国家は文明供給装置だった!
〔分類:⑪ 国家観〕
◆神でも理念の象徴でもなく
私にとって国家とは、信仰の対象でも、理念の象徴でもない。
国家とは、文明的な生活を安定して供給するための装置である。
治安を維持し、通貨を管理し、道路や港湾といったインフラを整え、法を執行し、外敵から社会を守る。私たちが当たり前のように享受している文明は、自然に生まれるものでも、人々の善意だけで維持できるものでもない。
そこには税金が必要であり、法や規制が必要であり、時には国民に負担や義務を求めることもある。
国家とは便利な仕組みである一方で、それを維持するには非常に大きなコストがかかる装置なのだ。
だから私は、国家を「自分を守ってくれる存在」と考えたことはあまりない。
むしろ、国家と私は相互関係にあると考えている。
国家は文明を供給し、私はその維持に必要な負担を引き受ける。
国家は一方的に奉仕する存在ではなく、国民もまた一方的に保護される存在ではない。
そこにあるのは、愛情や忠誠という感情よりも、選択と責任の関係である。
もちろん、国家は完全ではない。
判断を誤ることもあれば、不合理な制度を作ることもある。
だから私は国家を信用はしても、盲信はしない。
支持する政策があっても、批判すべきところは批判する。
国家を維持することと、国家を神格化することは、まったく別の話だからだ。
私がナショナリズムに危うさを感じるのも、この点である。
国家が常に正しく、国家を疑うこと自体が不忠であるかのような空気が生まれたとき、ナショナリズムは文明を支える思想ではなく、思考を止める思想へと変わってしまう。
国家は道具である。
そして、道具である以上、使い方を誤れば人を傷つけることもある。
だからこそ、必要なのは信仰ではなく点検であり、忠誠ではなく責任である。
私は、日本という国家を、現在のところコストに見合う文明供給装置であると評価している。
だから、その維持に必要な負担を引き受け、この社会で暮らすという選択をしている。
もちろん、それが永遠に変わらないとは限らない。
国家に留まり続けることも、より良い国家を目指して変えようとすることも、あるいは別の国家で生きる道を選ぶことも、本来は個人の選択である。
もっとも、その選択には現実的な制約があり、それぞれに相応の代償も伴う。だからこそ、軽々しく語れるものでもない。
それでも私は、国家を前提に生きるとは、国家に従うことでも、国家を神として崇めることでもないと思っている。
自分が享受している文明の重さを理解し、その維持にどこまで関わるのかを、自分自身の言葉で引き受け続けること。
国家とは、人が作り、人が維持し、ときには人が作り直す文明の装置である。
私はその装置を神として崇めるつもりはない。
しかし、その恩恵を受ける一人として、その維持に必要な責任から目を背けるつもりもないのである。
◆文明にはコストがある
国家について考えるとき、私がまず前提としていることが一つある。
それは、文明には必ずコストが伴うということである。
私たちは普段、そのコストをあまり意識しない。
朝になれば水道から水が出る。
電気が流れ、道路は整備され、警察は治安を守り、病院は診療を続ける。
財布の中の紙幣は価値を持ち、契約は法律によって守られ、外国から武力で侵略されることもない。
こうした文明的な生活は、あまりにも当たり前になっているため、それが誰かの努力によって維持されていることを忘れてしまう。
しかし、それらは決して自然に存在しているわけではない。
誰かが費用を負担し、誰かが制度を運営し、誰かが責任を引き受けているからこそ成り立っている。
文明は無料ではない。
私はこの当たり前の事実を、しばしば政治の議論では忘れられているように感じる。
文明を維持するためには、いくつか避けて通れないものがある。
暴力。
強制。
排除。
そして負担の不均等である。
「暴力」という言葉だけを見ると穏やかではない。
しかし、国家が警察を持つということは、法律に従わない者に対して最終的には実力を行使するということである。
裁判所の判決も、従わなければ強制執行される。
