第6話:夕日の苫小牧港で、おじいちゃんの「生き残るための不条理」を知る
初夜がどうのという菊乃ちゃんのウルトラ爆弾発言に脳内がショートし、苫小牧港のコンクリートに派手に尻餅をついた俺だったが、九七式炊事自動車が炊き上げた最高級のイクラ醤油漬けと焼き鮭の美味さの前には、すべてのパニックが一旦どうでもよくなっていた。
人間、満腹になると不思議と冷静になるものだ。
俺はアウトドアチェアーに深く腰掛け、本日二本目となるセブンスターにターボライターで火をつけた。紫煙をゆっくりとくゆらせ、夕暮れが近づきつつある港の冷たい潮風を肌に感じながら、ハスラーのダッシュボードでふんぞり返っているランプの精に、ふと疑問を投げかけた。
「……なぁ、ランプの精。おじいちゃんは、現地で一体どんな兵隊だったんだ?」
生前、家族には一切の戦争話を墓場まで持っていくかの如く秘匿し続けた、元陸軍一等兵・星野源次郎。地獄のニューギニア戦線から生還し、戦後は国鉄の車掌として実直に生きたおじいちゃん。ランプの精の口から語られるのは、きっと教科書には載っていない、一人の若き日本軍兵士の、熱く切ない愛国心に満ちた英雄譚なのだろう。
俺の目は、まだ見ぬおじいちゃんの勇姿への期待で、爛々と輝いていた。
ランプの精は、小さな腕を組んで、深く、しみじみと頷いた。
『源次郎一等兵でありますか……。それはそれは、実に素晴らしいお人で充ち満ちていたでありますよ、すごすごのご主人様』
「えっ!? やっぱりそうか! どんな風に立派だったんだ?」
俺が身を乗り出すと、妖精は淡々と事実を羅列し始めた。
『上官を見かければ一瞬で満面の笑みを浮かべて胡麻をすり、おべっかを使う。その代わり、自分より後に戦地へ放り込まれてきた新兵に対しては、隙あらば往復ビンタに鉄拳制裁の嵐。毎日のように軍規違反の酒を飯盒の蓋で煽り、物陰に隠れては仲間と花札の賭け事に興じておりましたな』
「……は?」
俺の脳内で、美化されかけていたおじいちゃんの背中に、急激に不穏な暗雲が立ち込め始める。妖精の暴露はノンストップで続いた。
『兵隊専用の慰安所では飽き足らず、憲兵の目を盗んでは将校専用の高級な慰安所にも忍び込んでおりました。さらに、夜陰に乗じては部隊の食料貯蔵庫に不法侵入し、貴重なタバコや糧秣を「銀蝿」――いわゆる横領して私物化する。陸軍の物だけでは足りず、仲の悪さで有名な海軍の補給品まで鮮やかにかっぱらっておりましたね。挙句の果てには、軍法で禁止されていた米軍の廃棄品――肉がぎっしり詰まったあっちの缶詰などを、美味い美味いと平気で盗み食いしておりました』
妖精は一度言葉を切り、哀れみの目で俺を見た。
『一言で要約するならば、基本的に自分にはトコトン甘く、上官には犬のように付き従い、下の人間には死ぬほど厳しい、実に俗物で不条理極まりないダメ人間でありましたな!』
「………………」
俺は、吸いかけのセブンスターを再びマヌケに口から落としそうになりながら、空いた口が塞がらなかった。
あまりのショックと裏切りに、俺は立ち上がって大声を張り上げた。
「嘘だろォォォォォォォッッッ!? 全然ダメ人間じゃねえかッ! どこが素晴らしいお人だよ! 完全に軍隊の寄生虫だよ!!」
俺の魂の叫びに、それまでおしとやかに控えていた等身大市松人形の菊乃ちゃんが、着物の袖を口元に当てて「ほほほ……」と鈴を転がすように上品に笑った。
「だからこそ、おじい様はあの激戦地から生きて内地へ帰ることができたのですわ、ご主人様」
「え……?」
「綺麗事や、軍人精神とやらを真面目に守っていたお方は、みなジャングルの藻屑か病床の塵となりました。おじい様のように、泥棒と言われようが、ずる賢かろうが、上に取り入ろうが、『何が何でも生きて日本の土を踏む』という強い執念とエゴを持った方だけが、地獄の不条理を生き抜けたのです。これこそが、極限状態にある人間の、もっとも正しい心理ですわ」
菊乃ちゃんのガラスの瞳が、夕日を浴びて一瞬、本物の人間のようになりたいという強い光を宿したように見えた。
「…………」
俺はチェアーに深く座り直したまま、呆然としてしまった。
ダメ人間。だけど、生きて俺の父親を、そして俺という存在をこの世に繋いでくれた、最強のサバイバー。それが、星野源次郎という男の、本物のディテールだったのだ。
気がつけば、苫小牧港の海が、燃えるような茜色に染まっていた。
ハスラーの黄色いボディを赤く染める夕日が、俺の目に妙に眩しかった。
目の前に佇む巨大な鬼怒川丸のシルエットと、九七式炊事自動車の煤煙。そして、俺の隣で微笑む市松人形の菊乃ちゃん。
残された最後の願いは、あと一個。
おじいちゃんの「泥臭い生き様」を知った俺は、この不条理な戦線を、現代のサラリーマンとしてどう生き抜いてやろうかと、夕日に向かって静かに覚悟を決めるのだった。
(第6話・了)




