第3話 Do You Believe in Fairies?「あなた 妖精を信じる?」
とうわけで邪悪なピータパンの影がみえてくる話です
この1年、アメリカの薬物禍は、改善している。
――政治家はそう語る。
2025年。全米で薬物の過剰摂取によって死亡した者は、推計6万9973人。
前年の8万1313人から、およそ14%減少したといえる。そのうちフェンタニルを中心とするオピオイドによる死者は4万4564人と依然として最大規模だが、最悪期には年間10万人を大きく超えていたことを考えれば、間違いなく減少へ転じ、政府が対策の成功を語るだけの数字は揃っていた。
だが。減ったといっても、年間7万人が麻薬中毒で死んでいく現実はそこにある。
そしてこの死者数は、薬物禍という巨大な病巣から最後に脱落した人間だけを数えた数字に過ぎない。
同年、アメリカで薬物使用障害を抱えていた者は約2600万人。オピオイド使用障害だけで約400万人。コカインやメタンフェタミンなどを含む中枢神経刺激薬の使用障害も約450万人。
過去1年間に何らかの違法薬物を使用した者まで広げれば7000万人近い。麻薬戦争……そう言っても過言ではない。7千万人、その一人一人に家族がいる。職場がある。
そして、その巨大な需要を食って成長する地下経済がある。死者が1万人減ったからといって、数千万人を巻き込む薬物市場が消滅したわけではない。それでも数字が改善すれば、政治は次の問題へ向かう。
事実、アメリカ保健福祉省では大規模な組織再編が始まった。8万2000人いた職員を6万2000人規模へ。28あった部門を15へと減らした。
重複する行政機能を統合し、組織を効率化する……という立て付けで構造改革は行なわれている。
だが、組織図の線を引き直す速度に、人間の仕事は追いついてはいない。
翌2026年の春。CDCでは、上級ディレクター級のポストのおよそ8割が空席になっていた時期さえあった。25ある主要センターでも、その大半で責任者が辞職、解任、退職などによって姿を消していた。夏にはようやく新しい長官が就任した。
しかし、長官を一人置けば、数千人分の経験が机から生えてくるわけではない。削った場所には仕事だけが残った。もっと奇妙なものまで生まれた。議会から予算は付いている。制度も廃止されていない。書類上は活動中。
なのに、それを動かしていた疫学者、統計家、研究員、調整担当者が現在は、ほとんど残っていない。それを執行する職員が圧倒的に居なくなっている。予算は出ているが、人員は未だ多くで不在のままだ。
薬物対策班もこの混乱から無傷でいられるはずもない。退職した人間の席は空いたまま。
数年前なら10人で処理していたデータを、今は3人で見ている。
それでも、死亡報告だけは毎週届く。そして現場に残った人間たちは知っていた。フェンタニル禍は何も終わってなどいない。次々と出てくる新型オピオイド、押収されたフェンタニルだけでアメリカ国民を10回殺せる程の量。国内にすでに入り込み市場を伺っている量を考えると気が遠くなる。
ドラッグの濫用は次の段階へ入りつつある。兆候は、すでに表れている。
近年のアメリカでは、コカインやメタンフェタミンといった中枢神経刺激薬――いわゆるアッパー系薬物の存在感が急速に増している。
2021年から2024年前半までに集計された過剰摂取死では、約59%に何らかの刺激薬が関与していた。さらに43%余りでは、刺激薬とオピオイドが同時に関与している。
沈静と興奮。呼吸抑制と覚醒。
アクセルとブレーキを同時に踏み抜くようなドラッグの濫用が珍しいものではなくなっている。
フェンタニルだけを見ていればよかった時代は、すでに終わっている。
何か、全く新しい何か、もっと危険な何かが始まっている。
*
ワシントンD.C.郊外。
複数の連邦機関が共同利用する分析施設の一室で、アレン・エーバーハルトは壁一面の地図を見上げていた。地図は全米の主要都市の地図で、それぞれカラフルなピンが無数に打たれている。
ピンの色は赤、青、黄色……そして白。
赤はダウナー系と呼ばれ主にオピオイド、青はアッパー系を指す精神賦活剤、アンフェタミンやメタンフェタミン、MDMA、カチノンなどが該当する 黄色はサイケデリックと呼ばれるいわゆる幻覚剤やその他フェネチルアミンやトリプタミンの誘導体 これらのピンは麻薬事件を示している。
