5-2話_Three Minutes
翌朝。
九条リゾート千代瀬の屋内訓練場には、D組の生徒たちが訓練着姿で集められていた。
昨夜、窓の外に見えた千代瀬の夜景は、まだどこか夢の続きのようだった。
川沿いに揺れていた旅館の灯り。
湯けむりの向こうに重なって見えた、古い町並みと新しい看板。
平日の夜の温泉街は思っていたより静かで、耳を澄ませば千代ノ瀬川の水音が聞こえた。
けれど、今いる場所に旅情はほとんどない。
高い天井。
白く均された床。
壁際に並ぶ訓練用武器のラック。
天井と四隅には、出力検知用のセンサーが淡い青色の待機灯を灯している。
いかにも、召喚士用の施設だった。
「眠そうな顔をしてるやつがいるな」
御手洗先生の声が、訓練場に響いた。
生徒たちの前に立つ御手洗先生。
学校指定のジャージの胸元には、黄昏色のクォーツをあしらったネクタイピンが留められている。
手にはバインダー。
目の下には、昨朝ほどではないが、うっすらと疲れの色が残っていた。
引率というものは、どうやら教師にとっても訓練らしい。
「今からやるのは試合じゃない。勝ち負けを決める時間でもない」
御手洗先生は、バインダーを閉じた。
「自分が何をできて、何をできないかを確認する時間だ。制限時間は3分。判定1本、もしくは時間切れまで」
3分。
短いようで、長い。
奏は無意識に、左手首の腕時計に触れた。
「召喚獣の完全召喚は禁止。イデア伝導は低出力のみ。危険出力を検知した場合、安全装置が発動し、即時試合中止とする」
「先生」
綴が手を上げた。
「つまり、勝たなくてもいいってことですか?」
「勝てるなら勝て」
御手洗先生は即答した。
「ただし、勝つことだけを考えるな。負けても、負け方次第では次につながる課題となる」
「負け方……」
「どう崩されたか。どこで迷ったか。どの癖を読まれたか。そこを持ち帰れ」
綴は「なるほど」と言いながら、分かったような分かっていないような顔をした。
別の生徒が、おずおずと手を上げる。
「召喚獣の補助も禁止ですか?」
「冒頭でも述べたが、完全召喚しなければ問題ない。召喚獣の力を制御できないようでは、召喚士のスタートラインにも立てないからな。」
御手洗先生の視線が、一瞬だけ奏の方へ流れた。
ほんの一瞬だった。
けれど奏は、それに気づいてしまった。
「先生は何使うんすかー?」
今度は双鳶霹の声が飛んだ。
御手洗先生は答えず、壁際の武器ラックへ歩いていく。
そして、そこから一振の木刀を取った。
見た目は、ほとんどただの木刀だった。
ただし、鍔元には小さな判定灯が埋め込まれている。
木目に沿うように細い配線が走り、柄の端には安全装置と連動するための小さな機械が埋め込まれていた。
「ただの木刀じゃん」
霹が言った。
「木刀型の訓練用刀だ」
「ほぼ木刀じゃん」
「ほぼ木刀だ」
何人かが小さく笑った。
その笑いが消える前に、御手洗先生は木刀を右手に下げたまま、訓練場の中央へ戻った。
「お前らには、ほぼ木刀で十分だ。今から見るべきものは、武器の性能じゃない」
空気が、少しだけ締まった。
「1人目。前へ」
最初に呼ばれたのは、D組のとある女子生徒だった。
彼女は緊張した様子で前へ出て、訓練用の短杖を構える。
杖の先端に埋め込まれた判定灯が白く点いた。
「制限時間、3分」
訓練場の壁に設置された表示板に、数字が浮かび上がった。
3:00。
「始め」
電子音と同時に、女子生徒が踏み込んだ。
短杖の先が低く走る。御手洗先生の膝を狙った一撃。
さらに、身体を回しながら横薙ぎへ繋げる。
悪くない、と奏は思った。
少なくとも、自分なら少し距離を取る。
だが御手洗先生は、距離を取らなかった。
半歩。
ただそれだけ身体をずらし、短杖の軌道を外す。
