生は一瞬だけ窓の外へ目をやった。
ちょうど奏たちが、ホテルの自動ドアを抜けるところだった。
「午前の組み手を見る限り、制御は安定しています。少なくとも、今日の予定を変える必要はありません」
蕗上教頭は短く頷く。
「分かりました。私は明日、学園に戻りますが、引き続き、目を離さないように」
「承知しています」
その会話は、ロビーの空気に紛れるほど短かった。
***
千代瀬の空気は、学園のそれとは違っていた。
山の匂いと、湯気の湿り気と、川のせせらぎが混じっている。
道の向こうには、土産物屋や飲食店が並び、観光客らしい人たちが地図を見ながら歩いていた。
「とりあえず奥から行って、ホテルに戻りつつお土産屋とか店見ていこうか」
狛が先に歩き出す。
「奥?」
「旧駅前広場。最近はそっちの方が人多い」
狛はそう言いながら、迷いなく通りを進んでいく。
途中、通りの角に人だかりができていた。
白を基調にした小さな店の前に、若い観光客が列を作っている。
店先には、季節限定の温泉スイーツと書かれた看板が出ていた。
綴が立ち止まる。
「あ、あの店って、逢麻さんが言ってたスイーツの店じゃない?」
「うわぁ…すごい並んでる」
園尾が淡々と言う。
狛が店を横目で見た。
「あそこ、昔は八百屋だったんだけどな」
「八百屋からスイーツ店?」
「八百屋がフルーツパーラーをひらく、みたいなもんさ」
奏は行列を眺めた。
楽しそうに写真を撮る人たちの向こうで、狛はほんの少しだけ目を細めていた。
けれど次の瞬間には、いつもの調子で笑っていた。
「次、いこうぜ」
少し歩くと、視界が開けた。
そこは、古い駅前ロータリーを改修した広場だった。
石畳が敷かれ、中央には大きな白い文字のオブジェが並んでいる。
CHIYONOSE。
その前では、外国人観光客らしいグループが順番にポーズを取り、写真を撮っていた。
広場の脇ではマルシェが開かれており、焼き菓子や地元野菜、手作り雑貨を売るテントが並んでいる。
奥に見える古い駅舎は、外観を残したままカフェに改装されていた。
線路跡は低い柵で区切られていて、そこに立つと、まるで廃線の上に入り込んだような写真が撮れるようになっている。
「ここ、昔は駅だったのか?」
奏が聞くと、狛は頷いた。
「昔はな。山の向こうの集落と千代瀬を繋いでた古い路線があったらしい。今はこの通り、カフェと広場と映えスポット」
「綺麗に転職したな」
綴はそう言うと、急に目を輝かせた。
「せっかくだし俺らも撮ろうぜ」
「え、やるのか」
奏が言うと、綴は当然のように頷いた。
「じゃあ、俺撮るから、好きなとこ立てよ。でもあんまり散らばるなよ」
狛がスマホを取り出した。
「えー? 自撮りじゃないの?」
「自撮りじゃ入りきれないだろ」
「文字数多いもんな」
「そこじゃない」
狛は笑いながらスマホを構える。
「俺、Yのポーズする」
綴が両腕を斜めに上げた。
「じゃあ僕はCで」
園尾が少しだけ身体を横に曲げる。
その笑い声の中で、奏はスマホを構えたままオブジェの外側に立つ狛を見た。
九条は笑っている。
けれどその笑い方は、写真の中に入らない理由を先に決めている人間のものに見えた。
「九条」
「ん?」
「一緒に撮ろう」
狛の指が、スマホの画面の上で一瞬止まった。
「……天宮が言うなら」
狛はそう言いながら、近くにいた観光客に軽く声をかけ、写真を頼んだ。
四人はCHIYONOSEの前に並んだ。
シャッター音が鳴る。
写真の中の狛は、ほんの少しだけ普通の高校生に見えた。
旧駅前広場を出ると、通りの空気は少しだけ変わった。
ホテルの方へ戻る細い道に入ると、軒先から湯気が上がり、木の看板や古い暖簾が目につくようになる。
「こっちが昔からの温泉街?」
綴が左右を見ながら言った。
「まあな。新しくした店も多いけど、昔から残ってるとこもある」
狛はそう言って、一軒の小さな店の前で足を止めた。
蒸籠から白い湯気が上がっている。
看板には、手書きの文字で温泉饅頭と書かれていた。
「あら、狛吉じゃないの」
店先にいた年配の女性が、狛を見るなり顔を上げた。
「こんにちは」
狛は、慣れた様子で軽く頭を下げる。
「コマキチ?」
「あだ名じゃない?」
後ろでヒソヒソと、綴と園尾が小さく囁き合う。
「お友達かい?」
「まあ、そんなとこです」
「そうかいそうかい。おたくのおかげで、うちの饅頭もずいぶん写真を撮られるようになったよ」
「売れてるなら何よりです」
「売れる前に冷めるんだよ。写真待ちでね」
女性はそう言って、からからと笑った。
綴が一瞬、どう反応すればいいか迷った顔をする。
園尾は饅頭の蒸籠を見つめたまま、小さく呟いた。
