最終話「もういいよ」
朝……目が覚めた。
静かだった。
昨日までの違和感が嘘みたいに消えている。
体は軽く呼吸も自然で頭の奥のざらつきもない。
「……なんだよ」
思わず声が漏れる。
自分の声だ。
ちゃんと、自分の声に聞こえる。
起き上がる。
部屋はいつも通りだ。
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。
眩しい。
それが少しだけ嬉しいと感じた。
洗面所へ向かう。
水を出す。
顔を洗う。
冷たい水が頬を伝う。
顔を上げる。
鏡の中の自分と目が合う。
ズレは、ない。
「……戻ったのか」
安堵が胸に広がる。
その時、視界の端に“何か”が映る。
鏡の右下。
曇りきっていない部分に指でなぞったような跡。
細い線が、いくつも重なっている。
まるで内側から必死に書いたような——
読める。
そこには……こう書かれていた。
「まだいる」
心臓が跳ねる。
反射的に鏡を拭く。
だが、文字は消えない。
水滴の上に浮いているんじゃない。
ガラスの“向こう側”にある。
その瞬間、記憶が蘇る。
最初に感じた違和感。
誰もいないはずの部屋で“気配”だけがあった夜。
音の遅れ。
視線のズレ。
あの時、思った。
——先に誰かいたんじゃないか。
喉が乾く。
「……最初から、かよ」
呟いた声が、わずかに遅れて返ってくる。
もう一度スマホを見る。
あの録音データ。
再生。
――ザザ……ッ
今度は、さらに奥まで続いている。
小さな声。
子供の声。
「ここ、つかっていい?」
少しの間。
別の声。
「いいよ、もういらないから」
その後。
今までなかった“続き”が流れる。
水音。
擦れる音。
そして……はっきりとした足音。
複数。
その中に聞き覚えのある声が混ざる。
——自分だ。
「最初から、誰もいない部屋なんてなかったんだな」
笑っている。
ぞっとするほど、軽い声で。
「前のやつ、まだ残ってるけどさ」
ノイズ。
女の声。
「気にしなければいいよ」
別の声。
低い声。
「どうせ、そのうち消える」
そして……最後に。
「ほら、お前も言えよ」
“自分の声”が促される。
少しの沈黙。
そして——
「もういいよ」
再生が止まる。
指が震える。
理解する。
自分は、“最初”じゃない。
“途中”ですらない。
何人も、何人も、何人も。
ここを使ってきた。
その“残り”の上に、立っていただけだ。
ゆっくりと顔を上げる。
鏡を見る。
そこにいるのは、自分だ。
だが、今度ははっきり分かる。
目の奥に、もう一つ“視線”がある。
自分が見ているのに、同時に“見られている”。
「俺は、誰だ」
問いかける。
鏡の中の自分が、一拍遅れて笑う。
「まだ、決まってない」
その笑い方は、自分じゃない。
次の瞬間、視界がぶれる。
記憶が流れ込む。
暗い場所。
狭い空間。
湿った空気。
外から声。
「もういいよ」
安心した“誰か”の感情。
それが自分の中に沈んでいく。
膝が崩れる。
床に倒れ込む。
意識が落ちる。
その瞬間、最後に見えた。
鏡の中の自分が、ゆっくりと手を振っている。
まるで交代の合図みたいに。
――暗転。
目を開ける。
暗い。
狭い。
動けない。
息が苦しい。
外から音。
足音。
水音。
呼吸。
そして……声。
「もういいよ」
それが、“今の自分の声”だと分かる。
外にいるのは“次の自分”。
ここにいるのは“前の自分”。
理解した瞬間、さらに気づく。
ここは一人分じゃない。
周りにいる。
触れないだけで重なっている。
息。
震え。
押し合う気配。
何人も、ここに“残ってる”。
その中の一つが耳元で囁く。
「お前も、消えないよ」
別の声。
「順番が来るだけ」
さらに奥から。
「また外に出たら——」
一斉に重なる。
「もういいよ、って言うんだよ」
喉が裂けるほど叫ぼうとする。
声にならない。
代わりに口が勝手に動く。
……ゆっくりと。
覚えたばかりの言葉をなぞるみたいに。
――ここ、つかっていい?
外で、少しだけ間があって。
懐かしい、自分の声が答える。
「もういいよ」
その瞬間、外の“自分”が笑った。
あの違和感のある笑い方で。




