5-1話_At the Borderline
この話から宿泊研修編です。暖かく見守ってください。
某日
入学してから数週間
「全員揃ったか〜。返事がない奴は、夢の中に置いていくぞ」
早朝。
学園前に、1台の大型バス。
御手洗先生の声が薄く響いた。
まだ空は青というより灰色に近い。
校門前の街灯は消えきらず、貸切バスの窓だけが、ぼんやりと朝の光を映している。
御手洗先生は片手にスマホ、もう片方の手にバインダーを持っていた。
スマホのライトに照らされた紙面には、『宿泊研修 1日目』の文字と、分刻みの予定が並んでいる。
目の下には、うっすらとクマがあった。
点呼はいつものように進み、生徒たちはそれぞれ短く返事を返していった。
その声はどれも眠気を引きずったように小さく、時折混じる気の抜けた調子が、朝の空気に溶けていく。
眠そうに欠伸を噛み殺す者。
妙にテンションの高い者。
大きな旅行鞄を足元に置いたまま、スマホで写真を撮っている者。
宿泊研修という名目ではあるが、空気だけを見ればほとんど旅行だった。
「いいか。今日は移動日だ。途中の休憩、乗り換え、到着後の説明。全部、時間厳守。遅れた奴は置いていくぞ」
「さっきから置いていくしか言ってなくないですか」
綴がぼそりと呟く。
「置いていかれたくなければ、遅れるな」
御手洗先生は綴を見てそう返し、バインダーをパタりと閉じた。
生徒たちは順にバスへ乗り込んでいく。
バスが学園を出る頃、東の空が少しずつ明るくなり始めていた。
窓の外では、まだ眠たげな街が動き出していく。
コンビニの前にはアイドリング中のトラックが何台か停まっている。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
信号待ちの車が一台、また一台と増える。
高速道路に入る頃には、車線の向こうにヘッドライトの列が伸びていた。
朝焼けが、ビルの縁を薄くなぞる。
日常が目を覚ましていくのを、奏は窓際の席からぼんやり眺めていた。
「なんだか旅行って感じするね。ちょっと落ち着かないな」
ざわつく車内の中で、隣で綴が言った。
「宿泊研修だぞ。色々学びに行くんだよ…多分」
「それはそう。でもほら、朝早くにバス乗って、高速乗って、先生に置いていくぞって言われて。もう修学旅行じゃん」
「修学旅行はもっと先だろ?冬ぐらいだぞ」
「じゃあ、予行演習ってことで」
「はぁ…」
奏の呆れたようなため息は、バスの窓ガラスに溶けていく
綴は笑って背もたれに沈んだ。
しかしその直後、綴の顔色が少しだけ悪くなる。
「大型バスの匂いって、なんでこんな酔いやすいんだ…」
「大丈夫か?出発して数分だぞ。もう酔ったのか?」
「まだ本格的には酔ってない。可能性を感じてるだけ」
「…席変わった方がいい?」
「いや、ダイジョブ」
前の座席の隙間から、岬がのぞきながら言った。
「視線を下げると悪化するよ。窓の外を見るか、景色をあきらめて寝た方がいいと思う。あとフード取った方が視界が広がるよ」
「…それは分かってるって」
「そう…」
綴はフードを深くかぶり、静かに睡眠体制に入った。
***
最初の休憩は、高速道路沿いのサービスエリアだった。
バスが停まるなり、御手洗先生が前方で立ち上がる。
「トイレ休憩、二十分。出発前に点呼取るから、寝てる奴いたら起こしてやれ。返事が無い奴は置いていくからな」
「集団行動って厳しい…とりあえず外の空気吸ってこよ」
「ちゃんと戻って来いよ」
奏はそう言って、綴の背中を軽く押した。
外へ出ると、朝の冷たさに混じって、パンの焼けた匂いとコーヒーの匂いがした。