そして、その隙間へ最近になって加えられた白いピンが無数に打たれている。
「6万9973人」
背後から声がした。年齢は40代、皺だらけのシャツに緩んだネクタイ、剃り残した髭。端整な顔立ちなんだろうが、不摂生と疲労の蓄積で影が落ちている。何時洗ったのかわからないような、尋常では無い量の珈琲の輪染みがついたマグカップを持った男 マーカス・ヘイル。
アメリカの公衆衛生部門から合成麻薬の合同分析班へ出向している、叩き上げの連邦職員。
「大統領が言うには”我々は”1万人以上救った。大成功だ……そうですよ」
我々と言うときに嫌そうな顔に両手の指先で強調サインをする。
「もちろん、本当に成功の部分はある。そこは勘違いしないでいただきたい。1万人が死なずに済んだ。それは素晴らしいことなんだが……」
そう言いながら部屋の隅のジャケットをどけると、そこには少し傾いた大きな会議用モニタがあった。手元のノートパソコンを繋ぎ画像を表示する。
「この地図を見てください」
年代の異なる2枚のアメリカ地図を表示した。左は2012年、右は2020年。全米3000以上の郡を、オピオイドによる死亡率で色分けしたものだった。
2012年の地図を指す。高死亡率の地域はアパラチア、中西部、南西部などに偏っていた。それが2020年には北東部、東海岸、南部、西部へと広がり、薬物による高死亡率地域が国土そのものを侵食するように広がっていることを示していた。
「十数年前なら、大きな都市には、あそこは麻薬の町だから近づくなと言われるエリアで済んでいた。今は違う。多くの普通の普通の町が、途中から自然なグラデーションで麻薬の町になっていく」
「ここ数年の惨状は、こちらにも伝わっています。イギリスでは社会危機には至っていないものの、新型フェンタニルともいえるニタゼン類が小規模ながら押収されはじめ、政府や関係機関は警戒してます」
「麻薬のせいでゴーストタウンなった……なんて陳腐な話はしたくないんだが、町が死ぬ理由なんて、景気の変化、貧富の格差、住宅問題、医療崩壊、人口流出……いくらでもあるし、なんとでも言える、ただ麻薬は人が立ち上がる気力を喰う 弱っている町に入り込めば、最後に残っていた再生力まで奪い去る」
画面がストリートビューへ切り替わった。
十数年前の地方都市。大通りには銀行、薬局、ベーカリー、ダイナー、小さな映画館。週末の歩道には家族連れが行き交い、交差点には花壇まであった。
次の写真は同じ場所だった。
銀行は閉鎖され、映画館の看板は文字が半分落ちている。ショーウインドウはベニヤ板で塞がれ、営業を続けている店は鉄格子で窓を覆っていた。放置された車、割れたガラス、路地に座り込む人間。道路に横たわっているものが眠っている人なのか、捨てられた衣類なのか、写真では判別できない。
「ここも15年前までは、ただのダウンタウンでした」
壁に広がる大きなアメリカの主要都市の地図白いピンを一つ重ねた。
「そして今、新しい波が来ている」
アレンは荒廃した町並みを黙って見つめた。
壁へ近づく。白いピンを指さす。
20歳、男性。転落死。 薬物反応なし。
その隣には、17歳、女性。交通事故死、やはり薬物反応なし。その横には24歳、男性。原因不明の心停止。薬物反応なし。
「この死亡者は、その6万9973人には入ってない」
「・・・何が言いたいのでしょう?」
「薬物反応がなければ、薬物中毒では無い 薬が出てないからです」
アレンは白いピンの群れを見た。
「未知の薬物による事故、たしか数ヶ月前はSNSなどで話題になってましたが……」
「よくご存じで、アレです。今の段階では何も証明できません」
即答だった。
「証明できないから困ってるんです」
わきに挟んでいた分厚いファイルを机に広げる。表紙には手書きの文字。
HAPPY END SYNDROME(ハッピーエンド症候群)
「貴方はこの連続怪死事件を新型薬物のせいだと考えている……そう捉えて良いのでしょうか」
「……そうだ。もし俺の勘違いなら、笑われればいいさ」
疲れた目だけが、妙に鋭い。机に広がる写真は実に凄惨な死に様の被害者の写真である。
ハッピーエンド症候群。一様に血まみれで目を見開き 頬を限界まで吊り上げ、歯を剥き出しにした、神にでもなったような尊大な笑顔をしている。大半が防犯カメラや付近で撮影をしていたスマホ映像の切り抜き画像。
