幕間_Second Hand
※奏の実戦練習後(戦闘後)の初夜のお話です
時系列としては、4-1話の食堂回と同じ夜の出来事として読んでください。
初めての実践練習が終わった夜。
天宮奏は、寮の大浴場で湯に肩まで沈んでいた。
身体のどこかが痛む、というわけではない。
転んだわけでも、殴られたわけでもない。
それでも、身体の奥に疲れが残っていた。
骨の内側に、水を含んだ布を詰め込まれたような重さ。
まぶたの裏には、湿地の光景がまだ残っている。
獅堂霞の召喚獣。
風、刃。
そして、自分の手の中にあった蒼いクォーツ。
「奏じゃん」
隣から軽やかな声がした。
湯気の向こうで、空木綴がこちらを見ている。
パーカーのフードを外していて、いつもより少しだけ表情が読みにくい。
「のぼせるよ?」
「ああ……悪い」
「謝らなくていいよ」
綴は鼻で笑いながらそう言って、湯船の縁に背を預けた。
寮には、各部屋のシャワールームとは別に、大浴場が常設されている。
訓練を終えた生徒の利用も少なくない。
脱衣所には湿ったタオルの匂いと、誰かの笑い声の残り香があった。
今は人も少ない。
湯の流れる音だけが、やけに大きく聞こえる。
「実践練習って、毎回あんな感じなのか?」
奏が訊くと、綴は少し考えてから答えた。
「たまたまだよ、たまたま」
「……だよな」
「少なくとも、初日から御三家とぶつかるのは普通じゃないけどね」
綴の声はいつも通り平坦だった。
けれど、その平坦さが今は少しありがたい。
「そっか」
奏は浴場の天井を見上げた。
白い湯気が、照明の周りで薄く滲んでいる。
手を伸ばせば届きそうで、届かない。
今日、自分は何をしたのだろう。
アビスを召喚んだ。
戦った。
勝ったのか、負けたのかも分からないまま、終わった。
ただ一つ分かるのは、あの蒼いものが、もうただの石ではないということだった。
「飯、行こか」
綴が言った。
「…だな」
奏は湯から上がった。
***
そのあと二人は食堂へ向かい、華園后と逢麻岬と合流した。
四人席。
まだ慣れないはずの場所に、なぜか少しだけ居場所のようなものが生まれた夜だった。
夕食を終えて部屋に戻ると、そこにはまだ入学式の、あの日の名残が残っていた。
机の横に置かれた段ボール。
ベッドの下に押し込まれた紙袋。
タオルや洗面道具だけを先に出して、それ以外は後回しにしていた。
寮生活は始まったばかりで、
部屋はまだ未完成だった。
まるで、召喚士になりたての自分を表しているかのよう。
「…一旦、片付けるか」
誰に言うでもなく呟いて、奏は段ボールの蓋を開けた。
替えの服。
使い慣れた筆箱。
母が念のために入れたらしい常備薬。
その底に、小さな箱があった。
黒に近い紺色の箱。
見覚えはないが、どこか懐かしい。
少なくとも、自分で入れた記憶はなかった。
恐る恐る開けると、腕時計が一本、静かに収まっていた。
新品ではなかった。
革のベルトは、誰かの手首に馴染んだように柔らかい。
金属の縁には、磨かれても消えない細かな傷が残っている。
古びている、というほどではない。
けれど、ただ店に並んでいるだけのものではなかった。
誰かが使っていた時計だ。
ケースの下には、折りたたまれたメモが一枚入っていた。
久しぶりに母の字を見た。
『スマホばかり見ないで、たまには時計で時間を見なさい』
「…?」
思わず、奏は小さく笑った。
母らしいと言えば、母らしい。
心配しているのか、小言なのか、よく分からない。
けれど、その曖昧さまで含めて、よく知っている母の言葉だった。
ふと、奏は、机の上に置いていたハンカチを見た。
その中には、実践練習のあとからどう扱えばいいのか分からず包んでいた、アビスの宿る蒼いクォーツがある。取り出すと、部屋の照明を受けて、奥の方がかすかに揺れた。
海の底みたいな色だった。
「?」
再び腕時計に視線を戻すと、腕時計の文字盤の奥には、小さな空間があった。
ちょうど、このクォーツが収まりそうな大きさ。
「…まさかな」
答える者はいない。
けれど、なぜかそうするのが自然な気がした。
奏は、ガラスを外し、蒼いクォーツを文字盤の奥へ収めた。
かちり、と小さな音がした。
止まっていた針が、動き出す。
「…」
ただの偶然だ、と、そう思うことにした。
(5つ目ぐらいの穴かな)
腕時計を左手首に巻いてみたが、思っていたより、重くない。
味が出ている革のベルト、剣先側から3番目の小穴、そこだけが、経年により広がっていた。
スマートフォンの画面を点けて時刻を見る。
それから、腕時計を見る。
同じ時間を示していた。
当たり前のことなのに、少しだけ妙な感じがした。
「……腕時計だ」
奏は呟いた。
それ以上の意味は、まだ分からない。
母がどういうつもりでこれを入れたのか。
誰が使っていたものなのか。
なぜ、このクォーツがぴたりと収まるのか。
分からないことばかりだった。
けれど、今はそれでよかった。
今日一日で、分からないことは十分すぎるほど増えた。
これ以上、無理に答えを探す気にはなれなかった。
奏はスマートフォンを伏せ、腕時計の針をもう一度だけ見た。
秒針が、静かに進んでいる。
ひとつ、また、ひとつ。
まるで、今日という日がようやく終わっていくことを、誰かが教えてくれているみたいだった。




