第5話 The Happy Home 「楽しい我が家」
ギヨのアジトでのお話しになります
歴史上最強のエルフの戦士、ツァンラン・ゼシル・ヴォルケイン。
その苛烈な生き様は到底現代の枠に収まるものではなく、彼はおよそ百八十年もの歳月を地下の監獄で費やしてきた。無論、そのすべてを大人しく鎖に繋がれて過ごしたわけではない。
最初の百年余りは、幾度となく鉄格子を破り、外の世界へ牙を剥いた。その度に人間たちは血眼になって彼を追い、秘密裏に捕らえては重い檻へと押し戻す。そんな血生臭いいたちごっこが果てしなく続いた。
その闘争がふつりと途絶えたのは、約60年前。
理由は1つ。宿敵ルシエルの死を耳にしてからだ。討ち果たすべき標的、すなわち外の世界へ出る理由そのものを失った蒼狼は、自ら牙を収め、砂漠の地底でただ静かに死と同義の時間をやり過ごすようになった。
だが。突如現れた毒虫のような女が、死んだはずの悪鬼の生存を告げた。
あいつが生きている可能性があるならば、何に代えてもこの手で確実に息の根を止めねばならない。
再び灯った戦士としての使命と渇望。狂瀾怒濤の脱獄劇の末 何十年ぶりかの自由。
今、頭上には青空。肌を叩く風。地平の果てまで続くアスファルト。180年のあいだに、世界はすっかり見知らぬ姿へと成り果てていた。
無限に広がる空間。かつて戦場を駆け抜けた伝説の戦士が、久方ぶりに手にした大いなる自由を前にして、最初に感じた感想は・・・安物のサスペンションがブニャンブニャンと気の抜けた音をたてて揺れ続ける、耐え難い不快感だった。
「…………なんだこの車は」
身長210センチを超える巨体が、急場で調達された小型ハッチバックの助手席に、無理矢理折り畳まれていた。
当初の黒いセダンは刑務所からの追跡を断ち切るため、祭りの喧騒へ紛れ込んだ末に燃えている。代わりにギヨが手配できたのが、この不快な狭い車、ツードアの小型ハッチバック。街中を走るには便利なのだろう。
筋肉が満ち満ちた大男が利用することは想定されていない。助手席を限界まで後ろへ下げても膝はダッシュボードへ当たり、背を伸ばせば頭が天井につかえる。結局、巨大な身体を斜めに折り畳み、首を横にかしげ、長い道中を耐えることになった。
運転席にも巨躯の大女、大げさなくらいの猫背で小さなハンドルを握っている。
「……他になかったのか」
「なかったのよ」
ギヨは前を見たまま、素っ気なく答えた。
『ドクター・ギヨ 良い知らせです。計画通り監獄に貴方が居たという証拠はすべてデリートしました。現在追跡の可能性は限り無くゼロです』
不意に、ダッシュボードに置かれた通信装置から透き通った少女の声が響いた。感情の起伏が一切削ぎ落とされた、ガラス細工のような声。ツァンランは鋭く眉を寄せ、通信装置を睨みつけた。
「女。誰が話している」
「うちの優秀な『目』と『耳』よ。ご挨拶なさいな、ウェンディ」
『初めまして、対象Z-00。あるいはツァンラン・ゼシル・ヴォルケイン。あなたの骨格サイズと現在の車両容積の比率から計算して、腰椎に多大なストレスがかかっていると推測します』
「…………」
ツァンランは忌々しげに鼻を鳴らし、スピーカーから顔を背けた。
「姿も見せぬ臆病者か」
「流石に無線通信くらいは知ってるでしょう。彼女がいなきゃアンタ、今頃まだあのコンクリートの底で丸まってたわよ」
ギヨは呆れたようにため息をついた。
「まあいいわ。ルシエルを見つけるための重要なブレインよ。あのクソガキが残した痕跡をデジタルの海から拾い上げることができるのは、世界中探してもウェンディしかいない」
「ふん……。それで、見つけ出した後はどうするつもりだ」
ツァンランの低い声に、明確な殺意が混じる。
「決まっているでしょう」
ギヨは唇を歪め、三つの目を細めた。
「彼の異常な薬学的才能、特異な身体、そして裏社会に張り巡らせたネットワーク。すべてを私の傘下に引きずり込むのよ。そうすれば、世界の裏側は私の掌の上で踊ることになる」
「愚かだな」
ツァンランは即座に吐き捨てた。
「奴の生存を教え、檻を開けたことには感謝はしよう、奴の居場所を突き止めるまでは貴様の道案内に付き合ってやる。だが、最後は俺がこの手で息の根を止める。それだけは絶対に譲らん」
「……せっかくの金の卵を握り潰すなんて」
「金の卵? 冗談しても最悪だ あれはこの世を腐らせる病原菌だ」
