最終章(第10話):満天の星空の下、不条理な戦友たちはニューギニアの空へ還る
イエローのハスラーの車内に充満する、硝煙、加齢臭、そして淡水カメのガチな排泄物の凄まじい異臭。
俺は押し寄せる強烈な吐き気と戦いながら、ラゲッジスペースから引っ張り出してきた大量のボックスティッシュを片手に、涙目でワークパンツの裾にこびりついたニホンイシガメのフンを必死に拭き取っていた。
そんな俺の哀れな姿を、助手席からじっと見つめていた等身大市松人形の菊乃ちゃんが、小さく鼻を鳴らした。
「……ふう。ご主人様のすえた匂いよりは、カメさんのそれの方が幾分かマシでございますわ」
その漆黒のガラスの瞳には、明らかな『軽蔑』と、どこか不器用な男を放っておけない母親のような『慈愛』が、複雑にブレンドされて込められていた。人形にすらそこまで言われる俺のスペックとは一体何なのだろう。
ティッシュの山をゴミ袋に押し込み、ようやく一息ついた俺は、後部座席で小さくなっているランプの精に、ふと前々から気になっていた疑問を投げかけた。
「……ところで、ランプの精。お前自身の『願い』ってのは、一体何なんだ? お前、俺の願いを叶える代わりに、自分の願いも聞いてほしいって言ってたよな」
妖精は、いつもの直立不動の軍隊調を崩し、ハスラーのシートに小さく腰掛けた。
『……私の願いでありますか。自分は遥か昔、中東のアラビアの砂漠から、あのニューギニアの地獄のジャングルへ流れ着き、おじいちゃんの源次郎一等兵に拾われて、ついには戦後、この北の大地、日本まで来ました。……私はね、今度はどこか遠くに行きたいのであります。特定の主を持たず、世界の果てを見に行く……そんな流浪の旅を、ずっと続けているのでありますよ』
妖精の口から語られた、あまりにも壮大で寂しげな本音。
俺はしばらく沈黙し、フロントガラスの向こう、夜の苫小牧港に黒い巨大な影を落としている戦時標準船を見つめた。
「……そうだったのか。なぁ、お前、あそこに浮かんでる『船』は操縦できるよな?」
妖精は一瞬だけ目を見張り、すぐにいつもの不敵なドヤ顔を作って胸を張った。
『当たり前だろ! 妖精は何でもできるのであります! 陸軍の船舶兵並みの操船技術など、お茶の子さいさいでありますよ!』
「よし。じゃあ、あの『鬼怒川丸』に、九七式炊事自動車と、このニホンイシガメを全部連れて、ここから太平洋を横断して流浪の旅に出ろよ。それが、俺からの……いや、お前への最後の餞別だ」
俺がそう告げた瞬間、後部座席のランプの精は、その小さな身体を震わせた。そして、これまでにないほど真摯な、綺麗な敬礼を俺に向かって繰り出した。
『……ありがとうございます。ご主人様。このご恩、生涯忘れないであります』
「菊乃ちゃんは、どうする?」
俺が助手席の等身大市松人形に視線を向けると、彼女は真っ赤な振袖の着物を上品に整え、迷いのない真っ直ぐな瞳で俺を見た。
「はい。わたくしも、あの船に乗りますわ。おじい様との約束の地へ、あの子たちと一緒に行くのが、わたくしの本当の役目ですから」
はっきりと言い切られてしまった。
「……そっか。やっぱり俺は、人形にすらモテないんだな」
少しだけ寂しくなって苦笑いする俺を見て、妖精が後部座席から助手席の足元へ叫んだ。
『カメよ! いざ、タイやヒラメの舞い踊る竜宮城経由、太平洋横断ルートへ出発進行であります!』
ハスラーのドアが開き、三人(?)が車外へ出る。
夜の苫小牧港の埠頭。ゴゴゴゴゴ……と、再び鬼怒川丸の古いデリックや蒸気機関が不気味に、しかし力強く駆動を始めた。九七式炊事自動車がひとりでに動き出し、鬼怒川丸のハッチの中へと吸い込まれていく。着物の裾をなびかせた菊乃ちゃんが船のタラップを登り、甲板から俺を見下ろした。
米軍のSBDドーントレスやB-17の猛爆撃を浴び、船体に無数のクレーターのような弾痕を残した満身創痍の陸軍輸送船。それは九七式炊事車と、等身大市松人形、そしてニホンイシガメをその胎内に乗せて、静かに、滑るように苫小牧港から出港していった。
船尾が埠頭から離れていくその瞬間、後部座席からマストへと飛び移ったランプの精が、夜風に乗せて、最後の、本当に最後の言葉を俺の耳元に届けた。
『……すごすごのご主人様。おじいちゃんの源次郎一等兵はね。戦後、自分が生き残ってしまった罪悪感と戦いながら、あのニューギニアのジャングルで亡くなった、たくさんの戦友たちの英霊のお墓参りを、ずっと、ずーーっとしたかったのであります。……残された最後の一個の願い、おじいちゃんのために使ってくれて、本当にありがとうございました。ご主人様、あとは現世を、お願いしますね――』
「――っ!」
胸の奥が、熱い塊で激しく締め付けられた。
おじいちゃんが戦争のことを何も語らなかった理由。それは、あまりにも重すぎる戦友たちへの想いだったのだ。俺がヤケクソで叫んだ「竜宮城(死後の世界、あるいは英霊たちの還る場所)」への願いを、妖精は優しく、おじいちゃんの本当の願いへと昇華してくれたのだ。
見送るための、別れの紙テープなんてものはどこにもなかった。
だけど俺は、月曜日の国民の休日の静かな夜、満天の星空が広がる苫小牧の海をゆっくりと進む、ボロボロの輸送船の船尾を、ずっと、ずっと見つめていた。
ズボンにカメのうんこをつけられたままの、三十代前半の、モテない独身オタクサラリーマンは、冷たい夜風の中で、その船影が水平線の彼方へ消えて完全に見えなくなるまで、何度も、何度も、ちぎれるほどに手を振り続けるのだった。
遠い南の空で待つ、おじいちゃんの戦友たちの元へ、彼らの補給が届くことを祈りながら。
(第一章・不条理戦線、ここに完結)




