第1話「声の置き場所」
最初に違和感を覚えたのは、音の“止まり方”だった。
電車に揺られながら直城はいつも通りイヤホンを耳に差し込んでいた。
流れているのは聞き慣れたプレイリストで、イントロが来れば次の展開まで頭の中で再生できるくらいには聞き込んでいる。
だからこそ気づいた。
……止まっている。
正確には曲が進んでいないのに、音だけが流れ続けている。
表示されている再生時間は2分14秒のまま微動だにしないのにサビの後の間奏が続いている。
ありえない。
画面を見て耳を疑って、それでも音は止まらない。
そのときだった。
曲の隙間に何かが混ざった。
ノイズじゃない。
はっきりとした……言葉。
「もういいよ」
女の声だった。
近くて耳元というより“内側”から響くような距離感。
思わずイヤホンを外す。
車内のざわめきが戻ってくる。
誰もこちらを見ていない。
さっきの声が、ここにいた誰かのものだったとは思えない。
もう一度、イヤホンを耳に戻す。
無音。
再生ボタンは押されているのに、音が出ない。
だが、数秒遅れて――
「もういいよ」
同じ声が、今度は左右の区別もなく頭の中に広がった。
反射的にイヤホンを引き抜く。
今度は確かに、外からは何も聞こえない。
なのに、残っている。
耳の奥に、さっきの声の“形”が。
まるで、鼓膜に貼り付いたみたい。
その日はそれ以上、何も起きなかった……少なくとも、直城はそう思おうとした。
仕事を終えて、いつも通り帰宅し、いつも通り靴を脱いで、いつも通り部屋に入った。
だが、いつも通りじゃないことが1つだけあった。
靴の向きが、逆だった。
つま先が外じゃなく、内側を向いている。
朝、そんな置き方をした記憶はない。
そもそも、自分は揃えて置くタイプだ。
なのに片方だけ、ほんの少しだけ角度がズレている。
たったそれだけの違いなのに、どうしても気になってしまう。
直そうとして手を伸ばして、やめた。
触れたら何かが変わる気がした。
何が変わるのかは分からないのに、直感だけが強く止めてきた。
だからそのままにして、リビングへ入る。
電気をつける。
明るくなる。
……それだけで、少し安心する。
だが、その安心はすぐに崩れる。
カーテンが揺れている。
窓は閉まっている。
鍵もかかっている。
それでも、ゆっくりと誰かが触れているみたいに、一定のリズムで揺れている。
風はない。
エアコンもつけていない。
なのに揺れている。
見ていると、揺れ方が変わった。
さっきまでは左右だったのに、今は前後。
まるで、“近づいてくる”みたいに。
視線を外す。
見続けてはいけない。
理由は分からないが、そう思った。
だから見ない見ないまま、ソファに座る。
テレビをつける。
音を出す。
何でもいいから、別の音で上書きしたかった。
だが、音量を上げても、どこか遠くで“あの声”が残っている気がした。
「もういいよ」
聞こえていないのに、聞こえている。
風呂に入る頃には、少し落ち着いていた。
湯気が立ち込める浴室は、逆に外界と切り離された感じがして、安心できる。
シャワーを出す。
水音が全てを覆い隠す。
考えなくていい。
何も聞こえない。
そう思った瞬間、混ざった。
「もういいよ」
はっきりと。
シャワーの向こう側から。
反射的に振り返る。
誰もいない。
当たり前だ。
自分しかいない。
分かっている。
分かっているのに、背中が冷える。
ゆっくりと鏡を見る。
曇ったガラスの向こうに、自分がいる。
安心する。
“自分がいる”。
それだけで、現実に繋ぎ止められる。
だが、次の瞬間それが崩れた。
鏡の中の自分の口が、遅れて動いた。
ほんの一拍遅れて。
自分は何も喋っていない。
なのに、鏡の中の自分は、確かに言った。
「もういいよ」
声は聞こえない。
でも、口の動きで分かる。
その言葉を、知っているから。
心臓が強く打つ。
目を逸らす。
もう一度見る勇気が出ない。
だが見なければならない気もする。
ゆっくりと視線を戻す。
……普通だ。
何もない。
自分がいるだけ。
さっきのは見間違いだ。
そう思い込もうとしたとき、排水口から音がした。
ゴボ……ゴボ、と。
水が逆流するような音。
しゃがみ込む。
覗く。
暗い。
何も見えない。
なのに、“何か”いる気がする。
目が合っている気がする。
見えていないのに、見られている。
その感覚だけが、はっきりとある。
思わず呟く。
「なに見てるの」
言った直後に。
「なに見てるの」
同じ声が返ってくる。
完全に同じ声。
自分の声。
だが、ほんの少しだけ、“楽しそうだった”。
その違いが、致命的に気持ち悪い。
その夜、眠ることはできなかった。
電気を消せない。
暗くしたら、何かが“動く”気がした。
だから天井を見続ける。
時計の音が響く。
カチ、カチ、カチ。
単調なリズム。
だが途中で気づく。
音が2つある。
カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ。
わずかにズレている。
同じ速度なのに、重なっていない。
ゆっくりと視線を横にずらす。
枕元のスマホ。
画面が勝手に点灯している。
触っていない。
なのに起動している。
録音アプリが開いている。
再生中。
流れているのは、自分の寝息。
規則的な呼吸音。
だが、そのすぐ隣に別の呼吸がある。
わずかにズレている、まるで二人いるみたいに。
そして、その間に声。
「もういいよ」
画面を見る。
録音時間は8時間23分。
再生位置は現在。
つまり、今この瞬間まで録れている。
だが、そんな録音をした覚えはない。
スマホは今、手元にある。
じゃあ、これはどこで録った?
誰が?
考えた瞬間、理解してしまう。
“ここだ”。
この部屋で、ずっと。
自分が気づかない間に。
息を止める。
音を立てたくない。
そのとき。
耳元で、はっきりと聞こえた。
「もういいよ」
すぐ隣から。
振り向けない。
振り向いたら、何かが確定する。
だから動けない。
だが、次の瞬間、スマホの音声が変わる。
寝息が止まる。
無音。
そして――
“自分の声”が再生される。
「もういいよ」
だが、それは今、言っていない。
なのに録音されている。
さらに続く。
「やっと静かになる」
知らない言葉。
言った覚えのない言葉。
なのに自分の声。
その直後、画面が切り替わる。
録音一覧。
ファイルが1つ増えている。
タイトルは自動生成。
日付は明日。
再生時間は0秒。
なのに、再生ボタンが点灯している。
押してはいけない。
そう思う。
だが、指が勝手に動く。
触れる。
再生。
ノイズ。
はっきりと。
「もういいよ」
今度は、直城の“すぐ後ろ”から、同じ声が重なった。




