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第6話 The Mermaid's Lagoon「人魚のいる入り江」

というわけで、ツァンラン過去ルシエルに出会うまでです

 1839年。清国、広東。ツァンランはゆっくりと目を閉じた。

 深く息を吸い込み、百八十年以上もの時間を遡るように、記憶の底へ意識を沈めていく。


 肌にまとわりつく湿った港の空気。大河沿いの港を埋め尽くす大小の船。

 視界を白く濁らせる煙霧。


 そして、肺の奥へいつまでもこびりつく、甘く重い阿片の臭い。


 煙に沈んだ路地裏には、泥に塗れた中毒者たちが何人も転がっていた。


「俺は、あの匂いが嫌いだ」


 ツァンランが話を記憶のベールをはがしていくと、そこに空気を読むという機能を搭載していない少女が割りこんできた。


「待ってください」


 地下室の大型モニターには、十九世紀の古地図と現代の衛星写真が重ねて表示されている。

 その地図を指さしながらウェンディがツァンランに質問をたたみかける。


「さっきから『広東』と『広州』が混ざっています」


「……ん? どうでもいいだろ」


「重要なことです」


 ウェンディは地図を拡大する。


「広東は地域全体。広州はその中の都市です。当時の欧米資料ではカントン――Cantonという呼称も使われていますが、広州を指す場合と、周辺一帯をかなり大雑把に指す場合が混在しています。記録を追う側としては正確に把握しておきたく……」


「俺たちはあの辺をまとめてカントンと呼んでいた。それが悪いか」


「う……そうですか」


 わずかに勢いを削がれながらも、ウェンディは端末へ何かを書き込んだ。


「では、あなたの証言では『広東』主要な出来事は現在の広州市周辺、としておきます」


「好きにしろ」


「年代は?」


「知るか。林則徐が来た年だ」


 カタカタとキータッチをすすめデータを揃えていく。


「1839年。林則徐の広州入りは3月と記録にあります、あなたが言っているのは、」


「阿片を片っ端から取り上げ始めた頃だ」


「なら5月末から6月頃」


「……随分細かいな」


「あなたの記憶は180年以上前であることを考慮して――」


 ツァンランの眉がわずかに動いた。


「俺の言うことが信じられないか」


「確証がなければ信じないのが私の生き方です」


 間髪を入れない返答だった。しばらく沈黙が落ちた。


 だが、ウェンディ自身は至って真面目な顔でツァンランの目を見ている。疑って楽しんでいるわけではない。ただ、正確であることを善とする。それがこの少女なりの流儀――グッド・マナーなのだろう。

 ツァンランは鼻を鳴らした。その性質そのものは、嫌いではなかった。


「……続きを話すぞ」


「お願いします」


*


「まだ俺がゼシルと名乗っていた頃の話だ」


 1839年。広東。中国屈指の大河である珠江(しゅこう)沿いに発展した、河港都市。

 台風の被害や、海賊や外国からの攻撃に備え、内陸の大河沿いに作られ発展した街。

 その河口域に広がる広州は、当時の清国でも屈指の商業都市だった。


 川面を大小の帆船が埋め、岸では荷を担いだ人足が怒号を飛ばしながら走る。油で食材を揚げる匂い。魚。泥。汗。家畜。路地へ積み上げられた生ゴミの腐臭。朝から夜まで、絶え間なく人と金が流れ続けている。外国商館には英国人や米国人をはじめとする海外の商人が集まり、その外側には中国人の商人、仲買、通訳、船頭、人足、密輸業者が群がる。


 茶や絹。そして戦争の引き金となる阿片と銀。


 表では礼儀正しく商談を交わし、裏へ回れば昨日まで組んでいた相手の荷を横取りする。正規の帳簿へ載る商品もあれば、夜の珠江を小舟に積まれて運ばれる荷もある。


 正式な戦争が始まるより前から、この土地では小さな戦争が無数に起きていた。


闘争の匂いに引き寄せられ、戦士ゼシル・ヴォルケインは広東へ流れ着いた。


 誰かに雇われたわけではない。清朝へ忠誠を誓ったわけでもない。ただ世界のどこかで争いが起きていると聞けば、自然と足がそちらへ向いた。強い者がいるかもしれない。自分の強さで何かを助けることができるかもしれない。