避けたというより、もともとそこにいなかったみたいだった。
女子生徒は、もう一度踏み込む。
御手洗先生は木刀を上げない。
受けもしない。
最小限の足運びだけで、彼女の攻撃を外し続ける。
表示板の数字が減っていく。
1:22。
0:48。
女子生徒の呼吸が荒くなった。
残り10秒。
その瞬間、御手洗先生の足が動いた。
木刀の切っ先が、彼女の喉元ではなく、手首の内側で止まる。
乾いた電子音が鳴った。
「一本」
女子生徒が息を呑む。
「踏み込みは悪くない。だが、攻撃の前に肩が上がる。スタミナ不足も懸念される。次から意識しろ」
「……はい」
***
「次。空木」
「はいよ!」
綴が勢いよく返事をした。
武器ラックから訓練用の小型ブレードを選ぶと、軽く肩を回して中央へ向かう。
「空木。今日は、いつものパーカー着ないのか?」
「流石に先生には、本気でやんなきゃって思って」
綴の目つきは、日頃のそれとは違った。
「始め」
表示板が3分に戻り、ブザーが鳴った。
綴は速かった。
開始と同時に、右へ大きく回り込む。
御手洗先生の正面に立たず、斜めから崩しに行く。
小型ブレードを振るうのではなく、まず位置を取ろうとしている。
奏は少し驚いた。
綴は普段の印象より、ずっと動きの判断が早い。
あんなにふわふわした奴なのに…それが一番の感想だった。
「お、早いな」
遠目の双鳶霹が小さく声を上げた。
綴は間合いを詰め、小型ブレードを振る。
御手洗先生は木刀で受けず、柄の角度だけで軌道を流した。
綴はすぐに二撃目へ繋げる。
速い。
けれど。
「空木」
御手洗先生が言った。
「判断は早い」
「ありがとうございます!」
「早いだけだ」
「えっ」
その一瞬。
綴の足が止まった。
御手洗先生の木刀が、綴の肩口でぴたりと止まる。
判定音が響く。
「一本」
「え!?今の、喋ったせいじゃないですか!?」
「戦場で喋りかけられたら、お前は立ち止まってお喋りするのか?止まったお前のせいだ」
「厳しい!」
「相手が待ってくれる前提で動くな。次」
綴は不満そうにしながらも、どこか納得した顔で下がった。
***
「篠亀」
空気が少し変わる。
「はい」
篠亀箒が、ゆっくりと前に出た。
大きな身体。無駄のない歩幅。声は低く、短い。
彼が武器ラックから選んだのは、訓練用とは思えない幅の大剣だった。
刃は潰され、判定灯も埋め込まれている。
それでも、持ち上げた瞬間に空気の重さが変わった。
綴が小さく呟く。
「……あれ、訓練用だよな?」
「訓練用だよ」
園尾晴が淡々と答えた。
綴の隣に座るおとなしそうな彼は、綴と同じ班(部屋)の男子である。
「当たったら痛いだけで済むかは知らないけど」
「それを訓練用って言うのか?」
箒は中央に立ち、大剣を構えた。
御手洗先生は変わらず木刀一本。
武器の差だけ見れば、冗談みたいな組み合わせだった。
「始め」
ブザーが鳴る。
箒はすぐには動かなかった。
静かに、間合いを詰める。
一歩。
一歩。
大剣の重さに引きずられている様子はない。
むしろ、その重さを身体の中心に沈めるようにして、ゆっくりと御手洗先生の逃げ道を狭めていく。
派手さはない。
けれど、圧がある。
御手洗先生は、初めて木刀を構えた。
表示板の数字が進む。
2:51。
2:32。
箒の大剣が、わずかに持ち上がった。
振り下ろす。
そう見えた瞬間、軌道が変わった。
上からではなく、斜め下から。
床を削るような低い一撃。
受ければ、木刀ごと持っていかれる。
少なくとも奏には、そう見えた。
御手洗先生は受けなかった。
半歩、外へ。
たったそれだけで、大剣の重みは行き場を失った。
箒の肩が、わずかに開く。
その隙間に、木刀の切っ先が入った。
喉元ではない。
手首の内側。
