第2話「ずれているのはどっち」
「入るね」
背後で、確かにそう言った。
振り向くより先に、体が固まった。息が浅くなる。耳の奥で、自分の鼓動だけがやけに大きく鳴っている。
“いる”。
さっきまで、いなかったはずの場所に。
ゆっくりと、首だけを動かす。
何もいない。
壁と薄暗い部屋と、閉じたカーテン。
それでも、皮膚の内側に触れてくる気配がある。空気の重さが……そこだけ違う。
振り向いたのに、まだ背中を見られている。
その矛盾に喉がひりつく。
逃げるようにドアを開けた。
廊下に出る、鍵を閉める手が、うまく噛み合わない。
カチャ……と乾いた音がやけに遠い。
エレベーターを待つ鏡面の扉に、自分が映る。
一瞬、視界がぶれた。
“自分が二人いる”。
そう思った瞬間、視界は元に戻る。
だが胸の奥に残るのは確かな違和感だ。
今、もう一人いた。
扉が開く。
乗り込む。
階数ボタンを押す指が、少し長い気がした。
「気のせいだ」
呟く。
その声が、ほんの少しだけ遅れて、耳に届いた。
朝、目が覚めても、違和感は消えなかった。
むしろ、“内側にある”。
身体の奥で、誰かが呼吸しているような、そんな気配。
手をかざす。
指を開く。
一本……一本……確かめる。
長い。
同じだ。
いや、さっきより短い。
見ている間に、確信が揺らぐ。
「……やめろ」
何に言っているのか分からないまま、手を下ろした。
スマホが震え、画面に見覚えのない通話履歴が並ぶ。
深夜2時17分。
発信18分。
相手は未登録。
胸の奥で嫌な音が鳴る。
履歴を開くと録音が残っている。
親指が、画面の上で止まる。
押したくない。
けれど押さなければならない気がする。
再生。
――ザザ……ッ
ノイズ。
水の中のような、こもった音。
やがて、自分の声。
「……そこ、暗いな」
言った覚えのない言い方。
声色が、わずかに他人だ。
間がある。
女の声が返る。
「うん」
湿っている。
近い。
距離の感覚がおかしい。
「でもね」
音が歪む。
「その方が、長くいられる」
指が勝手に停止を押した。
再生が途切れる。
息を吸う。
うまく入らない。
「……誰だよ」
呟いた直後――
「知ってるでしょ」
耳元で重なった。
振り向く。
誰もいない。
今のは、外からじゃない。
内側から……聞こえた。
会社へ向かう。
外の空気は驚くほど普通だ。
人も、車も、音も、いつも通り。
その“普通”が妙に薄い。
デスクに座る。
隣の同僚がこちらを見る。
「お前さ」
その一言で、背筋が冷える。
「昨日、大丈夫だったか?」
「……何が?」
同僚は眉をひそめる。
「覚えてねぇのかよ!電話してきただろ」
喉が乾く。
「……俺が?」
「ああ、ずっと変なこと言ってた」
「……何て?」
少しの間。
「もういいよって、ずっと繰り返してた」
耳鳴りがする。
「それだけ?」
「……誰かと話してる感じだった、お前じゃない声に返事してた」
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
――録音の中には確かに“いた”。
昼休み。
トイレの鏡の前に立つ。
水を出す。
顔を洗う。
頬を伝う水滴が、やけに冷たい。
顔を上げる。
鏡の中の自分が、目を合わせる。
一瞬“遅れて”瞬きをした。
「……は?」
一歩下がる。
もう一度見る。
今度は普通だ。
けれど、確かにズレた。
鏡の中の自分が、ほんのわずかに笑っている気がした。
どうしても気になって防犯カメラの映像を見せてもらう。
受付で頼み込み昨夜の時間帯を再生する。
モニターに映る自分の部屋の前。
深夜2時。
自分が立っている。
動かない。
ただ……そこにいる。
時間が進む。
5分、10分。
微動だにしない。
そのとき背後に、もう一人現れた。
自分と同じ背格好。
ぴったり重なる位置。
だが……動いているのは“後ろ”の方だけだ。
前にいる自分は、止まったまま。
後ろの“自分”が、ゆっくりと顔を上げる。
カメラの方を見る。
口元が歪む。
“笑った”。
「……これ、なんだよ」
隣の受付が不思議そうに画面を見る。
「え?普通に一人しかいませんよ」
もう一度モニターを見る。
そこには最初から最後まで“一人の自分”しか映っていない。
さっき見た“もう一人”が消えている。
「……今、二人……」
「ずっと一人ですけど」
言葉が理解出来ない。
頭の中で、何かが静かに崩れる。
帰宅する。
鍵を開ける。
ドアを閉める。
部屋は暗い。
電気のスイッチに手を伸ばす。
止まる。
――暗い方が、長くいられる。
あの声が、はっきりと蘇る。
手を下ろす。
暗いまま靴を脱ぐ。
奥へ進む。
床のきしむ音が、やけに遠い。
スマホを取り出す。
録音を、もう一度再生する。
――ザザ……ッ
ノイズ。
自分の声。
「……そこ、暗いな」
女の声。
「うん」
「でもね」
音が歪む。
「その方が、長くいられる」
ここまでは同じ。
その先。
初めて聞く部分が流れた。
「ねえ」
声が近い。
耳元に触れる距離。
「入っていい?」
短い沈黙。
自分の声が、はっきりと答える。
「もういいよ」
再生が途切れる。
その瞬間、背後でまったく同じ声が、重なった。
「入るね」
振り向く。
暗闇の中で“何かが、こちらに寄ってくる音”がした。