 そうすれば、今度こそ守れるだけの力が自分にあるのか確かめられる。


 戦場から戦場へ渡り歩くことは、生き方そのものとなっていた。広東へ来たのも、最初はその延長に過ぎなかった。


 だが、実際に街で暮らすようになったゼシルはすぐに気づいた。ここで起きていることは、自分が知る戦争とは少し違う。大半の抗争には阿片が付き纏った。


 彼は鼻が利いた。実際鼻は良い方だが、犬並というより、長い戦場経験の中で、臭いから周囲の状態を読む癖が身についていたというほうが正しい。


 血の臭いと風向きで戦況が、硝煙の濃さでどの規模の戦闘なのか知ることができた。

 平静を装う汗から、恐怖や疲労を察することさえある。


 なので広州という街がどれほど栄えていようと、何かが病んでいることだけは、すぐに分かった。どこへ行っても同じ臭いがする。それは豪商の倉庫にも。何気ない街の宿にも。川沿いの貧民街にさえ。


 甘く、重い煙……阿片(あへん) その独特の香りがそれを教えていた。


 阿片の存在は古来より知っている。その耽溺性で人を壊すことも、薬としても作用することも分かっている。だが、薬として使われた者のいくらかは、健康になっても魅了され、自ら人生を終えていく。精神性を重んじるゼシルにとっては、その存在は許しがたい、バッドマナーであった。


 其処彼処に阿片の煙漂う、病んだ街、広州。ここに来て気に入った場所があった。


 珠江の本流から少し外れた、細い水路の奥。大小の小舟が肩を寄せ合うように集まり、船と船の間へ板を渡し、その上で人々が暮らしている一角があった。


 家が水に浮いているのか、船が家になっているのか、一見しただけでは分からない。そこで暮らす子供たちは、陸の子供が路地を駆け回るのと同じ調子で船から船へ飛び移った。


 足を滑らせて川に落ちたと思いきや、数十秒後には離れた船の横から元気な笑顔で現れる。


 女たちも同じだった。裾をまとめて水へ入り、荷物を頭上へ掲げたまま船と岸を往復する。


 それを初めて見たゼシルは、隣にいた船頭へ聞いた。


「あれは何だ」


「外国人はあそこをマーメイド・ラグーンなんて呼んでるヤツもいる」


「人魚か」


「たしかに、そうかもな、女も子供も、陸を歩くより泳いでる方が速いからな」


 人魚のいる入り江というと聞こえは良いが、実際は濁った水に古い船、日に焼けた痩せた人間達が身を寄せ合って暮らす水上の貧民街。

 西へ傾いた陽が水面を金色に染めると、子供たちはそこへ次々と飛び込み、声を上げて笑った。

 そこは阿片の匂いがせず、生活の匂いが濃かった。


 ゼシルはその場所が好きになり、ひとまずの拠点をその入り江の近くの宿に決めた。

 最初は見慣れない恐ろしい姿に人々は怯えの色を隠せずに近寄ろうとしなかったが、次第に心を通わせるようになった。


 彼が入り江にいると、それだけで用心棒の役目を果たすこともあり、気がつけば交流も増え、言葉を交わしているうちに心を通わせるようにもなった。気づけば同じ鍋をつつき、食事を共にすることも多くなっていた。


 そんな暮らしを半年ほど続けていた。

 ゼシルは、自分でも気づかないうちに人魚の入り江へ馴染んでいた。


 朝になれば荷下ろしを手伝い、壊れた船を持ち上げて修理を助ける。夜になれば、知らない顔の男が入り江をうろついているだけで声を掛けた。


 二メートルを超える耳の尖った異形の大男が無言で立っている。それだけで、大抵の揉め事は起こる前に終わった。


 最初は彼を見るなり逃げていた子供たちも、今では平気で足元を走り回る。夕飯時になると、誰かが当然のように大きな椀を一つ余計に用意した。


 乱暴に「食え」と言って椀を渡してくる不器用な女の計らいだ。毎日のように船荷を上げ下ろししているせいで腰を悪くしていたが、それでも朝から晩まで働き、十数人分の食事を作るような女だった。

