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九条思想はどこまで普遍化できるのか

〔分類:① 平和主義・反戦・⑦ 憲法観〕

「九条の会」と聞くと、多くの人は2004年に大江健三郎らが結成した市民団体を思い浮かべるだろう。


しかし、憲法第9条の理念を広めようとする活動は、それ以前にも存在していた。


1991年、アメリカの元B-29パイロットであり、後に平和活動家となったチャールズ・オーバービーは、「Article 9 Society(第9条の会)」を設立した。朝鮮戦争に従軍し、広島平和記念資料館を訪れた経験から、日本国憲法第9条を「人類共通の平和原理」として世界へ広めようと考えたのである。


この発想は、私には非常に興味深く映る。


なぜなら、そこには理念の一貫性があるからだ。


平和が普遍的価値であるなら、それは日本だけに適用されるものではない。アメリカにも、中国にも、ロシアにも、すべての国家に等しく求められるべきである。


その意味で、オーバービーの思想は理想主義的ではあっても、論理としては首尾一貫していた。



一方、日本で2004年に結成された「九条の会」は、イラク戦争や憲法改正論議を背景として誕生した。


こちらは、憲法第9条を守ることを目的とした国内運動であり、改憲反対を中心に、講演会や署名活動、集会などを展開してきた。


もちろん、それ自体を否定するつもりはない。


日本の憲法について議論するのだから、日本国内で活動することは自然である。


しかし、ナショナリストである私には、一つ気になる点がある。


それは、第9条が「普遍原理」と語られる一方で、運動の重心は圧倒的に日本国内へ向けられていることである。


もし戦争放棄が人類共通の理念であるなら、本来もっとも働きかけるべき相手は、現に軍事力による現状変更を試みている国々ではないだろうか。


中国、ロシア、北朝鮮、あるいは将来そうした行動を取るかもしれない国家に対して、「第9条を採用すべきだ」と訴えることこそ、理念の普遍性に忠実な態度ではないか。


もちろん、主権国家に他国の憲法や安全保障政策を押し付けることは、ほとんど不可能に近い。だからこそ、日本国内で活動するのは、現実的な政治運動としては理解できる。


しかし、そうであるなら、それは「普遍的平和原理の実践」ではなく、「日本という特定の国家における安全保障政策の選択」として議論すべきではないだろうか。


私は、その点を区別して考えたいのである。



このことを考えているうちに、一つの思考実験を思いついた。


理念を徹底的に一般化したら、どこまで広げられるのだろうか。


もし第9条が普遍原理であるなら、その適用範囲に理論上の上限は存在しないはずである。


そこで私は、少し皮肉を込めて「九条の会 原理方針」という架空の文書を書いてみた。


【九条の会 原理方針(試案)】


第一条

平和主義は、すべての国家に等しく適用される。


第二条

活動は、軍事力を拡大する国家や侵略行為を行う国家への働きかけを重視する。


第三条

日本だけを対象とする活動は、理念の普遍性を損なうため避ける。


第四条

平和主義の適用範囲は、地球上のすべての国家にとどまらず、将来的には太陽系全域へ拡大する。


第五条

異なる恒星系に知的文明が存在することが確認された場合、その文明に対しても戦争放棄と軍縮を呼びかける。


第六条

平和主義は観測可能宇宙のすべての知的生命体に適用されるものとし、その対象について理論上の上限を設けない。



もちろん、これは本気の提案ではない。


風刺である。


しかし、風刺とは単なる悪口ではない。


ある理念を徹底したとき、そこからどのような論理的帰結が導かれるのかを考える、一種の思考実験でもある。


私は九条そのものを笑いたいのではない。


問いたいのは、理念が「普遍」であると言うなら、その普遍性をどこまで引き受ける覚悟があるのか、ということである。


理念は、適用範囲を限定した瞬間に現実政治となる。


それ自体は悪いことではない。


だが、そのとき私たちは、「普遍原理」を語っているのか、それとも「特定の政治的立場」を語っているのかを、意識的に区別する必要がある。


その区別を忘れたとき、理念はいつの間にか、自らの適用範囲だけを選ぶ都合のよい言葉へと変わってしまうのではないか。


私が「九条の会 原理方針」という少々大げさな思考実験を書いた理由も、そこにあるのである。


戦争放棄という理念が美しいのは確かだ。


しかし、国家が文明を維持するためには、誰かが「汚れ役」として防衛のコストとリスクを引き受けなければならない。


その役割を、「他国も九条を採れ」という理念によって肩代わりできるのであれば話は別だが、現実にはそうはならない。


理念が普遍を名乗るのであれば、その理念は、コストとリスクの引き受け手までも普遍的に問い直さなければならないはずである。

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