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多文化共生の解剖

〔分類:⑥ 多文化共生・⑧ 国家観〕

これまで私は、本書を通して一つの問いを繰り返してきた。


文明を維持するコストを、誰が、どのような責任のもとで引き受けるのか。


国家について考えるときも、防衛について考えるときも、この問いを避けて通ることはできなかった。


同じことは、「多文化共生」を考えるときにも言える。


現在、「多文化共生」「多文化主義」「多様性」という言葉は、しばしば同じ意味で用いられている。しかし、私にはこの三つは本来、まったく別の概念であるように思える。


議論が噛み合わなくなる理由の一つは、これらを区別せずに語ってしまうことにある。


本章では、この三つをあえて切り分けながら考えてみたい。


◆ 多様性は事実である


まず、多様性(Diversity)とは何だろうか。


私は、多様性とは価値判断ではなく事実だと考えている。


人間には宗教がある。


民族がある。


言語がある。


文化がある。


生活習慣も異なる。


それらは好き嫌いとは関係なく存在する。


日本にも地域差があり、世界へ目を向ければ、その違いはさらに大きくなる。


つまり、多様性とは「存在している状態」を指す言葉である。


だから、多様性そのものを否定することは現実を否定することになる。


ここまでは、ほとんど異論はないだろう。



◆多文化共生は制度である


では、多文化共生とは何か。


私は、これは制度設計であると思っている。


異なる文化を持つ人々が、一つの社会で安定して生活するためには、共通のルールが必要になる。


日本で暮らすのであれば、日本法が共通の基準になる。


税金を納める。


道路交通法を守る。


裁判所の判断に従う。


学校教育は学習指導要領に基づく。


これらは宗教や国籍に関係なく適用される。


つまり、多文化共生とは、「違いを残したまま、共通ルールの下で協力する仕組み」のことである。


ここで重要なのは、「共生」は一方的な要求では成立しないということだ。


受け入れる側にも負担がある。


受け入れられる側にも適応が求められる。


互いに調整し、互いに一定のコストを負担する。


私は以前、「共生前提確認書」という試案を書いたことがある。


そこでは、


* 日本法を共通基盤とすること

* 公共制度の中立性を維持すること

* 相互尊重を原則とすること

* 個別事情への合理的配慮は行うが、制度全体を特定文化仕様へ変更しないこと


などを整理した。


もちろん完成形ではない。


しかし、「共生」とは感情ではなく制度であるという考え方は、今も変わらない。



◆多文化主義は政治思想である


一方、多文化主義(Multiculturalism)は制度ではなく政治思想である。


社会には多数派文化だけではなく、少数派文化も対等に尊重されるべきだという考え方である。


この考え方には大きな意義がある。


少数派の権利保護。


差別の是正。


宗教や文化への配慮。


これらは近代民主主義が積み重ねてきた重要な成果でもある。


しかし、政治思想である以上、それは理念だけではなく現実との調整を必要とする。


宗教的理由で学校給食を変更してほしい。


公共施設を特定宗教仕様へ改修してほしい。


行政文書を多数の言語へ翻訳してほしい。


それらは一つひとつ検討に値する提案である。


だが同時に、


その費用は誰が負担するのか。


制度全体への影響はどうか。


他の少数派にも同様に適用できるのか。


という問いも避けて通れない。


本書で繰り返してきたように、文明にはコストがある。


多文化主義もまた、その例外ではない。



◆多様性だけでは社会はまとまらない


私は、DEI(Diversity, Equity & Inclusion)という考え方そのものを全面的に否定したいわけではない。


むしろ、その中には現代社会に必要な視点も多く含まれている。


たとえば、包摂性(Inclusion)は重要である。


社会から排除される人を減らそうという考え方には、大きな価値がある。


公正性(Equity)についても、機会や事情の違いを考慮しようという姿勢自体は理解できる。


しかし、多様性(Diversity)は、そのままでは価値にならない。


違いが存在するという事実だけでは、社会はまとまらないからである。


もし、すべての文化が自らの価値観だけを優先したらどうなるだろう。


「こちらの宗教を優先してほしい。」


「こちらの慣習を認めてほしい。」


「こちらの歴史認識を採用してほしい。」


その要求が互いに衝突したとき、「多様性」という言葉だけでは解決できない。


多様性は、そのままでは混沌カオスへまっしぐらである。


それは、文明を維持するための共通基盤――私がこれまで「文明供給装置」と呼んできたもの――そのものの破壊につながりかねない。


治安も、法の支配も、公共制度の中立性も、すべては「共通のルールがある」という前提のうえに成り立っている。


もし、その共通基盤よりも個々の違いが優先されるようになれば、文明供給装置は機能を維持できなくなる。


だから私は、一つだけ条件を加えたい。


『多様性を尊重する者は、他者の多様性も尊重する責任を負う。』


この条件があって初めて、多様性は社会の資産になる。



◆共通基盤があるから多様性は成立する


私は、多文化共生とは「何でも認めること」ではないと思っている。


むしろ逆である。


共通の基盤があるからこそ、多様性は安心して存在できる。


日本であれば、日本法である。


公共制度である。


法の支配である。


表現の自由である。


司法である。


これらが共通しているからこそ、人々は安心して違いを持つことができる。


国家を文明供給装置と考える私にとって、多文化共生もまた文明を維持する制度の一部である。


だから私は、「違い」を守りたい。


しかし同時に、「共通基盤」も守りたい。


この二つは対立するものではない。


むしろ、互いを支え合う関係にある。



◆結び──責任ある多様性へ


多様性は現実である。


多文化主義は思想である。


多文化共生は制度である。


この三つを区別しないまま議論すると、多様性という言葉だけが独り歩きし、現実の制度設計やコスト負担の議論が置き去りになってしまう。


本書で繰り返してきたように、文明は自然には維持されない。


共通ルールがあり、それを支える制度があり、その制度を運営する人々がいる。


多文化共生もまた、その文明の一部である。


だから必要なのは、「多様性が大切だ」という抽象的な合意だけではない。


どのような共通基盤の上で、誰が、どのような責任を分かち合いながら共生していくのか。


その問いに正面から向き合うことである。


私は、それを「責任ある多様性」と呼びたい。


多様性とは、共通ルールを失うことではない。


互いの違いを認めながら、同じ文明を支える責任もまた共有することなのである。


私の考える「責任ある多様性」とは、違いを認めることではない。


違いを認め合える共通基盤を、共に支える責任まで引き受けることである。


国家とは、その共通基盤を維持する文明供給装置である。


だから私は、多様性を守るためにこそ、文明供給装置としての国家を維持する責任を軽視してはならないと考えている。

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