 その女には15歳になる娘がおり翠(ツイ)と呼ばれていた。


 誰よりも泳ぐのがうまく、商船の間を飛び回って文や荷を防水性の竹の容器に入れ運び小銭を稼いでいる。


 入り江に住む若い船頭もゼシルに懐いていた。

 ゼシルへ広東の言葉を教えようとして、発音が変だと腹を抱えて笑う男だった。このあたりで一番長く水に潜れると豪語していた。


 老いた船乗りは、毎晩のように酒を勧めてくる。夜になるといつしか、皆が集まり酒を飲み、貧しいながらも語らい合った。しかし誰も、ゼシルが何者なのか詳しく聞かなかった。


 ゼシルも話さなかった。それでよかった。遠い昔。山の中にも、こんな場所があったこと。


 朝になれば誰かが起き、畑へ行き、子供が騒ぎ、夕方になれば同じ火を囲む。守ろうとして、守れなかった場所があったこと。


 だからこそ、ここにいる間くらいは守りたいと思った。言葉にはしなかったが、実際そうしていた。


 そんなゼシルに、いつしか妙な呼び名がついた。


 名付けたのは、入り江で一番長く潜れると豪語していた若い船頭だった。


「ゼシル……ヴォ……なんだっけ」


「ゼシル・ヴォルケインだ」


「長い」


「お前が覚えられんだけだ」


「それに発音しづらいんだよ」


 男は笑いながら、ゼシルの姿を上から下まで眺めた。


 二メートルを優に超える身体。青みを帯びた銀灰色の長髪。夜になると一人で入り江の周りを歩き、不審な人間がいれば追い払う。身長差がありすぎるため、多くの人と話すときはわざとらしいくらいに猫背に身を丸め屈む。