「撮る前に食べればいいのに」
「それが一番うまい食べ方なんだけどねぇ」
女性は紙袋に饅頭をいくつか詰め、狛へ差し出した。
「ほら、持ってきな。狛吉の友達なら、ひとつおまけしとくよ」
「ありがとうございます。……またうちの連中が何か無茶言ってたら、俺に言ってください」
「そうやって、謝らんでいいとことまで謝る」
その言葉に、狛は笑った。
けれど、その返事だけは少し遅れた。
奏は、その横顔を見ていた。
褒められているのか、責められているのか。
たぶん、そのどちらでもあるのだと思った。
少し歩くと、今度は古い大衆浴場の前を通った。
外壁はところどころ補修されているが、入口の木札は年季が入っている。
暖簾の奥から、湯の匂いが漏れていた。
番台に座っていた男が、狛を見るなり片手を上げた。
「おぉ狛吉。今日は学校の連中連れて観光か」
番頭は笑い、首にかけたタオルで額を拭った。
「昔は湯加減だけ見てりゃよかったんだがなぁ」
「今は?」
綴が聞く。
「湯加減と、翻訳機と、スマホの充電だ」
「仕事増えてるじゃん」
「増えたよ。湯加減より電波の方が大事な客もいる」
園尾が入口横の貼り紙を見た。
英語、中国語、韓国語で入浴マナーが書かれている。
番頭は、笑いながらも少し疲れた目をしていた。
「まあ、客が来るのはありがたいよ。ありがたいから、文句も言いにくい」
狛は、暖簾の端を見ていた。
湯気を含んだ布が、風もないのにわずかに揺れている。
「……ですね」
返事は、それだけだった。
最後に寄ったのは、土産物屋だった。
店内には木彫りの置物、温泉の素、地元菓子、千代瀬と印字されたキーホルダーが並んでいる。
奥の椅子に座っていた老人が、狛を見て目を細めた。
「狛吉か。相変わらず、九条の坊ちゃんらしくない顔しとるな」
「どういう顔なら九条らしいんですか」
「もっと金の匂いがする顔だ」
老人は笑ったあと、レジ横の電子決済用端末を指で軽く叩いた。
「客は戻ったよ。ありがたいことだ。あんたんとこが町を綺麗にしてから、人の流れは変わった。ただな、最近の客は財布を出さん。みんなスマホを出す」
老人は端末を見ながら、少しだけ肩をすくめる。
「便利な世の中だよ。便利になった分、こっちの取り分まで便利に削れていく」
狛は、すぐには返さなかった。
さっきまでと同じように笑っている。
けれど奏には、その笑い方が、少しだけ作られたものに見えた。
「……使いにくいですか、うちの端末」
「使いやすいよ。だから余計に腹が立つ。でもまあ、客が戻ったのは本当だ。そこは忘れちゃいかんな」
老人は即答した。
狛は一度だけ目を伏せて、それから小さく笑って答えた。
「ですよね」
老人は、レジ横に置いてあった小さな包みを狛へ投げる。
「持ってけ。試供品だ」
狛は包みを受け取り、軽く頭を下げた。
***
土産物屋を出ると、通りの向こうが少し夕方の色に変わっていた。
前を歩く綴と園尾の会話は、相変わらず他愛なかった。
どの饅頭が一番うまかったとか、園尾の私服は本当に寒くないのかとか、そんな話ばかりしている。
その声に、千代ノ瀬川のせせらぎが混じる。
軒先から立ち上る湯気が、通りの向こうを白くぼかしていた。
奏は、隣を歩く狛を見た。
九条狛は、この町で歓迎されている。
けれど、それはただの歓迎ではない。
感謝も、皮肉も、不満も、昔から知っている子どもに向けるような親しみも、全部が混ざっている。
そして狛は、それを避けなかった。
笑って、受け取っていた。
「九条ってさ」
奏が言いかけると、狛は視線だけを向けた。
「今、別のこと考えてないか?」
狛は一瞬だけ黙った。
それから、いつもの調子で笑う。
「……そうだな。天宮と手合わせしたいって考えてた」
「……それ、今考えただろ」
「まあな」
狛は首を軽く回した。
「なんか肩凝ったんだよ。精神的に」
「観光の感想としてどうなんだ」
「だから一汗かいて、温泉でも行こうぜ。宿泊研修っぽいだろ」
前を歩いていた綴が振り返る。
「え、何? 訓練場行く流れ?」
「夕方の訓練枠、空いてるはずだ」
狛が答える。
綴は呆れたように笑った。
「九条、ほんと何でも知ってんな」
園尾が淡々と付け加える。
「地元ガイドだから」
「だから勝手に肩書きを増やすな」
狛の声に、いつもの軽さが戻る。
結局、狛が何を考えていたのかは分からなかった。
ただ、前を歩く綴と園尾の声と、千代ノ瀬川のせせらぎと、軒先から立ちのぼる湯気の中で、その問いだけが答えを持たないまま残った。
その日の夕方、奏は九条狛と向かい合うことになる。
次回は、7/11(土)更新予定です