国境を管理するということは、誰でも自由に出入りできるわけではないということだ。
税金もまた、任意の寄付ではない。
納税しなければ差し押さえという強制力が待っている。
これらは好ましいものというより、文明を維持するために必要となるコストなのである。
もちろん、それらはできる限り小さいほうがよい。
権力は乱用されるべきではないし、強制も最小限であるべきだ。
だが、「存在しないこと」と「最小限に抑えること」は同じではない。
私は、その違いを区別して考えたい。
もう一つ忘れてはならないのは、負担は決して均等にはならないということだ。
自衛隊員は命の危険を負う。
警察官は犯罪と向き合う。
消防士は火災現場へ入っていく。
医療従事者は感染症の患者を診る。
税金を多く納める人もいれば、制度から多くの支援を受ける人もいる。
社会とは、誰もがまったく同じ負担を負う仕組みではない。
役割も責任も、それぞれ異なる。
不均等だから悪なのではない。
社会を維持するためには、そのような分担が避けられないのである。
私は国家を「文明供給装置」と考えている。
その装置の仕事は、理想を語ることではない。
現実のコストを管理することである。
治安を維持し、防衛を行い、通貨を安定させ、法を執行し、社会保障を運営する。
そのどれもが、お金だけではなく、権限や強制力、時には危険を伴う。
だから国家は、決して美しい装置ではない。
高コストで、不完全で、ときには失敗もする。
しかし、それでも誰かがその役割を担わなければ、文明そのものが維持できなくなる。
このように考えるようになってから、私は政治的な議論で一つ気になることが増えた。
ある政策が批判されること自体は当然である。
防衛費も、税制も、警察権も、社会保障も、いくらでも議論してよい。
しかし、その議論の中で、「では、その役割は誰が引き受けるのか」という問いが抜け落ちる場面が少なくないように思える。
費用を減らすことは提案される。
権限を縮小することも提案される。
だが、その結果として必要になる仕事を、誰が、どのような権限と責任のもとで担うのかは、あまり語られない。
私が本書で繰り返し考えたいのは、この点である。
国家を評価するか否かではない。
国家を好きか嫌いかでもない。
文明を維持するために必要なコストを、誰が、どのような正当性のもとで引き受けるのか。
その問いから出発しなければ、国家についての議論は、どうしても理想論だけで終わってしまうように、私には思えるのである。
私は、政治思想の違いは「国家をどう評価するか」ではなく、「文明を維持するためのコストをどう認識するか」の違いなのではないかと思うようになった。
国家を文明供給装置と見るか、暴力装置と見るか。
この違いは、単なる言葉の違いではない。その後に続く政治思想全体の出発点を決めてしまうのである。
◆文明は、トイレ一つでも維持されている
国家を「暴力装置」と呼ぶ人がいる。
もちろん、国家が警察や軍隊、法律による強制力を持っていることは事実である。しかし、私が国家を見るとき、まず思い浮かぶのは暴力ではない。
むしろ、トイレである。
少し変な話に聞こえるかもしれない。
しかし、文明とは、トイレ一つでさえ多くの人の手によって支えられている。
蛇口をひねれば水が流れる。そのためにはダムや浄水場が必要であり、水道管を敷設し、維持管理する人がいる。
流した水は下水道へ送られ、処理場できれいにされる。その設備も、誰かが設計し、建設し、補修している。
便器が壊れれば、専門知識を持つ人が修理する。
これらは善意だけで成り立っているわけではない。
税金が投入され、料金が徴収され、法律が整備され、多くの職業人が働くことで、初めて「当たり前のトイレ」が存在している。
つまり、文明的なトイレは自然現象ではない。
社会全体が維持している文明の成果なのである。
もし「そんなコストは払いたくない」「国家など不要だ」と考えるなら、その人は別の方法で生活するしかない。
川辺で用を足す。
穴を掘る。
あるいは、自分一人で井戸を掘り、排水設備まで管理する。
そうした生活は不可能ではない。