「お前、狼みたいだよな」


「狼?」


「いつも一人でうろついてるだろ。それに髪も青っぽい」


 船板の上へしゃがみ込み、指先で水をつける。


 そして二文字を書いた。


『蒼狼』


「なんだこれは」


「蒼い狼。ツァンラン。お前の名前だ」


「俺にはゼシルという名前が」


「言いにくいから却下」


「勝手に決めるな」


「もうこれから俺が呼ぶ」


「聞いているのか」


その日の夕方には子供たちまで新しい呼び名を使い始めた。


「蒼狼(ツァンラン)!」


「蒼狼、こっち持って!」


「蒼狼! 魚取って!」


「俺の名は……」


 訂正しても誰も聞かない。若い船頭は腹を抱えて笑った。


「諦めろ。もう決まった」


 ゼシルは不機嫌そうに鼻を鳴らした。だが、家族に迎え入れられたような、なんともいえない歯がゆさが心地よかった。


*


 ある朝。


 荷下ろしを手伝うため宿を出たゼシルの目の前で、翠(ツイ)が小さな包みを落とした。それは油紙を菱形に折ったものだった。


「待て」


 少女が振り返る。


「何?」


「落としたぞ」


 ゼシルが拾う。妙に軽い。


「これは何だ」


「知らないよ 運べって言われただけ」


「誰に」


 翠は一瞬だけ迷った。


「白い髪の子」


 ゼシルの目が細くなる。


「子供か?」


「ん……たぶん」


 少女は首を傾げた。


「でも変な子。薬のことばっかり話す」


 ゼシルは油紙を開いた。阿片ではないかと心配したが、純白の粉のような砂糖にも似た、真っ白な細かな結晶が入っていた。


「これをどこへ運ぶ」


「下流の、赤い提灯がいっぱい下がってる水路」


「妓船(ぎせん)が集まってるところだ 子供が行くような場所じゃない」


「仕事だもん……で、これを使った人がどうなったか、聞いてこいって言われてる」


「誰にだ?」


「だから、白い髪の子」


 ゼシルはしばらく粉を見つめた。


「これは俺が預かる」


「でも届けないとお金もらえない……」


「いくらだ」


 翠が答える。ゼシルはそれ以上の銭を渡した。


「今日は働いたことにしておけ」


「いいの?」


「ああ。ただし同じ荷物を頼まれたら俺に知らせろ」


「これ、悪い薬?」


「分からん」


「分からないのに?」


「……調べてみる」


 翠は納得したのかしていないのか、曖昧な顔で頷いた。


*


 翠から買い取った白い粉を、顔なじみの薬屋へ持ち込んだ。

薬屋の老人は結晶を油紙を丁寧に開けると注意深く観察してから言った。


「阿片ではないな」


「では何だ?」


「わからんよ、娘は何も言ってなかったのか?」


「白い髪の子供に、この薬を阿片中毒で転がってる連中に渡してこい、そして効き目を報告しろ、そう命じられていたらしい」


「なんだろうか、阿片の治療薬か、はたまたモルヒネか・・・」


「もるひね?」


「阿片から取れる成分の一つだ。西洋では薬として使われ始めている、阿片中毒を紛らす効果もあるらしい」


「阿片を、さらに薬にしたのか」


「乱暴に言えばな」


 老人はもう一度、紙の上の結晶を光へ透かした。


「しかし妙だ」


「何がだ」


「綺麗すぎる」


「それはどういう意味だ」


 薬師は苦笑した。


「余計なものが少ない。普通は少し灰色か、黄色みがかかっている。結晶の揃い方も異様だ。作るだけならできる者はいるだろうが、ここまで丁寧に精製された薬は、他の薬でもそうそう見ない」


「腕の良い薬師なのか」


「良いという言葉では済まんかもしれん」


 老人は粉を包み直した。


「人に使うためだけなら、ここまでやる必要がない ましてやタダで配っているとしたら、大層な慈善家か……或いは……」


「なんだ?」


「いや、憶測で物を言うのは止しとこう」


 その言葉だけが、妙に引っ掛かった。


*


 油紙に菱形に包まれた妙な薬。最初は水上遊郭に娘が運んでいただけだった。


 しかし、それは瞬く間に、人魚の入り江にも広がり始めた。

 それは阿片とは異なり良い薬に見えた。人魚の入り江で暮らす人々は、誰もが身体のどこかを傷めていたので薬は重宝された。


 彼らは一日中櫂を漕ぐ、重い荷を背負う。濡れた板の上で働く。医者にかかる金などない。


 だから少量で痛みを消してしまう白い薬は、瞬く間に歓迎された。

 そして、薬の効果の報告と引き換えに、新しい薬がもらえる。そんな簡単な仕組み故に、瞬く間に誰もがどこからともなく持ってくる、そんな存在となっていった。

 

 最初は半信半疑だった翠の母親も使った。すると長年苦しんでいた腰の痛みが嘘のように消えた。痛くて寝返りができないとは言っていたのに、その日は何年ぶりかに熟睡できたらしい。次の日には薬を絶賛していた。


「見てよ、蒼狼」


 翠が嬉しそうに笑った。


「母さん、今日は普通に歩けるんだ」


 母親も機嫌が良かった。


「こんなに楽なのは何年ぶりかねえ」


 そう言って大鍋を持ち上げた。ゼシルは笑わなかった。


「その薬は使うな」


「何でさ」


「気に入らん」


「なんだいあんた、薬師でもないくせに 考えすぎだよ」


 母親は元気いっぱいに笑った。そして若い船頭も使った。

 荷を落として肩を傷めた翌日も薬を使うと腕が上がるようになった。


「すげえぞ、これ」


 男は肩を回して見せた。


「昨日までここまでしか上がらなかったのに」


「やめておけ」


「お前、薬なんか怖がるのか?」


「そうではない」


「じゃあ何だよ」


 説明できなかった。ただ、何かが壊れ始めている、そんな漠然とした不安を感じていた。


*


「余ってないかい」


 一週間ほどして、翠の母親が薬を探し始めた。最初は、それだけだった。腰が痛い。昨日働きすぎた。理由はいくらでも増えていった。薬を使えば楽になる。薬が切れると身体中が痛むようになっていった。