サービスエリアの中、売店には、お土産やご当地限定と書かれた菓子やキーホルダーが所狭しと並んでいる。
その一角で、ずんぐりとした黒いマスコットが、癖になる表情で棚を占領していた。
「お前、どっちのお土産?」
「トイレ行ってたんじゃなかったのかよ。商品に話しかけてないで、早くトイレ行っとけよ」
「それはそう」
綴は素直に頷き、売店から離れた。
数分後、生徒たちがそれぞれ飲み物や軽食を手にバスへ戻ってくる。
綴も戻ってきたが、顔色は先ほどよりさらに微妙だった。
「五分前だ。足元に気を付けて座席に戻れ。置いていくぞ」
そう言って、御手洗先生は綴に酔い止めを一錠渡した。
「お前のだ。朝、預かった分」
「……先生、めっちゃ教師っぽいことしてる」
「置いて行かれる準備はできたか?」
御手洗先生はそれだけ言うと、次の生徒の人数確認へ戻っていった。
綴はしばらくその背中を見てから、手の中の錠剤と水を交互に見た。
「先生、たまに株を上げてくるな」
「たまにとか言うなよ」
***
バスは再び走り出した。
やがて高速を下り、都市部の大きな駅に着く。
そこから先は、ローカル線への乗り換えだった。
慣れない在来線の改札と、御手洗先生の点呼をくぐり、ホームへと階段を下りる。
ホームに停まっていた車両は、都会の電車より比較的短い。
車内に入ると、広告の数も少なく、窓が大きく見えた。
電車が動き出す。
駅をひとつ過ぎるたびに、窓の外から背の高い建物が減っていった。
代わりに、田んぼと、低い山の稜線と、名前も知らない細い川が増えていく。
車内のざわめきも、少しずつ小さくなった。
「だいぶ遠くまで来た感じするわね」
后が言った。
イヤホンを片方だけ外したまま、窓の外を眺めていた。
眠そうな顔をしているのに、どこか見慣れた景色を確認しているようにも見えた。
「まだ着いてないけどな」
奏が返すと、后は小さく笑う。
「着くまでが旅、ってことよ」
向かいの席では、綴がようやく少し落ち着いた顔で外を眺めていた。
岬は手帳を開き、今後の予定を確認している。
終点に近い小さな駅で、一行は再び降りた。
駅前のロータリーは広くない。
まだまだ夕方には早い時間だが、売店も閉まっている。
駅名標の下には風で色褪せた観光ポスターが貼られている。
その端に、白い送迎バスが一台停まっていた。
車体の側面には、金色の細い文字で、KUJO RESORT CHIYONOSEと入っている。
「あれ?この送迎バス、クジョウって書いてある?」
綴が言った。
「九条リゾート千代瀬だからな」
眼をこすりながらそう言った綴の背後から、声がした。
九条狛だった。
「ん?あ、いや、そうなんだけど。九条って、あの九条?」
「どの九条?この世に『九条』って付く地名はたくさんあるぜ?」
「明らかに地名はチヨノセの方でしょ。クジョウだよ。絶対キミの九条でしょ」
「キミの九条って言い方、やめてくんない?」
「ははっ。じゃあ実家の九条」
「フードはがすぞ?」
そんな彼らのやり取りに、周囲から小さな笑いが起きた。
送迎バスは駅前を出て、山へ向かう県道に入った。
車内では、移動疲れからか、ほとんどの生徒が夢の中だった。
しばらくは田畑と民家が続いた。
見慣れた片側二車線が、一車線に。
信号も減っていき、点滅信号の黄色が、見慣れた顔になってきた。
やがて景色が一度だけ開け、谷の向こうに、場違いなほど白い建物群が見えた。
低く長い研究棟。
ガラス張りの渡り廊下。
外周を囲む、ねずみ返しのついたフェンス。
その手前には、同じ形をした、デザイン性のあるアパートがいくつも並んでいた。
