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空虚な中心――なぜ皇室は理念国家と違うのか

〔分類:⑪ 国家観・⑧ 歴史認識〕

前章で、私は国家と皇室を、まったく別の機能として分けて考えてきた。


国家は文明供給装置である。


法。

治安。

インフラ。

行政。


これらは機能で評価され、より優れた装置が現れれば置き換えを検討してよい。


皇室は文化供給装置である。


これは機能ではなく、積み重ねられた歴史そのものに価値がある。


だから代替を検討する対象にはならない。


文明は制度であり、設計できる。


文化は時間であり、積み重なるしかない。


ここまでは、前章で書いた通りである。


では、なぜ皇室でなければならないのか。


もう少し掘り下げておきたい。



◆ 理念国家という選択肢


国家の正統性を、何に置くかという問題がある。


フランスであれば、自由・平等・友愛である。


アメリカであれば、独立宣言に書かれた理念である。


こうした国家は、具体的な理念を国のかたちの中心に据えている。


理念は強力である。


しかし、理念を中心に据えるということは、「その理念に照らして正しいかどうか」が、常に政治対立の中心になるということでもある。


自由とは何か。


平等とは何か。


その解釈をめぐって、社会は絶えず引っ張り合うことになる。


理念国家とは、常に自分の理念を問い直し続けなければならない国家でもある。



◆ 軸は空虚であるほうが自由度がある


皇室は、これとは違う。


皇室は、「何を考えるべきか」を命令する存在ではない。


自由を掲げるわけでも、平等を掲げるわけでもない。


具体的な政治綱領を持たない。


私はこれを、「空虚な中心」と呼びたい。


空虚というのは、価値がないという意味ではない。


具体的な政策や思想を規定しない、という意味である。


皮肉なことに、この空虚さこそが、社会に自由度を与える。


もし国家の正統性の軸に、自由・平等・友愛のような具体的な理念を置いていたら、日本はもっと不自由になっていたかもしれない。


その理念に沿わない考え方を、常に異端として扱わなければならなくなるからだ。


皇室は、日本という共同体が時間的に連続してきたことを象徴する存在であって、何が正しい生き方かを指図する存在ではない。


だからこそ、その下で、右も左も、保守もリベラルも、共存することができる。


軸は、空虚であるほうがいい。



◆ かといって、何もなくていいわけではない


ただし、これは「何もなくていい」という話でもない。


軸が完全にゼロであれば、それはそれで別の問題が起きる。


自分たちが何者かを語るための、時間的な基準点そのものが失われてしまうからだ。


私は、日本人が自分自身を何者かと規定しようとするとき、そこには必ず歴史があり、その歴史の軸には皇室があると考えている。


「これだ」と言えるものが、どこかに存在していたほうがいい。


ただし、その「これ」は、具体的な思想や政策であってはならない。


具体的な理念であれば、それは政治的な対立の火種になる。


しかし、時間的な連続性の象徴であれば、対立の外に置くことができる。


空虚でありながら、同時に「これだ」と言える何か。


私にとって、それが皇室である。


代替が効かない、というより、少なくとも今のところ、代替になり得るものが見つからない。



◆ 外国人がその位置に立てない理由


ここまで書くと、一つの疑問が浮かぶかもしれない。


もし皇室が血統そのものに価値を置いているのではなく、時間的な連続性の象徴だとするなら、外国人を同じ位置に据えることもできるのではないか、と。


しかし、私はそうは思わない。


私が皇室に見ているのは、血統そのものではない。


日本という歴史共同体が、途切れずに続いてきたという連続性である。


その連続性は、その共同体の内側で積み重ねられてきたものであって、外から持ち込めるものではない。


これは、外国人を排除するための理屈ではない。


帰化制度の話とも、多文化共生の話とも、本質的には別の問題である。


多文化共生の章で書いたように、共に生きることと、共通の歴史的基準点を共有することは、同じではない。


皇室とは、共同体が「自分たちは何者か」を語るときの、歴史的な基準点である。


その基準点は、誰かを排除するためにあるのではなく、共同体そのものが自分自身を確認するためにある。


だからこそ、それは代替できないし、外から持ち込むこともできないのだと思う。



◆ 侵略された国は、皇室を消せない


もう一つ、これは「空虚な中心」の話のついでに書いておきたい。


もし日本が外国から侵略を受けたとする。


占領した側は、日本という共同体の正統性を、何らかの形で書き換えようとするだろう。


このとき、皇室は非常に厄介な存在になる。


なぜなら、皇室には、消し去るための「口実」がほとんどないからだ。


多くの国で王室が姿を消してきた経緯を振り返ると、そこには決まって物語がある。


専横。

腐敗。

権力の私物化。

民衆を苦しめた圧政。


革命が王室を打倒するとき、そこには常に「なぜ倒すべきか」という理由が用意されていた。


しかし、日本の皇室には、それがない。


政治権力を握っていないから、専横のしようがない。

君臨すれども統治せず、という立場を守り続けてきたから、失政の責任を問うこともできない。

目立ったスキャンダルもない。


つまり、「この皇室は倒されて当然だ」という物語を、外から作ることが極めて難しいのである。


侵略した側が「皇室がなくなってよかった」と言おうとしても、その理屈は通らない。


なぜなら、多くの国民にとって、皇室を倒すべき理由が、そもそも見当たらないからだ。


これは、偶然そうなったわけではないと思う。


政治から距離を置き、権力を持たず、日々の統治の失敗に手を汚さない。


その立場を保ち続けてきたことそのものが、結果として、外部からの正統性の書き換えに対する、非常に強固な防御になっている。


権力を持たないことが、かえって最大の強さになる。


これもまた、私が皇室に見出している、代替の効かない機能の一つである。



◆ 結び


国家は、機能で評価される。


だから、交換可能である。


皇室は、時間の積み重ねそのものに価値がある。


だから、交換できない。


そして、その中心が具体的な理念ではなく、空虚であることによって、かえってこの社会は自由でいられる。


私が皇室を手放せないと思うのは、伝統への感傷だけではない。


軸が空虚だからこそ、この国は特定の理念に縛られずに済んできた、という実感があるからである。


空虚でありながら、「これだ」と言える中心があること。


それこそが、私が皇室に見出している、代替の効かない機能なのだと思う。

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