 白い薬の供給量は明らかに減っていた。それは利用者が増えたのか、使用量が増えたのかは定かではない。その両方かもしれない。


 汗が出る。眠れない。苛立つようになる。しかし薬を使えばたちまち治る。


 若い船頭も同じだった。仕事へ出る前に使い、帰ってからまた使う。


 ゼシルが取り上げると笑った。


「分かったって……もう使わねえよ、なんかヤバいのは分かってきたよ」


 しかし、言葉とは裏腹に翌日には別の包みを持っていた。


「どこで手に入れた」


「い、いいだろ、別に」


「使うなと言った」


「お前は俺の親父かよ、蒼狼」


 そう言って笑ったが目は笑っていなかった。


*


 二週間後。人魚の入り江から、笑い声が消えた。


 日が傾けば、子供や若者が次々と川へ飛び込んでいたが、めっきり少なくなった。


 働き手が昼まで眠っている。船の修理が途中で放置されている。破れた網がそのまま積まれている。

 船の甲板で女が横になって空を見上げている。


 暫くすると仕事に使う道具が消えた。金がなくなったからだ。薬はいつしかゴロツキが仲介するようになり、金で取引されるようになったからだ。


 こうして手に入れた薬は家族同士でも包みを隠しあった。そして探して見つければ盗んだ。貧しいながらも身を寄せ合って、協力する生活の営みは白い薬のせいで誰もが疑い合う世界になってしまった。


 ゼシルは見つけるたびに薬を取り上げた。


 売人を追い払った。追い払ってもどこからともなくやってくるので、夜は入り江の入口に立った。


 すると怪しい小舟が売りに来た。怪力で船を壊し売人を川面に投げつけた。


 それでも入ってくる。魚籠の底。食料の袋。子供の懐。


 一本の水路を塞いでも、別の水路がある。


 売人を一人追い払えば、翌日には違う男がやって来た。


 ゼシルは強かった。しかし得体の知れないちっぽけな白い薬はそれを掻い潜りどんどん入り込んできた。


*


 数日だけ、入り江を離れた。食っていくためには、ゼシルも金を稼がなければならない。傭兵仕事を一つ片づけ、入り江への帰路……桟橋へ足を掛けたところで、見覚えのある少女を見つけた。


「……翠(ツイ)?」


 名前を確認したのは、他でもなく雰囲気が変わっていたからだ。

 髪は結い直され、以前なら着るはずもない派手な衣をまとっている。頬には慣れない白粉。唇には紅。


 十五歳の少女には似合わない。似合ってはいけない格好だった。


 翠は立ち止まった。


「……蒼狼(ツァンラン)」


 その呼び方だけは以前と同じだった。


「その格好は何だ」


 少女は答えなかった。ゼシルは背後を見た。川下には赤い提灯を幾つも吊した花舫(かぼう)が浮かんでいる。これは水上の遊郭だ。


「誰に売られた」


「売られてない」


「では何だ」


「自分……で決めた」


 翠は目を逸らした。


「母さんが薬ないと駄目だから 客を取れば、お金もらえる。薬で払ってくれる人もいる」


「やめろ」


「無理だよ」


「その薬が母親を駄目にしている」


「知ってるよ! じゃあどうすればいいの!」


 少女の声が水面へ響いた。


「昨日も母さん、一晩中痛いって泣いてた! 汗だらけで震えて、壁に頭ぶつけて、それでも薬くれって!」


「薬をやれば、もっと悪くなる」


「じゃあ今の痛いのはどうするの!」


 答えられなかった。ゼシルは戦い方なら知っていた。どういった傷が命を奪うのか、どうすれば延命できるのか。包囲から抜ける方法も、敵の数が多い時にどこから崩せばいいかも。


 目の前の十五歳の少女に、その知恵は通用しなかった。


 遠ざかっていく小さな背中を、ただ黙って見送ることしかできなかった。

いかに巨大な敵を打ち倒す術を知っていようと、この小さく白い粉一つ砕くことはできない。守りたかった場所は、またしても音を立てずに崩れ落ちていく。


 次の日。若い船頭が死んだ。


 朝。水面に人が浮いていると子供が叫んだ。船縁から飛び込み水中で身体を抱える。すぐに分かった。

 入り江で一番長く潜れ誰より泳ぎが得意だと笑っていた、自分に新しい名をつけた男。


「おい」


 岸へ引き上げ声をかけるが反応はない。


「起きろ」


 身体はまだ冷え切っていなかった。


 胸を押す。呼吸を戻そうとするも無駄だった。近くに、濡れた油紙が浮いていた。

 

