第8話:現実逃避で竜宮城を目指したら、最後の願いが亀に化けた件
十月の苫小牧港の夜は、文字通り急速に冷え込んできた。北海道の秋の夜風は、限界サラリーマンの冷え切った心と左頬のビンタの痕に容赦なく突き刺さる。
俺たちはさすがに寒さに耐えかねて、二ストローク空冷ガソリンエンジンの音を響かせていた九七式炊事自動車の機関を停止させ、三人(?)で黄色のハスラーの車内へと避難した。
エアコンのスイッチを入れ、車内に温風が行き渡ると、さっきまでコンクリートの上で泣き崩れていた等身大市松人形の菊乃ちゃんが、ホッとしたように小さな肩をすくめた。
「暖かいですわ、ご主人様。この乗り物はまるで南国のようでございますね」
現金なもので、車内が暖まると菊乃ちゃんの顔にいつもの上品な笑顔が戻ってきた。
だが、俺の脳内戦線は依然として凍てついたままだ。ハスラーのフロントガラス越しに見える鬼怒川丸の黒い巨影と、静まり返った炊事車を眺めながら、俺は完全にヤケクソになって、ダッシュボードのランプの精に相談を持ちかけた。
「なぁ……もう色々と詰んでるだろ、俺の人生。いっそのこと、このまま全てを捨てて、歳を取らないネバーランドにでも行くかな……」
現実逃避もここに極まれり、である。すると、隣の助手席から菊乃ちゃんが、不思議そうに小首を傾げた。
「ねばーらんど……? 困りましたわ、わたくしおじい様から日本語しか教わっておりませんもの。外国語なんて話せませんわ」
「あ。……そういえば、俺も英検四級止まりだったわ」
異国でのサバイバルを瞬時に断念した俺は、車内の暖房で少しテンションが上がってきたのも手伝って、ポンと手を叩いた。
「そうだ! ネバーランドがダメなら、『竜宮城』はどうかな!?」
菊乃ちゃんの漆黒のガラスの瞳が、一瞬だけきらりと輝いた。
「おとぎ話の、浦島太郎のお話ですね。とても素敵ですわ、ご主人様」
「でしょう!? 竜宮城なら日本国内(?)だし言葉も通じる! それにほら、絵本によると毎日タイやヒラメが舞い踊って、美味いものもタダでたくさん食べられるらしいぞ! それに、乙姫様みたいな美人も山ほどたくさんいるはずだしな! 最高のパラダイスじゃん!」
非モテオタクの妄想が限界突破し、俺は完全に浮かれ上がっていた。
だが、俺は致命的なミスを犯していた。隣に座る菊乃ちゃんの目が、いつの間にか可愛い日本人形から、獲物を絶対に逃さない「猛禽類」の如き冷酷な眼光へと変貌していることに、俺は文字通りミリ単位も気づいていなかったのだ。
次の瞬間だった。
――バババババチィィィンッッッ!!!!
往復。そう、往復である。
ハスラーの狭い車内で、菊乃ちゃんの血のように赤い振袖の袖が美しく残像を描いたかと思うと、俺の左右の頬へ、音速を超えたレベルの強烈な往復ビンタが狂い咲いた。
「ぎゃあああああふっ!?」
あまりの衝撃に、俺の視界の中で推し地下アイドルのサイリウムが一斉に爆発した。
ランプの精が、ダッシュボードの上でやれやれと小さな頭を掻きむしる。
『……すごすごのご主人様。お前は「上野クリニック」の門を叩いて一皮剥ける前に、まずは小学生向けの健全な恋愛小説でも読んで、女性の地雷を踏まない方法を勉強した方がよろしいでありますな。目の前の婚約者を放置して他の美人に鼻の下を伸ばすとは、万死に値するであります』
「痛ってええええええ!!! 何なんだよさっきから!! 俺はただ美味いもん食べて現実逃避したいだけだろ!!」
左右の頬を真っ赤に腫らし、涙目で叫んだ俺の脳の導火線が、度重なる不条理によってついに完全にブチ切れた。
もうどうにでもなれ! 鬼怒川丸も炊事車も、このバイオレンス市松人形も、全部まとめて異世界(竜宮城)へすっ飛んでやらあ!!
俺はショルダーバッグから、お気に入りのターボライターをひったくるように掴むと、ありったけの声で車内に絶叫した。
「ああ分かったよ!! 行ってやるよ竜宮城へ!! ランプの精、これが最後の一個、四番目の願い事だッ!!! 今すぐ俺を竜宮城に案内する『亀』をここに連れて来いッッッ!!!!」
――ボフンッ!!!
本日四度目。黄色のハスラーの車内が、もはやお馴染みとなった硝煙の匂いの紫煙で完全に包まれた。
ついに、特別にオマケしてもらった貴重な4個の願いを、すべて勢いだけで消費し尽くした星野蓮。
煙がゆっくりと引いていくハスラーの車内で、俺たちの目の前に現れたのは――!?
(第8話・了)




