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第9話:人生初の接吻(キス)に挑んだ瞬間、風呂キャンがバレてカメにうんこを漏らされた

 ボフンッ!!!

 本日四度目となる硝煙の匂いの紫煙が、黄色のハスラーの狭い車内を完全に包み込んだ。

 ついに、特別にオマケしてもらった貴重な4個の願いをすべて勢いだけで消費し尽くした。煙がゆっくりと引き、エアコンの温風で視界がクリアになっていく中、運転席に座っている俺の右足に、何かがモゾモゾと這い上がってくる奇妙な感触があった。

 俺は息を呑み、足元へ目を見張った。

 そこにいたのは、甲羅に三本の隆起(キール)を持ち、渋い泥色をした、体長二十センチほどの――。

「……って、ニホンイシガメじゃねぇかァァァァァァァァッッッ!!!!!」

 俺の魂の絶叫がハスラーの車内に木霊した。

「おいランプの精ッ! 浦島太郎の物語なら、竜宮城に連れてってくれるのは絶対に『ウミガメ』だろうが! なんでゴリゴリの淡水生のカメがここにいるんだよ!」

 後部座席にいつの間にか移動していたランプの精が、小さな頭をポリポリと掻いた。

『あ。間違えたであります。まあ、細かいことは気にするなでありますよ、ご主人様。多分こいつの案内でも、気合いで竜宮城には行けるはずであります。わははは』

「おいおいおい、本当にこいつで大丈夫なのかよ……!」

 俺はアクセルペダルの横で首をキョロキョロさせているイシガメを見つめ、本気でハラハラしてしまった。海水に入れた瞬間にこのカメがショック死する未来しか見えない。

 絶望に打ちひしがれる俺の、ハスラーのシフトレバーの上に置いていた左手を、ふいに冷たくて柔らかいものが包み込んだ。

「……ご主人様」

 菊乃ちゃんだった。彼女はガラスの瞳を潤ませながら、俺の左手をじっと両手で握りしめていた。

 その瞬間、俺の動悸は一気にマックスへと跳ね上がった。バクバクと心臓が変なリズムを刻み、冷や汗が脇や背中をどっと流れ落ちる。三十代前半、非モテオタク。リアルな女子に手を握られた経験など皆無の俺の全身が、極限の緊張で完全に硬直した。

 だが、俺はここで男の勇気を振り絞った。おじいちゃんの「エゴイスティックな生命力」の教えが、脳裏をよぎったのだ。ここでいかなきゃ男じゃない!

 俺はロボットのような動きで右手を伸ばし、菊乃ちゃんの赤い着物の肩にそっと手をかけた。菊乃ちゃんの華奢な身体が、手のひらの下で少し震えているのが分かった。

(いくぞ……俺の人生、初陣だッ!!!)

 俺は両目を閉じ、口元をタコの形のように突き出し、人生初の接吻(ビジネスでいうファーストキス)へと果敢に挑んだ。後部座席のランプの精が「おお……」と息を呑む気配が伝わってくる。

 二人の距離が、あと数センチに迫った、その時だった。

 菊乃ちゃんがおもむろに顔を背け、俺に尋ねた。

「あの……ご主人様。最近、お風呂にはいつ入られましたか?」

「……え?」

 タコの形のまま、俺の脳の思考が停止した。急激な現実に引き戻され、少し考えて記憶を辿る。

「最後に入ったのは……いつだっけかな……。ほら、平日は残業続きで帰ったらすぐ寝ちゃうし、金曜の夜は地下アイドルの配信があったし……昨日も遺品整理で……」

 言い訳を並べる俺の前で、等身大市松人形の菊乃ちゃんとランプの精が、完全に絶句していた。

 菊乃ちゃんはみるみるうちに涙目になり、着物の袖で鼻を覆った。

「ず、ずっと我慢していましたが……とても殿方の高貴な匂いとは思えませんわ……っ。なんというか、その、すえた匂いがキツくて、わたくし倒れそうでございます……っ!」

『出たァァァァァァァァァッッッ!!!』

 後部座席のランプの精が、飛び上がって指を差した。

『モテない男の悪しき悪習、ウワサの「風呂キャン」でありますな! 平日の社畜の脂汗とオタクの情熱が限界熟成されて、加齢臭がプンプンするぜ、ご主人様!』

「う、嘘だろ……」

 俺はタコ型の口をマヌケに開けたまま、呆然とした。

 俺がこれまでリアルな女子に全くモテなかった理由は、オタクだからとか非モテの顔面だからだけではなく、この「風呂をサボる不潔さ」も原因だったのか……!

 己の生活習慣への猛烈な大反省とショックが俺を襲った、まさに次の瞬間だった。

 ブリブリブリブリュリュリュリュッッッ!!!!!

「ふぎゃあああああああああああああああああッッッ!!!!!」

 足元にいたニホンイシガメが、俺の至近距離からの絶叫と車内の険悪な空気に恐怖したのか、俺のワークパンツのズボンの裾に滑り込み、見たこともないような大量のうんこをブチ撒けたのだ。

 イエローのハスラーの狭い車内に、硝煙の匂いと、麦飯の匂いと、俺の加齢臭、そしてカメのガチな排泄物の凄まじい異臭が完全にブレンドされ、未曾有の不穏な空気がドロドロと流れ始める。

「おいランプの精……カメ……菊乃ちゃん……。もう俺の人生、めちゃくちゃだよ……!」

 貴重な4つの願いをすべて失い、ズボンにカメのうんこを引っ掛けられた三十代サラリーマン・星野蓮。彼の明日の「国民の休日」は、竜宮城への冒険ではなく、コインランドリーへの強行輸送作戦から始まることが確定した瞬間だった。

(第9話・了)

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