もともとは、異状死を遂げた人の中に、死ぬ間際の顔が、目を見開き異常なまで口角をつり上げた不気味な笑顔をしていたという投稿に端を発している。
その後SNSには連日のように若い男が高層住宅の屋上から走り飛んでいく最中狂気じみた笑顔だっただの、笑顔で警官に襲いかかり、撃たれても一切怯まない。
筋肉が千切れ壊れても動くことをやめなかった男 自分の肉体が壊れていくことさえ楽しんでさえ見えた。異常な多幸感。破壊的な万能感。恐怖がない。痛みを恐れない。そんな状況から凄惨な死を迎える。
似たような目撃談がネットで瞬く間に広がった。いつしかハッピーエンド症候群と呼ばれるようになった。
その特徴的な死に方から最初は新種の刺激薬によるものだと思われていたが、どのような検査をしても、遺体からは該当するような成分、既存の麻薬成分や類似成分などは見つからなかった。
「これが呪いや、まじないの類いでない。集団ヒステリーとも言い難い。これがやはり本当に新しい麻薬だったら?」
ヘイルは壁の白い点を見回した。
「今はまだ死因不明で済んでる。だから政治家が見る薬物死の数字にも出ない。予算要求の根拠にもなりにくい」
「……」
「フェンタニルだって、最初から毎年10万人を殺してたわけじゃない」
その声には、怒りというより恐怖があった。本当の深淵を知っている者の恐怖。
「大流行してから本気で対策する。それをもうやる体力は正直この国には残っていない 俺はそう思ってる」
短く息を吐く。アレンはようやく男の方を見た。
「まだ誰も麻薬だと認めていないうちに、流行る前に潰したい」
机の上のファイルを指した。
「お気持ちは分かります。しかし私は残念ながら麻薬にまでそれほど明るいとは言えません。なんの意図があって一介の遺伝学者をアメリカまで呼んだのでしょうか?」
「話はそこから先なんだ、もっと変な話を聞いてもらうことになる」
ヘイルは別のファイルを持ってきた。
捜査の始まりは、ハッピーエンド症候群ではない。
もっと古い。フェンタニルの流行初期に遡る。アメリカ側ではDEAを中心に、税関、保健当局、分析部門。英国側では麻薬犯罪を扱う機関と情報部門。国境を越えて原料、製造設備、人材、資金の流れを追っていた。英米が共同でこうした捜査を行っているのはアレンも把握している。もっともアレンの裏の顔としては知らないわけではないが、今は遺伝学者として来ているので、微妙なとぼけっぷりをする。
「俺たちは麻薬を追う、そして原料を追う。原料が割れれば製造者を追う。製造者からのプロダクトを運ぶ輸送業者を追う。そして送金を追う。そして……闇の世界の研究者を追う」
「近年の薬物犯罪は麻薬に保護基を付けて密輸したり、科学知識に長けたものが増えてきましたからね」
「おー よくご存じで。その捜査過程で不思議なことがあったんで聞いて貰いたいんだ」
「不思議なこと?」
「メキシコでひとつの違法ラボを摘発した、研究資料も押収できた、彼らは思った以上にちゃんと研究している」
「たしかに不思議ではありますが、昔からそういったラボに妙な才能を持った技術者がいる」
「先生、不思議なのはそこじゃない。半年後。数千キロ離れた別の国のラボで、そこで使われていた技術が改良された状態で見つかっている」
普通なら、研究者本人が移動したと考える。だが元の研究者は刑務所にいる。技術だけが移動していた。
「見てください」
押収された端末から復元された文書が表示される。アレンは黙って読み始めた。
そこにはあらゆる実験条件が記録されている、実験の手順は合成のプラント規模ごとであったり、反応時間や温度、圧力に至るまで徹底的な観測値。そして失敗記録。
そして末尾には別の人間による批判が載っている。再現性が足りない。対照群が不適切。この方法では純度を確保できない。別地域のグループへ追試を依頼する。次のバージョンではこのメソッド自体の利益性について・・・
「……これは」
「分かりますか」
「論文に近いですね」
ただし、著者名も大学名もない。所属機関もない。学術誌もない。並んでいるのは、ハンドルネームだけ。それにもかかわらず、研究のやり方には明確な秩序がある。
「査読までしている」
「我々もそう見ました」
ヘイルは壁に別の地図を広げた。北米、メキシコ、中南米、東欧、東南アジア。
点と点の間を、蜘蛛の巣のような線が結んでいる。
「犯罪社会の中に形成された、大学も国籍も存在しない学術共同体です」