だが、それは文明的生活から一歩離れることを意味する。
もちろん、実際にそのような生活を選ぶ人はほとんどいない。
私たちは皆、文明の恩恵を受けている。
だから重要なのは、「文明は要らない」と言うことではない。
その文明を維持するためのコストを、誰が、どのように引き受けるのか、という問いである。
私にとって国家とは、この問いに制度として答える仕組みだ。
国家は暴力を持つ。
それは否定しない。
しかし、その暴力は目的ではない。
文明を維持するために必要な数多くの機能の一部にすぎない。
私が国家を「暴力装置」よりも「文明維持装置」と呼びたいのは、このためである。
◆国家=暴力装置という言語トリック
「国家とは暴力装置である。」
この言葉を初めて聞いたとき、私は妙に引っかかった。
言いたいことは分かる。
国家は警察を持ち、軍事力を持ち、税金を徴収し、法律を強制する。
最終的には実力を背景として秩序を維持している以上、「暴力装置」という表現にも一定の説明力はあるのだろう。
しかし、私が違和感を覚えたのは、その説明の仕方である。
「暴力」という言葉は、日常では極めて否定的な意味を持つ。
殴る。
脅す。
奪う。
殺す。
そうした印象が先に立つ。
だから「国家は暴力装置だ」と言われた瞬間、多くの人は国家そのものに否定的な印象を抱く。
ここで興味深いのは、この言葉が事実を説明しているだけでなく、評価まで同時に与えてしまうことだ。
国家が警察権を持つことも、自衛のために軍事力を持つことも、それ自体は制度の説明である。
ところが、それを「暴力」と名付けた瞬間、制度の説明は価値判断へと変わる。
言葉は、思考の入口を決めてしまうのである。
試しに別の言葉へ置き換えてみよう。
国家とは秩序維持装置である。
国家とは文明供給装置である。
国家とは公共サービス提供装置である。
どれも国家の一面を表している。
もちろん、これらの表現にも偏りはある。
しかし、少なくとも「暴力装置」という表現だけが中立的な定義であるとは、私には思えない。
同じ対象でも、どの言葉を選ぶかによって、見える景色は大きく変わる。
前節で、文明には避けられないコストが存在すると書いた。
暴力。
強制。
排除。
負担の不均等。
国家は、そのコストを管理する装置である。
ところが、「国家=暴力装置」という表現では、そのコストのうち「暴力」だけが切り取られる。
税の再分配も、インフラの維持も、通貨の安定も、災害対応も、司法制度も、社会保障も背景へ退き、暴力だけが前面へ出てくる。
その結果、「国家とは本質的に暴力である」という印象が生まれる。
私には、この印象そのものが一種の言語操作のように思えるのである。
もちろん、国家が暴力を独占しているという議論には意味がある。
国家権力は強大であり、その行使には厳しい制約が必要だ。
国家を無条件に信頼することは危険である。
しかし、それは「国家は暴力だけでできている」という話ではない。
国家は、暴力を管理し、限定し、法の下へ置く装置でもある。
警察が実力を行使できるのは、法律という枠組みの中だけだ。
自衛隊も、裁判所も、行政も、それぞれ制度によって権限が制限されている。
つまり国家は、暴力を生み出す装置である以前に、暴力を管理する装置でもある。
その側面まで無視してしまえば、国家という存在を正しく理解することはできないだろう。
私は、国家を美化したいわけではない。
国家は失敗もする。
権力は腐敗する。
だから監視も批判も必要である。
しかし同時に、国家を一つの言葉だけで断罪することにも慎重でありたい。
「暴力装置」という表現は、一見すると客観的な説明のように見える。
だが実際には、国家をどう見るべきかという結論を、最初から言葉の中へ埋め込んでしまっている。
だから私は、この言葉を聞くたびに考えてしまう。
それは本当に定義なのだろうか。
それとも、議論を始める前に結論を決めてしまう、一つのレトリックなのだろうか。
◆誰が汚れ役を引き受けるのか
文明について考えるとき、私は一つの問いを繰り返し自分に投げかける。
「結局、その仕事は誰がやるのか。」
この問いは、拍子抜けするほど素朴である。
