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ネトウヨ認定って敵ばっかり増やすんですね

〔分類:番外編・思想雑記/⑪ 国家観〕

私は長いこと、自分をナショナリストだと思っていた。


理由は単純である。


インターネットで何か書くたびに、「ネトウヨですね」と言われ続けたからだ。


憲法九条に疑問を呈すると、ネトウヨ。


移民政策のコストを考えると、ネトウヨ。


国家の役割を評価すると、ネトウヨ。


最初は否定していた。


しかし、何度も言われ続けると、「そういうものなのかな」と思い始める。


人間とは不思議なもので、他人から貼られたラベルを、いつの間にか自分でも受け入れてしまうことがある。


ところが、本書を書き進めるうちに、一つの違和感に気づいた。


私は本当にナショナリストなのだろうか。



私は本書を通して、「国家は文明供給装置である」と書いてきた。


道路を維持し、水道を整え、司法を運営し、治安を守り、社会保障を支える。


国家とは、文明を維持するための巨大な装置である。


だから私は国家を支持している。


――そう思っていた。


しかし、その論理を最後まで追いかけてみる。


もし将来、国家より優れた文明供給装置が現れたら、私はどうするか。


おそらく、そちらを検討するだろう。


国家だから守るのではない。


より良い装置が現れれば、更新する。


この時点で、私は国家そのものに忠誠を誓っているわけではないことに気づく。


私は国家を、目的ではなく手段として見ていたのである。


つまり私は、ナショナリストというより、機能主義者だったらしい。


整理すると、私の論理はこういうことになる。


一、文明は維持されなければならない。

二、文明を維持するには、何らかの「文明供給装置」が必要である。

三、現時点では、国家が最も実績のある文明供給装置である。

四、したがって、現時点では国家を支持する。

五、ただし、国家より優れた文明供給装置が実証されれば、そちらを検討する。


この五番目があるかないかで、話はまったく違ってくる。


国家を目的化するナショナリズムであれば、五番目の一文は出てこないはずである。


国家そのものを守りたいのではなく、国家が果たしている機能を守りたい。


私が支持していたのは、後者だったらしい。



このことに気づいたとき、少し可笑しくなった。


もし誰かが「国家は不要だ」と言うなら、私は反射的に否定するつもりはない。


ただ、一つだけ質問する。


「では、国家より優れた文明供給装置は何ですか。」


私にとって重要なのは、その一点だけである。


国家を壊すことが目的ではない。


文明を維持することが目的だからだ。


もし、その問いに納得できる答えが返ってくるなら、私は国家に固執する理由はない。



考えてみれば、「ネトウヨ認定」という言葉は、少し不思議な働きをする。


本来なら議論できたかもしれない相手を、一つの箱へ押し込めてしまうのだ。


国家の役割を評価する人。


安全保障を重視する人。


移民政策のコストを議論する人。


行政の効率を考える人。


彼らは、必ずしも同じ思想ではない。


にもかかわらず、「ネトウヨ」という一言で一括りにされると、互いの違いまで見えなくなる。


それは議論を整理するどころか、むしろ敵を増やしているように思える。



もちろん、逆もある。


「パヨク」という言葉も同じだ。


福祉を重視する人。


平和主義を掲げる人。


格差是正を訴える人。


国家権力を警戒する人。


これらもまた、一つではない。


しかし、一つのレッテルで片付ければ、その違いは見えなくなる。


相手の論理を理解する代わりに、属性だけを見て判断するようになる。



ここで一つ、自分自身への戒めも書いておきたい。


私は本書のあちこちで、「左派思想は国家の正統性を軽く見がちだ」というニュアンスで書いてきた。


しかし、これはさすがに一般化しすぎている。


左派思想と一口に言っても、国家との距離の取り方は一枚岩ではない。


国家を福祉や再分配の主体として重視する立場もある。


国家を人権保障の枠組みとして肯定する立場もある。


国家そのものを、将来的には不要なものと考える立場もある。


これらはそれぞれ別の思想であり、同じ箱に入れてよいものではない。


「ネトウヨ」という一括りに私が違和感を覚えるなら、「左側は国家を認めない」という一括りにも、同じだけ慎重であるべきだろう。


これは自分に返ってくる話でもある。



本書を書いていて思った。


私は右派でも左派でもなく、「文明供給装置はどうあるべきか」を考えていたにすぎない。


九条を論じても、防衛を論じても、多文化共生を論じても、福祉を論じても、最後には同じ問いへ戻ってくる。


文明を維持するコストを、誰が、どのような責任のもとで引き受けるのか。


私は、その問いに答えようとしていただけだった。


だから、自分がナショナリストだと思い込んでいたこと自体が、少し勘違いだったのかもしれない。



改めて並べてみると、私の立場は、左右のどちらの軸にもうまく収まらない。


国家を神聖視しない。

国家は目的ではなく、装置である。

装置である以上、改善できる。

改善するには、実証実験が必要である。

AIも、その候補の一つになり得る。

ただし、効率だけでなく、自由や納得も評価軸に含める。


これは「右派だから国家を守る」という論理ではない。


「現時点で最も性能の高い文明供給装置だから、国家を採用している」という、どちらかといえば設計者やエンジニアに近い発想である。


そう考えると、本書の中で「気づけばアナキストの論理に立っていた」と書いた章も、単なる逆説ではなかったのだろう。


あれは矛盾ではなく、私の思想を正確に言い当てていたのだと思う。


ナショナリストだと思い込んでいた自分を分析していくと、実際には「国家を目的として擁護していた」のではなく、「現時点で最適な文明供給装置として採用していた」だけだった。



私は今でも国家を支持している。


しかし、それは国家を神聖視しているからではない。


現時点で、国家以上に安定した文明供給装置を、まだ誰も実証していないからである。


もし将来、それが現れるなら、私はためらわず検討するだろう。


そう考えると、私は「国家を守りたい人」ではなく、「文明を守りたい人」だったらしい。


そして、それに気づくまでに、ずいぶんたくさん「ネトウヨ」と呼ばれた。


少し遠回りではあったが、おかげで自分の立ち位置を考え直す機会にはなった。


だから今は、こう思っている。


レッテルは議論を終わらせることはあっても、思想を理解させることはほとんどない。


敵を増やすのは簡単だ。


難しいのは、相手が本当に何を考えているのかを、一つずつ確かめることである。

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