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しかし。
ルーカスはリリアンの差し出した手を完全に無視すると、ふっと口元に冷ややかな、だがどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「……そうか。ドレスが破れたか。それは実に『丁度良かった』」
「……はい?」
リリアンは耳を疑った。
「丁度……良かった、ですの……?」
「ああ。エレノアがどんなトラブルに巻き込まれたとしても困らないよう、私は常に予備の衣裳を用意させていたのだ」
ルーカス様が軽く手を叩くと、背後から彼の専属護衛と侍女たちが、大きな漆黒の革箱を恭しく運んできた。その箱には、公爵家御用達の最高級ドレス職人の紋章が刻印されている。
「な……なんですの、その箱は……?」
「エレノアのために仕立てさせた、特注のドレスだよ。本来なら次の記念日に贈るつもりだったのだが、なぜか都合よくドレスが破れてくれたおかげで、今夜披露することができる。ああ……そういえば感謝するよ、リリアン嬢。だが私のパートナーはエレノアでなくては」
「へ……? 特注の……ドレス……!?」
リリアンが絶句する中、ルーカスはさらに懐から、小さな金の箱を取り出した。
パカリと開けられた箱の中には、純銀のフレームに無数のダイヤモンドとサファイアが散りばめられた、溜息が出るほど美しいティアラが収められていた。
「ついでに、王家から我が公爵家に下賜されたこのティアラも持ってきた。今のエレノアなら、これを見事に着こなしてくれるはずだ」
ルーカスはリリアンなど最初から視界に入っていなかったかのように、爽やかな(ただし殺気に満ちた)笑みを浮かべて翻った。
「では、私はエレノアの元へ行ってくる。待たせてすまないね、愛しい私のプリンセス!」
「あ……あ……ルーカス様……!? 待ってくださいませ! 私のエスコートは……私をパートナーにしてくださるのでは……!?」
リリアンが金切り声をあげるのも構わず、ルーカス様は側近たちを従えて、颯爽と着付け室へと向かって走っていった。
取り残されたリリアンは、ポカンと口を開けたまま、その場に立ち尽くすしかなかった。
───
数十分後。舞踏会会場の大広間。
社交界の重鎮や貴族たちが集まり、グラスを傾けながら歓談している中、会場の雰囲気が一変した。
大階段の上に、姿を現した二人の男女にすべての視線が集中したのだ。
「皆様、ご紹介いたしましょう。私の最愛の婚約者、エレノア・フォン・アルスター伯爵令嬢です」
ルーカス様の朗々とした声が広間に響き渡る。
彼の手を取って階段の上に立っていたのは——息を呑むほど美しくドレスアップされた、私だった。
ルーカス様が持ってきてくださったのは、夜空をそのまま生地にしたかのような、深いディープブルーのベルベットドレスだった。動くたびにドレスの裾に散りばめられた微細なダイヤが星のように煌めき、胸元には繊細な銀糸の刺繍が施されている。
そして私の艶やかな髪の上には、サファイアが輝く荘厳なティアラが冠されていた。
まさに、夜の女神降臨——そう表現するに相応しい装いだった。
「待たせてすまない! 君のために新しいドレスと、ついでにティアラも持ってきた!」と着付け室に突入してきたルーカス様を見たときは流致に驚いたが、着用してみると驚くほど私の身体にフィットし、肌の色を引き立ててくれたのだ。
「まあ……なんて素晴らしいドレスなの……!」
「まるで神話に出てくる女神様の降臨のようだわ!」
「あのドレスの生地、南方の国でしか採れない幻の『星紡ぎのシルク』では!? それにあのティアラ……レーヴェンハイト公爵家に伝わる国宝級の宝飾品ではありませんか!」
「ルーカス様が、エレノア様のためだけにそこまでのご準備をされていたなんて……! なんという深い愛でしょう!」
会場のあちこちから、羨望と絶賛の溜息が漏れ聞こえてくる。
ルーカス様は誇らしげに胸を張り、私の手を引きながらゆっくりと階段を降りてきた。
「エレノア、本当に美しいよ。君があまりにも美しすぎて、今夜は他の男たちに君を見せたくないくらいだ」
