ナショナリストが、気づけばアナキストの論理に立っていた話
〔分類:⑪国家観〕
本書をここまで書いてきて、自分でも少し意外な場所に立っていることに気づいた。
私は自分を、行き過ぎた左派的主張に疑問を抱く保守寄りのナショナリストだと名乗ってきた。
しかし、「国家とは文明供給装置である」という考え方を突き詰めていくと、私はどうやら、国家そのものへの忠誠や愛着をほとんど前提にしていないらしい。
私が国家を支持する理由は、「日本が好きだから」でも「日本人だから」でもない。
「現時点で、文明を維持するためにこれより優れた装置が見当たらないから」である。
これは、よく考えると奇妙な立場だ。
なぜなら、この論理を最後まで押し進めると、次のような一文が成立してしまうからである。
『もし将来、国家より優れた文明供給装置が現れるなら、そのとき私は国家に固執する理由はない。』
これは、ナショナリストの言葉というより、機能主義者(functionalist)の言葉である。
そして機能主義を徹底すれば、私は理屈のうえでは、国家が不要になる未来を平然と受け入れられることになる。
これはもう、アナキストの論理とほとんど変わらないのではないか。
無政府主義という思想は、しばしば「無秩序を望む思想」だと誤解される。
しかし、多くのアナキストが主張してきたのは、そうではない。
国家は、秩序を維持するための唯一の方法ではない。
相互扶助や自主管理、市場やコミュニティといった、国家に代わる別の調整メカニズムによっても、社会は十分に運営できる。
国家とは、その数ある選択肢の一つにすぎない。
もし、より良い代替手段があるなら、国家に固執する理由はない。
こう並べてみると、私が「文明供給装置」という言葉で語ってきたこととは、驚くほど骨格が近い。
違いがあるとすれば、それはただ一点である。
アナキストは、国家に代わる仕組みを理念として先に描く。
私は、代わる仕組みが「現時点でまだ存在しない」という現状認識から出発している。
理論の型は同じでも、今どこに立っているかが違う。
私は「国家はいらない」と言っているのではない。
「今のところ、国家以外に選択肢がないから、国家を支えている」と言っているにすぎない。
これは保守なのだろうか、それとも、ただ気の長いアナキズムなのだろうか。
自分でも、正直なところよく分からない。
この問いを面白くしてくれたのは、AIについて考えたときだった。
もし将来、量子AIのような超知能が、犯罪予測、インフラ管理、税制最適化、資源配分、災害対応までをリアルタイムで最適化できるようになったらどうだろうか。
理論上、国家という制度は、「人間が判断する装置」から「AIが管理する装置」へと置き換え可能になるかもしれない。
これはSFではなく、政治哲学として十分に検討に値するテーマである。
そして、ここでようやく私は、自分がなぜ機能主義でありながら、それでも国家を手放さずにいるのか、その理由に気づいた。
AIによる文明管理は、おそらく「効率」において国家を上回るだろう。
犯罪率をゼロに近づけたいなら、二十四時間の監視社会を提案するかもしれない。
交通事故をゼロにしたいなら、自家用車の禁止を最適解として導くかもしれない。
税逃れをゼロにしたいなら、全口座のリアルタイム監視を選ぶかもしれない。
感染症をゼロにしたいなら、移動そのものを制限するかもしれない。
つまり、文明を維持するコストを最小化することと、人間が望む社会とは、必ずしも一致しない。
これが、いわゆる「スカイネット問題」である。
ここで私は、国家という装置の、これまで見落としていた一面に気づく。
国家とは、単に効率よく文明を維持する装置ではない。
効率だけではなく、人間が受け入れられる程度の不合理も込みで運営する装置なのではないか。
民主主義は、その典型である。
AIなら一秒で決められることを、国会は何か月もかけて議論する。
効率だけを見れば、これほど無駄なものはない。
しかし、その無駄こそが、「人間が納得する」というコストを支払っている証でもある。
もしAIが、効率だけを基準に文明を管理するようになれば、その社会は非常に清潔で、非常に安全で、そしておそらく、多くの人間にとって息苦しいものになるだろう。
私が国家という不完全な装置に、それでもまだ理由を見出しているのは、この一点においてである。
国家は、非効率であることによって、かろうじて人間の自由と折り合いをつけている。
そう考えると、私はようやく自分の立ち位置を、もう少し正確な言葉で語れるようになった。
私は国家主義者ではない。
国家を目的として掲げているわけではないからだ。
私は、国家を「現時点で最も実用的な文明供給装置」と位置づける機能主義者である。
だから私の議論は、国家を神格化するためのものではない。
もし、国家より優れた文明供給装置が現れるなら、そのとき私はためらわず、そちらを検討するだろう。
しかし、その優劣は、「効率」という一つの物差しだけでは測れない。
効率と同時に、「人間がそれをどこまで受け入れられるか」という、もう一つの物差しが必要になる。
国家を批判することは自由である。
国家を不要だと主張することも自由である。
だが、その主張が説得力を持つためには、ただ「国家は悪だ」と言うだけでは足りない。
『国家以上に、効率と人間の納得の両方を満たせる仕組みは何か。』
その問いに答えて、初めて反論として成立する。
私は、ナショナリストでありながら、気づけばアナキストとほとんど同じ骨格の論理に立っていた。
だが、それを恥じる必要はないと今は思っている。
国家を疑うことと、国家を今この瞬間に手放すことは、まったく別の話だからだ。
私は、国家を愛しているから支持しているのではない。
まだ、国家に代わるものを、誰も十分には示せていないから、支持しているのである。
そしていつか、もし本当にそれが現れたなら――たとえそれが量子AIであっても――私はそのときはじめて、国家という装置に別れを告げる準備をするだろう。
ただしそのときは、もう一つの問いを、必ず投げかけることになる。
その新しい装置は、効率と引き換えに、人間の自由をどれだけ差し出させるつもりなのか、と。
国家とは文明供給装置である。
だから私は国家を支持する。
しかし、それは国家という名前を支持しているのではない。
人間が自由を保ちながら文明を維持できる装置を支持しているのである。
もし将来、それを国家よりもうまく実現できる制度が現れるなら、私は国家ではなく、その制度を支持するだろう。
私が忠誠を誓っているのは国家ではない。
文明そのものなのである。