大剣を握る力が、一瞬だけ死ぬ場所。
乾いた判定音が鳴った。
残り時間はまだ2分を切っていない。
「一本」
箒は動きを止めた。
数秒だけ、沈黙が落ちる。
「篠亀」
「……はい」
「力は十分だ。型も悪くない。むしろ、よく出来ている」
「……ですが」
「己の型に相手を押し込めようとするな」
箒の目が、わずかに細くなった。
「戦場はいつでもお前ん家の庭じゃねぇぞ。相手が知ってる型で来るとは限らない。知ってる風で吹くとも限らない」
「……空木のことっすか」
綴が、思わず箒の方を見た。
御手洗先生は、木刀の切っ先を下ろす。
「あれも一例だ。獅堂の風も、空木の風も、同じ風じゃない。ただ、入学初日の実戦演習のログを観た感想だ」
箒は何も言わなかった。
けれど、その沈黙は反発ではなかった。
どこかで、すでに分かっていたことを、今になって言葉にされたような顔だった。
「お前が構えた場所に、相手が立ってくれると思うな」
箒は大剣を下ろし、低く息を吐いた。
そして、御手洗先生の首にかかる紺色の教員証を見る。
「伊達に召喚騎士持ってる訳じゃないんすね……」
「伊達で取れる称号じゃない」
「……ですよね」
「欲しかったら、この場に居る全員なぎ倒すぐらいの気持ちで行け」
そのやり取りに、周囲の生徒たちが少しざわめいた。
召喚騎士。
それは、ただ戦えるだけで得られる称号ではない。
奏は御手洗先生を見る。
木刀一本を下げている姿は、いつもの担任と大きく変わらない。
けれど今の一戦で、見えているものが違うのだと分かった。
***
「次。九条」
「はいはい」
九条狛が軽い調子で前へ出た。
狛は武器ラックから折り畳み式の訓練用長棒を選ぶ。
固定部を確かめるように軽く振ると、棒先の判定灯が白く点いた。
首元には、赤いクォーツのネックレスが覗いている。
「九条、燃やすなよ」
「言われなくても制御できます。焦がすくらいにしときます」
「焦がすな」
「はい」
狛が肩をすくめる。
その軽口とは裏腹に、構えは静かだった。
棒を前に出しすぎない。
足幅も広げすぎない。
いつでも引けるし、いつでも踏み込める。
奏は思った。
狛は、軽い。
でも、軽いだけではない。
「始め」
ブザーが鳴る。
狛は真正面から行かなかった。
棒先で牽制しながら、御手洗先生の足元を誘う。
踏み込ませる場所を作っているようにも見えた。
御手洗先生は乗らない。
狛が笑う。
「慎重ですね、先生」
「お前相手ならな」
「光栄です」
棒が低く走る。
御手洗先生は木刀の峰で軽く流す。
狛はその反動を利用して、逆側へ回り込んだ。
速くはない。
けれど、嫌な位置にいる。
相手の正面に立たず、視線だけを残す。
火属性らしい派手な攻撃はない。
棒術だけで、狛はじわじわと御手洗先生の間合いを削ろうとしていた。
残り15秒。
狛が、一歩だけ踏み込んだ。
その足の運びを見て、御手洗先生が言う。
「九条。足の運び方は独学か?」
「家の教育です」
「にしては、この町みたいな泥臭さがある」
狛の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
その間に、木刀の切っ先が棒の内側を抜け、狛の胸元で止まる。
判定音。
「一本」
狛は棒を下げ、苦笑した。
「先生、そういうとこ突いてきます?」
「授業だからな」
「嫌な授業だ」
「いい授業だ」
狛は何か言い返そうとして、やめた。
そして、奏の方を見た。
「次、天宮だろ」
奏の名前が呼ばれる前に、御手洗先生がこちらを見る。
「天宮」
「はい」
奏は一歩前に出た。
武器ラックから、訓練用ハンドガンを取る。
実弾を撃つものではない。
イデア判定弾を投射する訓練用ギア。
グリップ奥にはクォーツ受信部があり、持ち主のイデア出力を判定弾へ変換する。