「ツァンラン(蒼狼)」


 そう呼んでいた声が耳に残っている。


 その日は誰も泳がなかった。人魚の入り江は、ひどく静かになった。


 血が滲むほど噛み締めた奥歯の奥で、戦士の誇りが声なき慟哭を上げていた。剣も銃も交えないまま、彼は完全な敗北を感じていた。


 ゼシルは白い薬の出所を追った。

末端の売人を水路の暗がりへ引きずり込み、次々と暴力的に尋問した。しかし、吐き出す言葉はどれも同じだったが、最後に締め上げた男は少し違った。


「白い髪の薬屋はどこだ」


「知らねえ! 本当だ、向こうから小舟で来るんだ! いつも現れる場所が違う!」


「知っていることを全部話せ。何のために薬を配っている」


「そんなの俺が知らねえよ」


「何かあるはずだ 何でもいい思い出せ」


底冷えのする低い声だった。ゼシルは男の胸ぐらを掴む手に、じわじわと力を込める。


「そ、そうだ、客の記録を教えると、安くしてくれる」


気管が潰れる寸前で、男が顔を紫色にして喘いだ。


「つ、使った奴がどうなったか……教えた時だ。効くまでどれくらいだったか。吐いたか。眠ったか。気分はどうだったか。もう一度欲しがったか……死んだかどうか」


「死んだと伝えたことはあるか」


「あるよ」


「何と言った?」


「……お、面白い……って」


ミシッ、と。男を握りしめていたゼシルの拳に力が入る。

ようやく分かった、白い薬は金のために作られていない。


人魚の入り江は、阿片の利権や収益のために蝕まれたわけではない。ただ、観察するためだけに使われたのだ。静かに身を寄せ合って暮らしていた人間たちを、誰かが新しい薬の実験動物として観察記録をとった。


 自分が名前を覚えた者たち。一緒に同じ鍋をつついた者たち。自分のことを見上げて、変な名前だと腹を抱えて笑った者たち。彼らは人間としてすら扱われていなかった。ただ薬の効力を測るための道具として消費された。


得体の知れないドス黒い好奇心のために。


 冷たい刃で内臓をかき回されるような怒りが、ゼシルの全身をどす黒く塗りつぶしていく。


 このドス黒い好奇心の主、白髪の薬屋を探し出さねばならない。

 だが、調査はすぐに行き詰まった。


 それ以上どれだけ売人を痛めつけ、暗がりで脅し上げようとも、「白髪の薬屋」の正体や居所に繋がる情報は出なかった。末端の売人たちもまた、蜘蛛の巣の端で踊らされているだけの使い捨ての駒に過ぎなかった。


ゼシルは再び、あの顔なじみの薬屋を訪ねた。

老人は預かっていた白い結晶を前に、深く、ひどく重い溜息をついた。


「……信じられんものだった」

「何が分かった」

「あの薬は、阿片から抽出される『モルヒネ』の十分の一の量で、同等の効果を叩き出す。それも痛みを消すだけじゃない。頭の中まで完全に焼き尽くす」


老人は忌々しそうに粉を紙で包み隠した。


「どれほど腕の良い薬師が精製しようと、ここまでの劇薬にはならん。これは阿片でも、阿片を濃縮したものでもない。まったく別の、未知の毒薬だ」


 得体の知れない新種の毒。それを作った白髪の子供。個人の力で広大な広州の水路をしらみ潰しに探すには限界があった。ゼシルはより巨大な情報網に食い込むため、探し続けた。


 この頃、広州には林則徐(りんそくじょ)という高官が派遣され、大規模な阿片の没収と摘発を強行していた。表向きの軍や役人だけでなく、裏の阿片窟を潰すための非正規の民兵団までもが暗躍し始めていた。

ゼシルはその民兵団に潜り込んだ。


 清国の正義に別に興味はない。ただ、密輸の摘発に血眼になっている彼らの目と耳を利用するためだ。果たして、民兵団のゴロツキたちの間でも、阿片を駆逐する勢いで裏街を侵食し始めた「白い粉」と、それを配る「白髪の薬屋」の噂はちらほらと流れていた。


