9-1 出戻り令嬢は真実の愛に包まれる
外の喧噪とは打って変わって会場内は和やかで、白と青を基調とした瀟洒な内装にふさわしく落ち着いた雰囲気だった。
オルレアがひとけの少ない、バルコニーに繋がるガラス扉付近へ向かうために目をやると、見知った人物が立っている。
(マーグレス侯爵夫人……?)
『社交界の理想の夫婦』とゼッタリング辺境伯夫妻とともに並び称された人物。そしてウィリアムの義兄嫁である。
あちらもオルレアに気づいて誘うよう微笑を向けられたので、内心穏やかではなかったが侯爵夫人の前に立った。
「ご機嫌よう、オルレア様」
「こんばんは、マーグレス侯爵夫人」
辺境伯夫人の頃なら同等の身分だったが、今は圧倒的に侯爵夫人のほうが上で、オルレアは義弟の婚約者という立場だ。丁寧に礼を返す。
「そんなに固くならないで」
柔らかに微笑む侯爵夫人からは、オルレアに対する嫌悪は感じられない。むしろ何の感慨もない空虚を醸し出しているようにも思える。
(……何か、変だわ)
オルレアはつぶさに侯爵夫人を見た。
乱れ一つなく美しく結い上げた髪、顔色は――少し悪い、右手に持つ扇が小刻みに震えている。
「マーグレス侯爵夫人、ご気分でも悪いのですか?」
驚かせないように侯爵夫人のレースの手袋に包まれた指先へと触れると、彼女の水色の瞳が膜を張って揺れる。
「オルレア様、あなたは……」
侯爵夫人は声を詰まらせて俯いた。オルレアはどうしていいかわからず、ただ彼女の冷たく強張った手を温めるために緩くさすり続けた。
「――ごめんなさい。もう大丈夫」
しばらくして顔を上げた侯爵夫人の目は少しだけ赤いが涙の後はない。気がかりではあったものの、意思を尊重して手を離そうとすると掴まれてしまう。
「マーグレス侯爵夫人?」
「……オルレア様、どうかお気を悪くしないでくださいませ」
侯爵夫人の表情は痛々しいほど真剣で、オルレアは返事の代わりにしっかりと彼女の手を握り返す。
それでも何度か開いた唇を閉じて躊躇い、ようやく侯爵夫人の掠れた声が耳に届いた。
「……トレシヤル山の温泉はご存知でしょうか?」
ああ。オルレアはその名に合点がいく。
トレシヤル山はゼッタリング辺境伯領の隣にある国有林で、侯爵夫人の言うとおり温泉が湧いていて〝子宝に恵まれる〟との言い伝えがある。
とはいえ発祥も根拠も曖昧で風説の域を出ない。しかも湯が湧き出ているのは山奥のいわゆる秘境で、宿もあるにはあるが貴族が泊まるような立派なものではなくあくまで庶民向けらしい。
オルレアがここまで詳しく知っているのは、決して温泉を訪れようと調べた訳ではなく、領地の隣だからだった。
「はい」
オルレアは淡く微笑んで頷く。心の中では侯爵夫人が次に示す質問に、何と答えればいいかと考えながら。
「オルレア様は……その温泉へお行きになられたことは……?」
言葉が無意味に通りすぎていった。オルレアは笑みを崩せない。どんな返答をすれば自分に縋る侯爵夫人をこれ以上失望させないで済むか、必死に頭を働かせる。
(……行っていない、と正直に答えるのが一番だけれど。それだけでマーグレス侯爵夫人は納得していただける?温泉の効能はあくまで噂程度で信憑性はない、と伝えるべき?)
しかしオルレアは、侯爵夫人の藁をも掴む心境が痛いほどわかった。
『社交界の理想の夫婦』と呼ばれる裏でゼッタリング辺境伯夫妻同様に子宝に恵まれないマーグレス侯爵夫妻。裏で貴族たちの〝どちらが先に子を成すか〟〝どちらが先に離婚するか〟と揶揄や賭けの対象になっていたから。
(どうしよう……でも)
「マーグレス侯爵夫人。わたくしは、温泉は必要なかったのです」
オルレアはもう誰も偽りたくなかった。そして侯爵夫人にとって自分が力になれるのならば何もかも話してもいい、そう決意していた。
本来ならば先にウィリアムに打ち明けるべきだが、侯爵夫人に真摯に向き合いたかった。
「必要……なかった……?」
「はい。わたくしと夫であったゼッタリング辺境伯は――」
侯爵夫人の瞳が生気を無くす。顔を青ざめさせて、体をふらつかせた。
「マーグレス侯爵夫人!?」
「義姉上!」
横からウィリアムがすり抜けて侯爵夫人の体を支える。
(……わたしは答えを間違えてしまった?)
オルレアは激しい後悔に襲われながらも侯爵夫人の手をしっかりと握り、ハンカチで彼女の額に浮かぶ汗を拭く。
「フィーブ!!」
振り返ると大柄な男性が駆け寄ってくる。すぐにマーグレス侯爵だと気づいた。
「大丈夫か?」
「あな……た?」
侯爵夫人が虚ろに手を伸ばせば夫がしっかりと掴んで、抱き寄せる。
「オルレア嬢、妻が不作法を。申し訳ない」
「い、いいえ、違います!」
悪いのは自分のほうだ。もう少し波風を立てないような言い方をするべきだった。オルレアは悔いしかなくて項垂れる。
「オルレア様……本当に、ごめんなさい……」
侯爵に支えられながら彼女が苦しげに口元を押さえたので、咄嗟にハンカチを渡すと受け取ってもらえたので少しだけ胸をなで下ろす。
侯爵夫人に弱々しく微笑まれ、オルレアはやるせなくなった。
「……ありがとう、また、……今度」
夫人が言い終わるやいなや、侯爵が彼女を抱き上げてオルレアに一礼すると会場を横切って出入り口に向かっていく。
「……ウィリアム様、マーグレス侯爵夫人は――」
どこかお悪いのでしょうか?と聞きかけて口を噤む。
侯爵夫人が健康なのは周知の事実だった。だからこそ社交界で、いつ子ができるかが話題になり賭けの対象になり得たのだ。
「――多分、疲れによる人酔いでしょう。私が帝国へ行くことに誰よりも気を揉んでいましたから」
「そう、ですか」
オルレアをさりげなく庇うウィリアムの言葉に胸元を押さえる。同時に、侯爵夫人との会話を聞かれたのでは、という不安に襲われた。
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