奏はグリップを握る。
左手首の腕時計型クォーツが、微かに冷たくなった気がした。
アビスは出てこない。
けれど、いる。
「準備は」
「大丈夫です」
「そうか」
御手洗先生は短く答えた。
その声が、少しだけ低く聞こえた。
「始め」
ブザーが鳴る。
奏はすぐに距離を取った。
銃を使う以上、間合いは自分で作る必要がある。
正面に立ち続ければ、木刀一本でも詰められる。
御手洗先生は追ってこない。
木刀を下げたまま、歩く。
奏は銃口を向けた。
照準を合わせる。
撃つ。
その一拍前に、指が止まった。
御手洗先生が半歩ずれる。
判定弾は放たれたが、かすりもしない。
奏は歯を食いしばる。
もう一度、距離を取る。
今度は横へ。
御手洗先生の踏み込みに合わせて、角度を変える。
見えている。
今なら撃てる。
そう思った瞬間、また指が遅れた。
水のイデアが、細く揺れる。
出しすぎるな。
暴れるな。
壊すな。
そんな言葉が、意識の奥に沈んでいた。
御手洗先生のネクタイピンが、ほんの一瞬だけ鈍く光った。
黄昏色。
足元を、見えない獣が低く走ったような気配がした。
奏は息を呑む。
次の瞬間、御手洗先生の姿が視界から消えた。
いや、消えたのではない。
奏の意識が銃口の先に固定された、その外側に先生がいた。
木刀の切っ先が、訓練用ハンドガンの銃身に触れている。
判定音。
「一本」
訓練場が静かになった。
ほんの数十秒の出来事だった。
奏は銃を下ろせなかった。
「天宮」
「……はい」
「撃つ前に迷うな」
その言葉は、怒鳴られたわけでも、責められたわけでもなかった。
ただ、事実として置かれた。
「……」
「迷ってから撃っている」
緊張の糸は緩まない。
奏は何も言えなかった。
御手洗先生の視線が、奏の左手首へ落ちる。
腕時計型のクォーツ。
そこに宿るもの。
先生は、きっと何かを知っている。
けれど、言わない。
「今日は、それでいい」
「え?」
「ただし、ずっといまのままでいいと思うか?迷っていれば、誰かが導いてくれると思っているか?」
奏は銃を下ろした。
「……自分は、」
腕時計の奥で、蒼いものが静かに息をした気がした。
「それを扱えるのは、お前だけだ。お前がお前自身を導け」
そう告げた後、御手洗先生は全員を見渡す。
「以上。今日の分はここまでだ」
生徒たちから、緊張が抜ける音がした。
誰かが長く息を吐き、綴はその場にしゃがみ込みそうになっている。
「一度、各部屋に戻れ。水分補給と着替えを済ませろ」
御手洗先生は木刀型訓練用刀を武器ラックへ戻した。
「15分後、ロビー集合。自由行動について説明する」
「やった!自由行動だ!」
綴が急に元気を取り戻した。
「…切り替え早いな、お前」
奏が言うと、綴は胸を張った。
「負け方にも情報は出るって先生言ってただろ。俺は今、休憩が必要という情報を得た」
「ただ疲れただけじゃないか」
「それも情報だ」
園尾が淡々と頷いた。
「間違ってはいない」
狛は長棒を片付けながら、笑った。
「じゃあ、せっかくだし千代瀬の町でも見るか」
「詳しいんだっけか?」
奏が聞くと、狛は少しだけ肩をすくめた。
「まあ、多少はな」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
軽い。
けれど、軽いだけではない。
さっき御手洗先生が、九条に対して言った言葉が、奏の耳に残っている。
この町みたいな足運び。
奏はもう一度、自分の腕時計に触れた。
3分。
たった3分で、いくつものものが見えた。
自分ができること。
できないこと。
そして、まだ見えていないもの。
訓練場の表示板は、すでに消えていた。
けれど奏の中では、最後の3分がまだ終わっていなかった。




