第7話:今後の処理を真真面目に考えていただけなのに、マザコンの冬彦さん呼ばわりでビンタされた
茜色に染まっていた苫小牧港の空は、またたく間に深い夜の帳に包まれようとしていた。
だが、俺の頭の中にある絶望的な戦況は、一向に夜明けの兆しが見えない。
「……あ、そうだ。幸い、明日の月曜日は国民の休日(三連休の最終日)だしな。仕事はお休みだから、今後のことは焦らずゆっくり考えられるな」
そう気付いた俺は、ショルダーバッグからiPhoneを取り出し、使い慣れた画面で実家の母親へ手早くメールを作成した。
――『アキアジがもう少しで釣れそうだから、このまま夜釣りもしていく。月曜日の昼頃に帰るわ』と。
三十代を過ぎて実家暮らしをしている男の、ごく一般的な、最低限の義務としての生存報告だ。
しかし、送信ボタンを押した直後、助手席の窓からそれを見ていたランプの精が、これ以上ないほどに哀れみの色を乗せて、大きく目を丸くした。
『やれやれ……。典型的で、依存的で、かつ狂信的な超マザコンなのでありますな、ご主人様』
「……へ?」
俺の口から、マヌケな声が漏れた。
見れば、それまでしとやかに控えていた等身大市松人形の菊乃ちゃんまでもが、信じられないものを見るような目で呆然と立ち尽くし、着物の袖の上から両手で頭を抱えている。
「え? いや、ちょっと待て。外泊するんだから親に連絡するのって普通じゃん!」
俺が必死に弁明すると、ランプの精はフッと冷たい鼻笑いを漏らし、小さな首を左右に振った。
『いいえ、二一世紀の「パラサイトシングル」の典型例であります。だからお前は、いつまで経っても童貞・包茎・早漏の三重苦なのでありますよ』
「言い過ぎだろォォォォォォッッッ!!! あと早漏はまだ試してねえから分からんだろッ!!!」
港の夜風の冷たさをかき消すように、俺は顔を真っ赤にして叫んだ。だが、追い打ちをかけるように、赤面のままの菊乃ちゃんが、はっきりと、しかし軽蔑の混ざった声で言い放った。
「信じられませんわ……。ご主人様、星野家の正当なるお世継ぎ様を望まれるお気は、本当にありますの……?」
「こんな時に、お前ら揃って何を言ってるんだよ!!」
俺は頭から吹き出してくる滝のような嫌な汗を、イエローのハスラーの車体に擦り付けそうになりながら、ヨレヨレの服の袖で必死に拭った。
「俺はな! 今、この目の前にある巨大な鬼怒川丸と九七式炊事自動車の、今後の【処理】を真剣に考えているんだよ!!」
ミリタリー兵器の隠滅、という意味での「処理」だった。
だが、その不穏な単語を耳にした瞬間、菊乃ちゃんのガラスの瞳に、みるみるうちに大粒の涙が溜まっていった。
「……しょ、処理だなんて……。わたくしのことを『処理』だなんて、ひどい、あんまりですわ……っ!」
「あ、違う! 人形としての処分とかじゃなくて――」
『はぁーあ』
俺の言葉を遮るように、ランプの精が盛大なため息とともに頭を激しく左右に振った。
『乙女心も全く理解しようとしない、超・超マザコン。だからお前は、童貞・包茎・早漏・短小の四冠王なのでありますよ、冬彦さん』
「うるさいんだよ、さっきからッ!!! 誰が冬彦さんだ! 木馬に乗らせるな! あとサラッと短小を追加するんじゃねえッ!!」
俺が血管をブチ切れさせて妖精に怒鳴り散らした、その瞬間だった。
――バチンッッッ!!!!
凄まじい衝撃と乾いた音が、夜の埠頭に響き渡った。
俺の左頬に、等身大市松人形――菊乃ちゃんの、胡粉塗りの硬く冷ややかな、しかし怨念の如きパワーがこもった手首のスナップによるビンタが、完璧な角度で炸裂したのだ。
「ご主人様の薄情者ーーーッ!!」
激しい愤怒の表情を浮かべた菊乃ちゃんは、そのまま真っ赤な着物の袖に顔を埋め、コンクリートの上に崩れ落ちてワンワンと泣き出してしまった。
「う、嘘だろ……」
ヒリヒリと痛む左頬を押さえながら、俺はハスラーのバンパーの横で立ち尽くした。
黒い海に浮かぶ鬼怒川丸。蒸気を吐き続ける炊事車。ダッシュボードで俺を「冬彦さん」と呼ぶポンコツ妖精。そして、俺の足元で激しく泣き崩れている和風ホラー美少女。
俺はただ、夜空を見上げて呟くしかなかった。
「……なんだよこれ、一体どうすりゃいいんだよ……」
最後の願いは、残り1個。星野蓮の不条理な夜釣り戦線は、ついに最悪の家庭内(?)不和へと突入するのだった。
(第7話・了)