アレンの目が細くなった。
「最初、大学を追われた研究者や研究不正で職を失った化学者の吹き溜まり程度だと思っていた。だが、調べれば調べるほど、その表現では説明できなくなった」
近年、逮捕されたアンダーグラウンドラボに居た人間の中には、国際誌に何本も論文を持っていた有機化学者。一流製薬企業で創薬に携わった薬理学者もいた。高度な分析装置を自作できる技術者。材料科学者。データ解析者エトセトラエトセトラ。
大学や企業で研究チームを率いていても不思議ではない人間まで紛れ込んでいる。
「……人材の質が高すぎる」
「でしょう?」
そして、我々はこの地下の学術共同体は自然発生したものではないと判断しています。
「過去へ遡っていくと約20年前。
そこで、明確な変化が始まっている。それまで敵対していた犯罪組織の研究者同士が、技術情報だけは共有するようになった。一つのラボで失敗した研究を、別の国のグループが引き継ぐ。
高価な分析装置が融通される。研究者が別組織へ貸し出される。」
設備、原料、知識、物流、アンダーグラウンドの世界で誰かがそれらを結び始めた。
「それは誰なんですか?」
アレンは思わず知的好奇心で食い気味に聞いてしまう。ソレを見て、ヘイルはアレンの興味を引けたことに広角を少し挙げた。
「その人物は……最初は単なる技術屋だったようです」
ヘイルは初期の記録を示した。一つの犯罪組織へ技術を売る。結果を出す。信用を得る。
次に別の研究者を紹介する。さらに別の組織へ繋ぐ。敵対組織の間に立つ。結果さえ出せば、麻薬組織は金を出した。その金で設備を増やす。
そして広げた組織力で優秀な人間を集める。集めた人間にさらに成果を出させる。これを20年。
同じことを淡々と積み上げた。
「一夜で犯罪王になった天才じゃない」
アレンが資料を追いながら呟いた。
「ええ」
ヘイルが頷く。
「20年かけて成り上がった」
最初はマフィアが科学者を雇っていた。しかし、いつの間にか立場が逆転している。マフィアが金を出す。カルテルが原料を運ぶ。密輸組織が物流を提供する。
ギャングが被験者と市場を用意する。そして科学者たちは、その巨大な犯罪経済圏を研究インフラとして利用している。
「我々は2025年から26年にかけて、公衆衛生側の科学者を大量に失った」
ヘイルは皮肉そうに笑った。
「その20年間、こいつは逆に科学者を集め続けてた」
表の科学が人を失っている間。地下の科学は成熟している。そして、その邪悪の成果が世界中へ流れ出している。新しい合成麻薬。検査の回避ノウハウ、新規の合成法、全く新しい密輸手段……
「ではその影のラボキングとは誰なのですか?」
アレンが尋ねた。
ヘイルは一冊の薄いファイルを、机の中央へ置いた。表紙には一つの名前しか書かれていなかった。
PETER PAN.
「ピーターパン?」
「彼らの間で呼ばれている男です その名前は、およそ20年前から記録に出てくる。それが役職名なのか組織名なのか、それすら分からなかったが裏社会の深いところへ行くほど、その名を知る人間が増える。
そして知っている者ほど、口を閉ざす。カルテルの幹部。マフィアのボス。
闇ラボの主任研究者。そんな人間でさえ「ピーターパン」という名前には妙な畏怖を示している」
「顔写真は?」
「ありません」
アレンは顔を上げた。
「20年も活動しているのに?」
「まともなものは、一枚も」
いくつかの写真が机に散らばっているが、そのどれもが遠くに写った影であったり防犯カメラの後ろ姿や顔が潰れた低解像度映像。身元確認に使える写真はない。
「人物像の証言などはあるんでしょう」
「少ないですが、一応あります。若い白人少年」
「なんですかそれは、何もないのと変わりませんね、今は30代半ばですか」
「いえ、20年前と先月の証言です 2000年代の証言でも。2010年代でも。2026年でも」
「コードネームを代々継承している可能性……もちろん最初はそう考えました」
別の紙には犯罪組織から保護された人物の証言が記されている。
ーーピーターパン。淡い色の髪。非常に白い肌。小柄。妖精のような少年。耳が尖っている。
アレンの視線が止まる。
「ただこの証言者は薬物使用者です」
ヘイルは先回りした。
「だから1人目は無視した。ただ2人目も。でも3人目が、別の国でも耳の尖った化学の妖精と」
「それで私を?」
「正確には、英国政府へ問い合わせました」