しかし、政治思想を考えるうえでは、おそらく最も現実的な問いでもある。
私たちは、できることなら暴力のない社会に住みたい。
強制されるより、自由でありたい。
誰も排除されず、公平に扱われる社会のほうが望ましい。
これは私も同じである。
理想だけを語るなら、反対する理由はない。
問題は、その理想を現実の社会で維持しようとした瞬間だ。
そのとき、どうしても避けて通れない仕事が現れる。
犯罪者を逮捕する人。
外国からの武力攻撃に備える人。
災害現場へ向かう人。
感染症の患者を診る人。
税金を徴収する人。
法律を執行する人。
誰かが必ず、その役割を引き受けなければならない。
私は、このような役割を勝手に「汚れ役」と呼んでいる。
「汚い仕事」という意味ではない。
誰もが必要性は認めながら、自分ではできれば引き受けたくない仕事、という意味である。
政治の議論を聞いていると、こうした汚れ役はあまり人気がない。
警察は権力的だと言われる。
自衛隊は軍事的だと言われる。
税務行政は取り立てだと言われる。
入国管理は排外的だと言われる。
もちろん、権力には監視が必要である。
行き過ぎた権限行使は批判されるべきだ。
しかし、その批判と、「その役割そのものを誰が担うのか」という問いは別である。
私は、この二つが混同されることに違和感を覚える。
例えば、防衛費を削減すべきだという議論がある。
その議論自体はあってよい。
問題は、その後である。
防衛費を削減した結果、抑止力が低下したとき、その不足は誰が補うのだろうか。
警察権を縮小したとき、治安維持は誰が担うのだろうか。
税負担を減らしたとき、社会保障やインフラの維持費は誰が負担するのだろうか。
私が知りたいのは、「賛成か反対か」ではない。
その役割を誰へ移すのか、という設計図である。
政治は、ときどき不思議な言葉を使う。
「国際社会が対応する。」
「市民社会が支える。」
「みんなで助け合う。」
どれも否定したい言葉ではない。
国際協力も、市民活動も、助け合いも大切である。
しかし、それらは主体ではなく方向性を示す言葉である。
国際社会とは、結局はどこの国なのか。
市民社会とは、誰が責任を負う組織なのか。
「みんな」とは、最終的には誰なのか。
その問いに対する答えは、意外なほど曖昧なことがある。
私は、ここに国家という仕組みの意味があると思っている。
国家は、美しい理想を語るための装置ではない。
「誰が責任を負うのか」を明確にする装置である。
警察には警察の責任がある。
裁判所には裁判所の責任がある。
自衛隊には自衛隊の責任がある。
政府には政府の責任がある。
そして、それらが失敗したときには、政治的にも法的にも責任を問う仕組みがある。
国家とは、汚れ役を制度として引き受け、その責任の所在を明らかにする仕組みでもあるのだ。
だから私は、国家を善だとも悪だとも思わない。
国家は、高コストで、不完全で、しばしば失敗もする。
それでも、その役割を誰かが担わなければ、文明は維持できない。
本当に重要なのは、「汚れ役をなくすこと」ではない。
それは、おそらくできない。
重要なのは、その役割を誰が担い、どのような権限の下で行い、失敗したときに誰が責任を負うのかを明確にすることである。
文明とは、美しい理念だけでは動かない。
その裏側には、必ず誰かが引き受けている仕事がある。
私が国家を文明供給装置と呼ぶ理由も、そこにある。
国家とは、理想そのものではない。
理想を現実へ近づけるために、誰もが敬遠したがる仕事を、制度として引き受ける装置なのである。
◆千年王国としての反国家思想
政治思想を眺めていると、ときどき宗教史を思い出すことがある。
もちろん、現代の政治思想と宗教は別物である。
しかし、人間が理想社会を思い描くとき、その構造には不思議なほど共通点が現れる。
その代表例が、「千年王国思想」である。
キリスト教の終末論では、この世界は堕落している。
争いがあり、不正があり、苦しみがある。
やがて最後の審判が訪れ、古い世界は終わりを迎える。
その後に訪れるのが、神の支配する平和な世界――千年王国である。