狭い車内に、ヒリつくような冷たい空気が満ちた。その後もギヨが自分の正当性を何度も説明するも、平行線どころか、関係がこじれるばかりとなった。
『――前方の交差点を右折。目的地まで残り三キロです』
一触即発の空気を読まないのか、あえて無視しているのか。ウェンディの無機質なナビゲーションだけが淡々と割り込み、二人の致命的な対立を静観していた。
数時間一緒にいて分かったことが一つだけある。互いの性質は水と油で相容れない。
やがて車は都市部を抜け、緑豊かな樹木の多い住宅地へと入り込んだ。
道路から少し奥まった敷地に、石とレンガで造られた二階建ての邸宅が現れる。周囲にも似たような大きな家が点在しており、ここだけを見れば国外を飛び回る富裕層の別宅と大差はない。
鉄条網もなければ、監視塔もない。門前に武装した男も立っていない。
ツァンランには、それがかえって落ち着かなかった。殺意と監視の中で生きてきた彼にとって、この無防備な平穏はひどく居心地が悪い。
車がポーチに止まると、彼はようやく窮屈な鉄の箱から身体を外へ押し出した。
背骨を伸ばし、太い肩を回す。あちこちの関節がバキバキと低く鳴った。
そして、彼が窮屈さから解放されるように助手席のドアを無造作に押し開けた瞬間。
――ガコンッ、ガランッ!
酷使され限界を迎えていたボロ車のドアがヒンジから外れ、安物の鍋を落としたような情けない音を立てて、アスファルトの上に転がった。
ツァンランは足元に転がったドアと、ギヨの呆れた顔を交互に見比べた後、深く息を吐き捨てた。
「二度と乗らん」
「はぁ・・・・思ってたより苦労しそう」
ギヨはそれだけ言って玄関へ向かった。
家の内部も、外観と同じだった。
高価な家具は揃っている。広い厨房もある。客室も複数ある。しかし、人間が長く暮らして染みつくはずの匂いが薄い。玄関に靴は少なく、壁に家族写真もない。食卓は大きいのに、そこで誰かが毎晩食事をしているようには見えなかった。
生活に必要なものだけを、金で一式揃えた家。
リビングホールのソファには膝の上の端末へ視線を落としている一人の少女がいた。
十代後半。赤毛の癖のある毛質、小柄で薄い身体。猫耳のような突起の付いた黒いパーカーを被っている。ツァンランが入ってきても驚かず、顔を上げて2mを超える巨体を一度だけ観察すると、すぐ端末へ目を戻した。
「予定より37分遅いです」
ギヨは少女と大男を指さした。
「ウェンディ」
「ツァンラン」
紹介はそれで終わった。
互いに会釈もしない。
好かれようという意思が、双方にまるでなかった。その夜、三人が同じ場所に揃っていた時間は長くなかった。食卓の中央には、一人の人物の写真が置かれた。
白に近い髪。細い身体。
十六、七歳ほどにしか見えない、天使のような笑顔の少年。
ツァンランは、その顔を知っている。
脳裏に蘇るのは、180年前の記憶。肺を焼くような硝煙と、甘ったるい泥のように濃い阿片の煙。
一つの巨大な帝国が、薬によって内側からドロドロに腐り落ちていったあの時代の景色。
泥に塗れ、幻覚にすがりながら死んでいく無数の人間たちの屍。その凄惨な地獄のど真ん中で、少年は今と全く同じ無垢な笑みを浮かべて立っていた。人を狂わせ、国を崩壊させ、世界を底から腐らせる純粋な悪意。
この無邪気な少年の笑顔こそが、決して生かしておいてはならない邪悪そのものなのだ。
今、麻薬を取り巻く裏社会では『ピーターパン』と呼ばれる正体不明の化学者が覇権を握っているという。ギヨは、その正体がルシエルだと考えている。ウェンディもまた、同じ人物を追っている。
三人とも目の前の少年へ辿り着こうとしている。そこだけは一致していた。
だが、目的は違う。
ギヨが欲しいものは、ルシエルが作り上げた科学と組織。
世界各地で確認され始めた不可解な中毒症例。原因となる薬物は検出されず、それでも患者は異常な多幸感を示したまま身体を壊して死ぬ。何かがある。ギヨの率いる生化学チームでさえ、その薬剤の正体にはたどり着けていない。
それが許せなかった。危険だからではない、分からないからだ。分からないものを、そのままにしておけない。だからルシエルは生きたまま捕らえる。頭の中に何があるのか、何を作ったのか、誰と繋がっているのか。全部吐かせる。そしてその組織ごと乗っ取る。そうすれば、ぐっと世界は動かしやすくなる。
ツァンランにとっては、もっと単純だった。悪鬼は殺す。