それから暫くしてのことだ。

民兵団の男数人が、あからさまに色めき立っていた。どうやら独自のツテで、白髪の薬屋の拠点を突き止めたらしい。


 林則徐の配下に突き出せば莫大な報奨金が出る。あるいは、新種の薬の製法を奪い取れば一生遊んで暮らせるかもしれない、そんな欲から、ゼシルには声がかけられなかった。

 蒼狼と呼ばれる強すぎる異国人の巨漢を連れて行けば、手柄を独り占めされると考えたのだ。


 男たちは夜の闇に紛れて出撃した。

そして――翌日になっても、誰一人として戻ってこなかった。


三日が過ぎた深夜。

 土砂降りの雨の中、ゼシルの寝床にしていた宿の裏手に、一人の男が転がり込んできた。消息を絶っていた民兵の一人だった。


 男の姿は凄惨だった。目は虚ろに濁り、全身が泥と自らの汚物に塗れ、意味のないうわ言を繰り返している。外傷は体には無かった。だが、頭髪が剃られ、頭部に小さな穴がいくつも開いており、異常なほど恐怖に支配されていた。


ゼシルは男の胸ぐらを掴み、壁に押し付けた。


「どこへ行った」

「ぴぃっ……あ、あばば……」

「白髪の薬屋はどこにいる」


ゼシルは男の頬を張り飛ばし、焦点の合わない目に無理やり正気を呼び戻させた。


「あ、悪魔だ……あれは人間じゃない、人間じゃない……子供の皮を被った……化物だ……みんな、みんな喰われちまった……!」


「場所を言え」


 男はガタガタと震えながら、珠江の下流域、廃棄された外国商館の古い倉庫群の名前を吐き出した。広州の繁栄から見捨てられ、今は誰も近づかない腐臭漂う泥の沈殿地だ。そこに停泊している商船が、白髪の薬屋の根城らしい。


 男を床に投げ捨てると、ゼシルは静かに立ち上がった。

得物を手に取る。長い戦場生活を共にしてきた、血に馴染んだ重い鋼、巨漢のエルフの長い手に馴染むように作られた、大きなシックルと呼ばれる三日月に似た草刈り鎌のような刃物。


 誰かに報告する気も、援軍を待つ気もなかった。手柄も金も関係ない。

これは、人魚の入り江の静けさを奪い、彼らをモルモットのように消費した者への、戦士としての弔い合戦だった。ゼシルは降り頻る雨の中、単身で闇へ溶け込んでいった。


 噂の商船の位置はすぐに分かった。

雨の帳の向こう、近づくにつれてむせ返るような濃厚な薬品の匂いが立ちこめている。鼻の奥を刺す、酸っぱく鋭い刺激臭だ。広州の繁栄から見捨てられ、今は誰も寄り付かない腐臭漂う泥の沈殿地。そこに、周囲の廃れた景色には不釣り合いなほど豪奢な木造船が、明かりを灯して停泊していた。


 甲板には見張りの男たちが数人立っていた。

雨音に紛れ、ゼシルは闇から姿を現す。男たちが巨大な侵入者に気づき、声を上げるよりも早く一閃。ゼシルの手にある巨大なシックル(半月刀)が空気を切り裂き、刹那のうちに見張りの意識と命を刈り取る。音もなく崩れ落ちる男たちを跨ぎ、ゼシルは船の内部へと忍び込んだ。


 船内は、外観の豪奢さとは裏腹に異様な空気に満ちていた。

通路を進むと、鉄錆と薬品、そして濃密な血の匂いが混ざり合って漂ってくる。奥の部屋からは、悲鳴とも喘ぎ声ともつかない、くぐもった人間の声が断続的に漏れ聞こえていた。


廊下の片隅で、ゼシルは足を止めた。

転がっていたのは、先発した民兵団の一人だった。だが、すでに絶命している。

その死に様は凄惨を極めていた。自らの指で両目を完全にえぐり出し、血の海の中で強直している。頭髪は乱暴に剃り上げられ、頭蓋には正確な円形の穴がいくつも開けられていた。生還した男と同じだ。