そこでは正義が実現し、暴力は消え、秩序は完全なものとなる。
現実の欠陥は、やがて訪れる理想の世界によって解決される。
もちろん、現代の左派思想が宗教であると言いたいわけではない。
私が興味を持つのは、この「思考の構造」である。
私には、一部の反国家的な議論が、この構造とどこか似ているように見えることがある。
国家は暴力的である。
国家は抑圧的である。
国家は差別を再生産する。
国家は排除の装置である。
こうした批判自体には、耳を傾けるべき点も少なくない。
国家は万能ではないし、歴史を振り返れば、国家権力が深刻な人権侵害を引き起こした例も数多く存在する。
だから、国家を批判すること自体は健全な営みである。
しかし、その先で描かれる社会像になると、私は少し戸惑う。
そこでは、暴力は対話へ置き換えられる。
強制は合意へ置き換えられる。
排除は共生へ置き換えられる。
国家に代わって、市民社会や国際社会、あるいは人々の連帯が秩序を支える。
その方向性そのものを否定するつもりはない。
私も、暴力は少ないほうがよいと思うし、対話で解決できるなら、それに越したことはない。
ただ、一つだけ気になる問いが残る。
その社会では、文明を維持するコストを誰が引き受けるのだろうか。
防衛は誰が担うのか。
治安は誰が維持するのか。
税に代わる仕組みは何か。
国境管理はどうするのか。
ルールを破った者には、誰が、どのような権限で対応するのか。
この問いを投げかけると、答えは理念へと戻っていくことがある。
「国際社会が支える。」
「市民の連帯がある。」
「対話によって解決する。」
それらは目指す方向としては理解できる。
しかし、制度設計として読むと、どうしても輪郭がぼやける。
ここで私は、千年王国思想との類似を感じるのである。
千年王国では、現実の矛盾は理想の到来によって解消される。
だから、「そのとき誰が汚れ役を担うのか」という問いは、あまり重要ではなくなる。
理想社会には、本来そのような役割は存在しないはずだからだ。
私には、ときおり一部の反国家思想も、それと似た印象を与えることがある。
現実の国家が抱える矛盾を批判することには熱心であっても、その先に必要となるコストの配分や責任の所在については、あまり語られない。
もしそうだとすれば、それは政治思想というより、理想社会への期待に近づいているのではないか。
そんなことを考えるのである。
もちろん、これは私の見方にすぎない。
左派思想にもさまざまな立場があり、国家を完全に否定する人ばかりではない。
むしろ、国家による福祉や再分配を重視する立場も多く存在する。
だから、「左派は反国家思想である」と一括りにするつもりはない。
私がここで述べたいのは、国家を根本的な悪として語る議論には、ときとして現実の制度設計よりも、理想社会への期待が強く表れているように見える、という印象である。
私は国家を神聖視しない。
国家は失敗するし、権力は腐敗する。
だから批判され続けなければならない。
しかし同時に、国家を否定するだけでは、文明は維持されないとも思っている。
国家は信仰の対象ではない。
だからといって、滅ぼせば救済が訪れる存在でもない。
国家とは、不完全な人間社会が、自らの矛盾と折り合いをつけながら作り上げた、高コストで不完全な装置である。
私は、その不完全さを引き受けながら改善していく道のほうが、理想の到来を待ち続けるよりも現実的ではないかと考えている。
私は国家を好きだから擁護しているのではない。
国家がなくても文明が維持できるのであれば、それに越したことはない。
しかし、少なくとも私には、その方法がまだ見えていない。
だから私は、国家を「善」だから受け入れるのではない。
文明を維持するために、現時点で最も現実的な装置だから受け入れている。
国家とは理想ではない。
人間が、不完全なまま文明を維持するために作り上げた、高コストで、不完全な装置である。
そして私が政治思想を考えるとき、いつも立ち返る問いは一つしかない。
「その文明を、結局誰が支えるのか。」
この問いこそが、私の国家観の出発点であり、本書全体を貫く問いでもある。