因縁を、今度こそ終わらせる。そこに研究価値も、知識の保存もない。
一方、ウェンディだけは理由をほとんど語らなかった。
ピーターパンを探している。止める必要がある。彼女が明確に口にしたのは、その程度だった。
しかし、机の上に積み上がった異様な情報量を見れば、それがただの好奇心ではないことくらいは、誰の目にも明らかだった。
古い新聞。警察資料。通信記録。その中から姿の変わらない少年の断片を抽出した情報。
三人は同じ顔を見ていた。
だが、その顔の向こうに見ているものは、三人とも違っていた。
ほどなくしてギヨは資料を束ね、翌朝は早くからラボへ行くといって、服を脱ぎ散らしながらシャワーループに向かっていった。
原因不明の薬物を追うため、有機化学者や生化学者、分析化学者を集めた共同研究がすでに動いている
ウェンディもツァンランに寝室の場所を口頭で説明すると端末を抱え、地下へ降りていき姿を消した。
残されたツァンランは、誰もいなくなったリビングにしばらく立っていた。
*
翌朝。空が白み始める頃には、ツァンランはすでに目を覚ましていた。
長い収監生活で染みついた習慣でもあったが、それ以前から彼は朝が早い。
用意された客室のベッドは最高級のマットレスだったが、2mを超える巨体を横たえるにはわずかに短く、足先が外へはみ出してしまう。それでも数十年ぶりの硬くないベッドは快適だった。
家の中は静まり返っていた。
すでにギヨの姿はない。無駄に広いダイニングの食卓には、一枚の短い書き置きだけが残されていた。
『ラボへ行く。食事は適当に。家を壊さないこと』
ツァンランは最後の一行を忌々しげにしばらく見つめ、無言で紙を伏せた。
リビングの奥に目をやると厨房があった。
食料そのものは充実していた。肉、魚、卵、牛乳。新鮮な野菜と果物。米、乾麺、各種の調味料。巨大な冷蔵庫を開けると、プロの手による作り置きの料理が、栄養素ごとに小分けの密閉容器へ綺麗に並べられている。
ギヨのパトロンであるハンス・テトラクインの手配だった。週に一度、街から専属の料理人が来て数日分の料理を作り、残りの食材も使いやすいよう下ごしらえをして帰る。
家事などという概念に一切の興味を持たないギヨとウェンディでも、せめて食事だけは人間らしいものを口へ入れられるように、という合理的な配慮だった。
ツァンランは冷蔵庫から容器を一つ取り出した。蓋を開け、匂いを確かめる。
悪くはない。だが、棚へ戻した。
米がある。卵もある。トマトもあった。
鍋へ米と水を張る。火を使わずにガラス天板の上で鍋が熱くなる仕組み(IHヒーター)には少し戸惑ったが、適当なボタンを押し、湯気が上がるのを待つ間に隣で卵を溶き、トマトをくし形に切る。
フライパンに油を熱し、溶き卵を流し込んで大きくかき混ぜる。ふんわりと火が通ったところで一度取り出し、今度はトマトを炒める。果肉が崩れて赤い汁が滲み出たところに塩をひとつまみ加え、再び卵を戻して手早く絡めた。
番茄炒蛋(トマトと卵の炒め物)。
特別な料理ではない。安く、材料が少なく、誰でも作れる。だが、温かい飯にも粥にもよく合う。
ふつふつと煮える白粥が出来上がる頃には、窓の外はすっかり明るくなっていた。
しかし、誰も起きてこない。
ツァンランは一人で食べることもできた。腹は減っている。
だが、しなかった。同じ家にもう一人、起きるべき人間がいる。ならば待つ。
7時。誰も来ない。8時。料理が冷めたので、火加減を見ながら一度温め直した。
9時近くになって、ようやく地下へ続く階段から、パタパタという頼りない足音が上ってきた。
現れたウェンディは、昨夜の底知れぬハッカーとしての面影がすっかり抜け落ちていた。
赤髪はところどころ不格好に跳ね、目はまだ半分しか開いていない。ダボダボのパーカーをだらしなく引っかけ、片手には相変わらず端末を抱えている。
ふらふらとリビングまで歩いてきた彼女は、巨大な男が食卓へ真っ直ぐに座っていることに気づき、ぎょっとした顔でピタリと止まった。ツァンランも彼女を見る。
ーー数秒の沈黙。
「……何を……してるんですか」
「待っていた」
「何を?」
「お前を」
ウェンディは壁の時計を見た。それから、もう一度顔を見る。
「いつから?」
「6時頃だ」
ウェンディの眠気が少し飛んだ。
「三時間?」
「ああ」
何故、と怪訝そうに聞かれ、ツァンランは少し考えた。
「飯を食うからだ」