「ルーカス様たら、大げさですわ。でも……素敵なドレスをありがとうございます。とても気に入りました」
「君に喜んでもらえるなら、どんな努力も報われるよ」
ルーカス様は私の指先にそっと唇を触れさせ、蕩けるような甘い微笑みを向けた。周囲の令嬢たちがその仲睦まじさにうっとりと頬を染めている。
……そんな完璧な光景の中、ただ一人、血の気を失った顔でガタガタと震えている人物がいた。
会場の隅で、一人ぽつんと立っていたリリアンである。
彼女が着ているのは、派手なフリルとレースが過剰にあしらわれた、鮮やかな赤いドレス。
普段なら目立つはずのそのドレスも、今の私とルーカス様の圧倒的な気品と豪華さの前では、ただの「派手で悪目立ちする安物」にしか見えなくなっていた。
周囲の貴族たちの噂話が、容赦なくリリアンの耳に飛び込んでいく。
「あら……あちらにいらっしゃるのは、アルスター伯爵家の次女令嬢かしら?」
「ええ、確かリリアン様とおっしゃったわね。……なんだか、ずいぶんと賑やかすぎるお召し物ですこと」
「エレノア様のあの洗練された夜の美しさに比べると……なんだか品がなくて、野暮ったく見えてしまいますわね」
「まるでエレノア様の圧倒的な美しさを引き立てるために、あえて派手で安っぽいドレスを着ているみたいだわ」
「ふふ、見事な『引き立て役』ですことね」
クスクスという蔑みの嘲笑が、リリアンの突き刺さる。
「ひ……引き立て役……!? 私が……この私がお姉様の引き立て役ですって……!?」
リリアンは顔を真っ赤にし、自分の着ているドレスの裾をぎゅっと握りしめた。
彼女は、私をみすぼらしい破れドレス姿にして嘲笑い、自分がルーカス様のパートナーとして脚光を浴びるはずだったのだ。
それなのに、結果はどうだ。
彼女の卑劣な妨害工作は、私はより一層豪華で素晴らしいドレスを手に入れ、国宝級のティアラまで賜り、舞踏会の主役となってしまった。
そしてリリアン自身は、私の美しさを際立たせるための「安っぽい比較対象(引き立て役)」として、社交界中の笑いものになっている。
完全なる自滅。
「そんな……そんなはずありませんわ! 私が舞踏会の主役のはずなのに! 私がルーカス様に愛されるはずなのにーっ!!」
リリアンは叫び出しそうになる口を必死に扇子で塞ぎ、屈辱と怒りで顔を歪ませていた。
誰からもダンスに誘われず、周囲からは冷ややかな嘲笑の視線を注がれ、完璧な相思相愛を見せつける私たちを遠くから指を咥えて見ていることしかできない。
リリアンにとって、これ以上の地獄はないだろう。
────
ダンスフロアの中央で、私はルーカス様の手を取って滑らかにステップを踏んでいた。
ルーカス様のエスコートは完璧で、まるで空を飛んでいるかのように軽やかだ。彼のサファイアの瞳には、私以外の景色は一切映っていない。
「エレノア。あの愚かな妹君は、自分の愚かさに打ちのめされているようだね」
クルリと舞いながら、ルーカス様が私の耳元で囁いた。
「ええ……さすがに今回は、ご自分の立場というものを思い知ったのではないでしょうか」
「ふん、自業自得だ。君のドレスを傷つけた罪は重い。後でアルスター伯爵(父上)を通じて、正式な厳重注意と謹慎処分を請求させてもらうよ」
「まあ、ルーカス様ったらお厳しいこと」
「当然だ。君を害する者は、誰であれ許さない」
ルーカス様は私の腰を引き寄せ、密着するほどの距離で私を見つめた。その瞳に宿る熱量に、私の頬も少しだけ熱くなる。
「……さて、エレノア。社交辞令のダンスはこれで終わりだ。これからは二人きりで、今夜の君の圧倒的な美しさを私一人で独占させてもらうよ」
「ふふ、喜んで。私の素敵な騎士様」
私たちは曲の終わりとともに深く見つめ合い、優雅にお辞儀を交わした。
会場のあちこちから巻き起こる大きな拍手と称賛の声。
その光景の片隅で、惨めに立ち尽くすリリアンの姿は、すでに誰の視界にも入っていなかった。
激しい勘違いをこじらせ、勝手に自爆して引き立て役に成り下がった義妹。
彼女がこの屈辱に懲りておとなしくなるか、あるいはさらなる愚かな暴走を始めるのか——。
愛しい婚約者の強い腕に抱かれながら、私はくすりと心の中で微笑むのだった。