ベランダには、作業着らしい服が干されている。
小さな保育園のような建物の前で、社員証を首から下げた人影がバスを待っていた。
「こんな山奥に?あれ、何の施設?」
綴が窓に額を寄せる。
「華園重工の研究所。千代瀬の手前にある」
狛が、何でもないことのように答えた。
その名前を聞いた瞬間、后が窓の外へ視線を向けた。
けれど、研究所の白い建物はすぐに山陰へ隠れた。
観光地へ向かっているはずなのに、そこだけは少し、仕事と生活の匂いがした。
「昔は、この辺からもう少し奥まで線路が伸びてたらしい。なんとか…シロ線っていう古い路線」
狛がぽつりと言った。
「へぇ。詳しいじゃん」
綴が振り返る。
「親の仕事で何回か来たことあるだけ。旧路線の名前さえ出てこない、その程度」
狛はそう言って、また窓の外へ視線を戻した。
道はさらに細くなった。
山肌が近づき、川音がバスの窓越しにも聞こえるようになる。
夕方の光は山の端に沈みかけていて、空は茜色から藍色へ変わろうとしていた。
そして、谷間に入った瞬間、窓の外を色が横切った。
川の上だった。
川に沿って渡された何本もの綱に、数えきれないほどの鯉のぼりが吊るされている。
赤、青、黒、緑。夕暮れの風を受けて、鯉たちは湯けむりの中を泳ぐように揺れていた。
赤銅色の鉄橋を渡りきった先、『一級河川 千代ノ瀬川』の看板と、様々な国の言語で『ようこそ』とかかれた綺麗な看板が佇む。
「……すげぇ」
綴が、さっきまでの乗り物酔いも忘れたように窓へ張りつく。
奏も、思わず息を止めた。
川沿いには古い旅館の灯りが点々と連なり、その奥に、ひときわ大きな建物があった。
瓦屋根の名残を持つ棟と、ガラス張りの新しいエントランス。
山と川に挟まれた長い外壁には、金色の文字で、”九条リゾート千代瀬”と刻まれている。
観光地というより、谷間に置かれたひとつの町みたいだった。
狛だけは、その景色を初めて見る顔では見ていなかった。
バスがエントランス前に停まる。
降りた瞬間、冷えた山の空気に、かすかな湯の匂いが混じった。
ロビーへ向かう途中の渡り廊下で、綴がまた足を止める。
「え、なにこれ。写真撮るやつじゃん」
床に、一本のラインが引かれていた。
案内板には、旧行政区境界、と小さく書かれている。
「よく国境際にある、右半身と左半身で~の、アレ?」
「そうそうそれそれ。奏、こっち立って」
「なんで俺が…早くいかないと先生に怒られるだろ」
「いいじゃん!記念だから」
すると、うしろから明るい声が聞こえてきた。
「え、あーしらも撮ろ〜。めっちゃ映えるやつじゃんこれ!」
「霹、置いていくよ」
「あ、靂ったら、さては御手洗先生のこと、いじってるっしょ?」
靂は呆れたようにため息をついたが、結局、境界線の片側へ立った。
奏も断りきれず、綴に肩を引かれてラインの上に立つ。
誰かのスマホがシャッター音を鳴らした。
***
到着後の館内説明は、必要なことだけに絞られた。
食堂や温泉の利用時間、館内での移動範囲、消灯時間、緊急時の集合場所。
そして、翌朝の予定。
「明日、朝食後一発目は屋内訓練場だ。班別に整列して待機すること。遅れた班は、班ごと置いていく」
「班ごと……」
綴が小さく呟く。
「連帯責任だ。嫌なら全員で起きろ」
御手洗先生はそう言って、バインダーをぱたりと閉じた。
窓の外では、鯉のぼりが夜風に揺れている。
湯けむりの向こうで、千代瀬の灯りが川面に滲んでいた。
宿泊研修の1日目が、静かに終わろうとしていた。
1年の半分が過ぎたらしいです。
7月になった途端、セミの鳴き声が聞こえてきました。
夏が始まった合図がした。