ウェンディには、その理屈がまったく分からなかった。
一人で食べればいい。ギヨなら間違いなくそうするし、自分もずっとそうしてきた。誰かが起きる時間に合わせてわざわざ食事を待つという習慣自体、この家には存在しない。
ツァンランには逆に、彼女の戸惑いが分からなかった。
同じ家にいる者がいるのなら、一緒に食べればいい。戦士の野営だろうと何だろうと、それが普通の営みだ。その程度の話だった。
ウェンディの赤茶色の視線が、そこで初めて食卓へ向いた。
鍋の白い粥から、ふわりと湯気が上がっている。その横には、鮮やかな黄色い卵と赤いトマトの炒め物。
「これ、あなたが作ったの?」
「ああ」
「料理、できるんですね」
「どういう意味だ」
ツァンランは向かいの椅子を引いた。
ウェンディは特に空腹ではないと言いたげだったが、漂ってくる温かい匂いに抗えず、結局ちょこんと座った。大きな手で器用に匙を使って粥を少なめによそう。番茄炒蛋を小皿に添えて差し出す。
ウェンディは匙を取り、おそるおそる一口食べた。
何も言わない。
そして、もう一口。
ツァンランも自分の器を引き寄せ、静かに食べ始めた。
二人とも、決してよく喋る性格ではない。食卓にはしばらくの間、匙が陶器へ触れる微かな音だけが続く。
いつもなら食事中であろうと絶対に手放さないはずの端末を、ウェンディはその朝だけ、テーブルの端へ裏返して伏せていた。
粥はなくなった。番茄炒蛋も綺麗に平らげられた。
食べ終えたウェンディは無言で立ち上がり、端末を胸に抱える。数歩進んだところで、彼女は立ち止まった。
振り向かないまま、小さく言った。
「……ありがと」
ひどく言い慣れていない、錆びついた礼。
ツァンランは少しだけ顔を上げた。
「そうか」
それだけだった。
ウェンディは少し歩みを進め、地下へ降りる階段の前で、もう一度立ち止まった。
「こっちに来てください」
ツァンランは呼ばれたまま、地下の部屋に繋がる階段を降りる。
そこには上の階の虚無的な空間とは全く別の世界が広がっていた。
壁面を占める複数の巨大なモニター。水冷ファンの低い唸り声を上げる解析用のサーバー群。無数の記録媒体。そして現代の機械に混じって、何百年も前の文書を複写した紙の資料までが山のように積み上がっている。床にはチョコ菓子の包装紙がいくつも落ちている、ジャンクな生活感があった。
ウェンディはキャスター付きの椅子へ座り、画面を切り替えた。
「あなたについて調べました」
ツァンランの表情がわずかに曇ったが、少女は気にせずキーボードを叩く。
英語、中国語、船舶記録、商館の日誌、行政文書、古びた新聞記事。世界各地の図書館や公文書館からデジタル化された史料の断片が、次々とモニターへモザイクのように表示されていく。
その膨大な情報の海から、彼女はいくつかの特異な記述だけを抽出していた。
砂漠の真ん中の刑務所、古い処刑場のスケッチ、様々なファイルをスワイプしていき、やがて一枚の古い文書の画像が中央のモニターに大写しになった。
1839年。広州。
ツァンランの青い目が、その年号と地名でピタリと止まった。
それまで不機嫌そうに画面を眺めていた彼の表情が、ごく僅かに、だが決定的に変わる。ウェンディはモニターの反射越しに、その変化を見逃さなかった。
「貴方はここにいましたね」
返事はなかった。しかし、その沈黙だけで十分だった。
「阿片戦争が始まる直前の、清国」
少女はそこで初めて画面から顔を上げ、椅子を回転させて巨漢の戦士と向き合った。
昨夜まで彼女にとって、この巨大なエルフはギヨが刑務所から連れてきた単なる「強力な手駒」に過ぎなかった。だが、今は違う。目の前の男は、自分がデジタルの資料の中でしか触れることのできない『歴史そのもの』を歩いてきた存在なのだ。
「ルシエル 彼もここに居たんですね 当時の話を聞かせて貰えないですか?」
「……長い話になる」
ツァンランはモニターの光を見たまま、長く、重い沈黙を落とした。
そこにあるのは、百八十年以上前に記されたただの文字データだ。だが彼の中に残っているものは、無機質な文字などではない。
ツァンランが低く唸ると、ウェンディは抱えていた端末を机の上に伏せた。
「大丈夫です 聞かせてください」
阿片戦争時代から悪さをしていたルシエルとの因縁とは? 次回もエピソードは昔話として展開予定です。感想など是非書いてくださると嬉しいです。