 静かに死体を乗り越え、進むと半開きの分厚い扉があった。

 用途不明のガラス器具が並び、目眩のするような刺激臭のある透明な液体が様々な瓶に入れられ、そのいくつかは火にかけられていた。


「フンフンフンフン〜♪」


 ひどく機嫌のよい鼻歌が聞こえる。


 小柄な影が、椅子に縛られた男の前へ身を屈めていた。傍らの皿には細い器具が整然と並んでいる。


「はい、もう一度。この指は何本ですか?」


「……二、本」


「うん。では、こちらは?」


 男は答えなかった。目だけが落ち着きなく動き、やがて声のする方へ戻った。


「……水」


「言葉は出るね。質問の意味も分かっている」


 少年は帳面に何かを書き付けた。水を求める声がもう一度上がったが、今度は返事もなかった。


「返答がないだけで、見えないとは決められないな……」


 書いたばかりの一行に、細い線を引く。


 ゼシルは音もなく部屋へ踏み入り、その背へ問いかけた。


「そこで何をしている」


 小柄な影が振り返る。


 年の頃は十六、七。白に近いプラチナブロンドの髪。透き通るような肌。その隙間から覗く、尖った長い耳。白髪の薬屋だった。


「おや。何か御用でしょうか?」


 戸口を塞ぐ巨体を見ても、少年の声は変わらなかった。血の滴るシックルへ一度だけ目をやると、再び椅子の男へ視線を戻した。


「何をしているのか聞いている」


「研究だよ、大脳の働きを調べているんだ」


 兵士の頭髪は剃られ、巻かれた布の隙間に小さな穿孔が見えた。廊下に倒れていた男にも、生還した男にも、同じものがあった。


「右の大脳半球に手を加えてから、この人は左側に示したものに答えなくなった。片方の眼だけの話じゃないよ。片眼ずつ確かめても、同じ側なんだ」


 少年は壁に貼られた脳の図を指し、それから兵士の顔を覗き込んだ。


「そいつから離れろ」


「ああ、少し待って。今、返事をしかけたんだ」


 兵士の唇が動いていた。少年はそのかすかな声を聞き逃すまいと、顔を近づけた。


「……助けて、くれ」


「質問に答えてくださいね、指は見えますかぁ?」


 丁寧な問いかけだった。


「見えないのか。見えているのに、判断ができないのか。それとも、見えたものを答えられないのか。どうしたものか……」


 少年は困ったように首を傾げた。


「知覚も判断も意思も、大脳全体が一緒に働いて生じると考えられているけれど、この人はまだ声を聞いている。見えた指の数も言える。帰りたいという望みもある。それなのに、一方に示したものには答えられない」


 話すにつれて、声が明るくなっていく。


「何かが、ほかの働きを残したまま失われているのかもしれない」


 その笑顔には、未知のものへ手が届きかけた喜びがあった。


「ねえ、君はどう思う?」


 ようやくゼシルを見た。


「そいつの名は」


「え?」


「その男の名前を聞いている」


 少年は兵士を見た。それから帳面へ目を落とし、少し考えた。


「それは聞いてなかったなぁ」


「悪辣な遊戯はここで終わりだ。俺がお前の最後だ」


 少年は瞬きをした。言葉の意味を確かめるように、ほんの僅かに首を傾げる。


「遊戯……?」


 その呼び方だけが、不服らしかったらしく、むっとした顔をした。


「今 ちょっと分かってきたところなんだ。邪魔しないで欲しいんだけど」


 青い瞳に宿った殺意を前にしても、少年の顔から好奇心は消えなかった。


 コトンと器具を浅い金属皿へ置く。そして血の付いた手をひらひらと振った。



ルシエルはクソカスドブ外道なんですが、ずっとドブカスなのでご安心ください。7話はちょっと良い話になる予定です。感想などいただけると嬉しいので、是非ともよろしくオナシャス

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― 新着の感想 ―
ツァンランさんの過去お辛い!強くても薬が入り込んでくるのを止められなくて、どんどんおかしくなっていくのを見るしかできないのが…戦士として仲間と大切な場所を奪った者のために戦いに行くシーンがカッコよくて…
大変解像度の高い「倫理観がない」に震え上がっております。
 なるほど、ツァンランは過去にも自分の居場所を失っていたんですね、なら猶更この場所を守ろうと躍起にはなるでしょね…どう見ても、このあと血の雨降りそうですが。(いや、もう降ってたか)  ルシエルもエルフ…
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