「それで私のところへ?」
「はい」
「随分と乱暴な話ですね これでも忙しい身ではあるのですが」
「先生の知見を借りたい、手詰まりなんだ」
ヘイルは椅子へ腰を深々と落とし眉間を親指で揉み、そのままベタついた髪の毛を掻き上げる。
「ピーターパンだの妖精だの、四十を過ぎた男が真顔で話す内容じゃない しかし、この白いピンの被害者はみんなこのツラで死んでいる」
男はハッピーエンド症候群のファイルを、ピーターパンの資料の上へ重ねた。
「俺はこのピーターパンなる人物が、ハッピーエンドの薬物を作っていると考えている」
「根拠は?」
「何もない。ただの勘としか言えない。むしろ俺の妄想であってほしい。だからもし、こいつが本当にあなた方と同じ生き物なら……」
アレンを真正面から見る。
「俺たちには、あなたしかいない Dr.エーバーハルト」
一瞬だけ沈黙した。疲れ切った男が尋ねる。
「先生、あんた 妖精を信じるか?」
アレンはゆっくり証言調書を閉じた。
「妖精については存じません」
一拍。
「ですが、エルフなら実在します 今あなたの目の前にも」
ヘイルの顔が少し明るくなる。
「ただし、エルフは全員登録されて……」
そう言い切ったところで。言葉が止まった。欠けた左耳を持つ赤紫色の髪のエルフが脳裏によぎる。
90年以上、日本人として戸籍の中へ潜り込んでいた女性。世界中のエルフを把握していると思っていた自分自身が、つい3年前、その前提を完全に覆された。
「……訂正します、登録されているはずです」
アレンは机の上のピーターパンのファイルを、もう一度手に取った。
「協力してくれるんですね」
「まだ、そうは言っていません。資料を確認するのと、捜査へ参加するのは別問題です」
「来週、メキシコで摘発されたラボを確認します」
「行くとは言ってません」
「英国側にも合同捜査の申請を出します」
「ヘイルさん」
「航空券はこちらで」
「人の話を聞きなさい」
男は食い下がる。絶対に協力してもらうという意志がある。机の下から段ボール箱を引きしドン、と置いた。もう二箱積み重ねる。
「ピーターパン関連です」
「すごい量ですね……これで全部ですか」
「いいえあと7箱はあります」
ヘイルは隣の部屋を指した。
アレンは額へ手を当てた。千年近く生きてきた。
戦争も、疫病も、革命も見てきた。悪意のある人間は、まだ扱いやすい。
悪意には目的がある。止めることが難しいのは善意と使命感で前へ進み続けるタイプだ。
目の前の男は口は悪いが麻薬犯罪を心から憎んでいる正義感溢れる人間だ。しかし乱暴な仮説に自分を巻き込もうとしている。
「あなた、いつ寝てるんです?」
「この事件が解決したらぐっすりできるんだが」
アレンは深く溜息を吐いた。
「……分かりました」
ヘイルが動きを止めた。
「調べるだけです」
「十分です」
「現場へ行くとは――」
「ありがとうございます」
「最後まで聞きなさい」
疲れ切っていた男が、その日初めて嬉しそうな顔でガッツポーズをとって笑った。それを見てアレンは何も言えなくなった。
*
その夜。提供された執務室で、アレンは一人、資料を読み続けていた。20年間。何百というラボと数十の犯罪組織。そこに所属する多数の闇の研究者。
その邪悪の成果として、世界中へ流れ出した新型麻薬。それほど巨大な構造を作った人物だけが、異常なほど見えない。それなのに、この人物が現れた時期を境として、犯罪社会の科学技術だけが異様な速度で発展している。
アレンは一枚の紙を壁へ貼った。中央へ書く。
ピーターパン 有機化学者
少し考え、その下へもう一つ。
ELF?
赤いペンで記す。
「……あなたは、誰なんですか?」
この時のアレンはまだ知らない。ピーターパンと呼ばれる悪鬼の少年を、自分が殺めたと思っている女のエルフ、そしてその人物が奈落の刑務所から連れ出した男が追っているということを。
そしてこの二人のエルフをたきつけた人物の存在。
死んだマフィアのスマートフォンを1台、また1台と手に入れ、削除され、破損し、上書きされた犯罪記録の断片を執念深く掘り返しながら――執念で見つけた一枚の写真。
燃え盛る薬物更生施設を背景に、楽しそうに微笑む少年の顔にすでに辿り着いている17歳の少女がいることも。
前半部の数字はマジの数字です。アメリカやべえ。感想などいただけると嬉しいです。次回はようやくピーターパン本人の回となるはずです。




