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もういいよ  作者: ナオ


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3/3

最終話「もういいよ」

 朝……目が覚めた。

 静かだった。

 

 昨日までの違和感が嘘みたいに消えている。

 

 体は軽く呼吸も自然で頭の奥のざらつきもない。

 

「……なんだよ」

 

 思わず声が漏れる。

 自分の声だ。


 ちゃんと、自分の声に聞こえる。


 起き上がる。

 部屋はいつも通りだ。

 

 カーテンの隙間から光が差し込んでいる。

 眩しい。


 それが少しだけ嬉しいと感じた。


 洗面所へ向かう。

 水を出す。

 顔を洗う。

 冷たい水が頬を伝う。

 顔を上げる。

 鏡の中の自分と目が合う。

 

 ズレは、ない。

 

「……戻ったのか」

 

 安堵が胸に広がる。


 その時、視界の端に“何か”が映る。


 鏡の右下。

 曇りきっていない部分に指でなぞったような跡。


 細い線が、いくつも重なっている。


 まるで内側から必死に書いたような——


 読める。


 そこには……こう書かれていた。


 「まだいる」


 心臓が跳ねる。


 反射的に鏡を拭く。

 だが、文字は消えない。

 水滴の上に浮いているんじゃない。

 ガラスの“向こう側”にある。


 その瞬間、記憶が蘇る。


 最初に感じた違和感。

 誰もいないはずの部屋で“気配”だけがあった夜。

 音の遅れ。

 視線のズレ。


 あの時、思った。


 ——先に誰かいたんじゃないか。


 喉が乾く。


「……最初から、かよ」


 呟いた声が、わずかに遅れて返ってくる。


 もう一度スマホを見る。

 あの録音データ。


 再生。


 ――ザザ……ッ


 今度は、さらに奥まで続いている。


 小さな声。

 子供の声。

 

「ここ、つかっていい?」


 少しの間。

 別の声。

 

「いいよ、もういらないから」


 その後。


 今までなかった“続き”が流れる。


 水音。

 擦れる音。


 そして……はっきりとした足音。


 複数。


 その中に聞き覚えのある声が混ざる。


 ——自分だ。


「最初から、誰もいない部屋なんてなかったんだな」


 笑っている。


 ぞっとするほど、軽い声で。


「前のやつ、まだ残ってるけどさ」


 ノイズ。


 女の声。

「気にしなければいいよ」


 別の声。

 低い声。

 

「どうせ、そのうち消える」


 そして……最後に。


「ほら、お前も言えよ」


 “自分の声”が促される。


 少しの沈黙。


 そして——


「もういいよ」


 再生が止まる。


 指が震える。

 理解する。


 自分は、“最初”じゃない。

 “途中”ですらない。


 何人も、何人も、何人も。


 ここを使ってきた。


 その“残り”の上に、立っていただけだ。


 ゆっくりと顔を上げる。

 鏡を見る。

 そこにいるのは、自分だ。


 だが、今度ははっきり分かる。


 目の奥に、もう一つ“視線”がある。


 自分が見ているのに、同時に“見られている”。


「俺は、誰だ」


 問いかける。


 鏡の中の自分が、一拍遅れて笑う。


「まだ、決まってない」


 その笑い方は、自分じゃない。


 次の瞬間、視界がぶれる。


 記憶が流れ込む。


 暗い場所。

 狭い空間。

 湿った空気。


 外から声。


「もういいよ」


 安心した“誰か”の感情。


 それが自分の中に沈んでいく。


 膝が崩れる。

 床に倒れ込む。

 意識が落ちる。


 その瞬間、最後に見えた。


 鏡の中の自分が、ゆっくりと手を振っている。


 まるで交代の合図みたいに。


 ――暗転。


 目を開ける。

 暗い。

 狭い。

 動けない。


 息が苦しい。


 外から音。

 足音。

 水音。

 呼吸。


 そして……声。


「もういいよ」


 それが、“今の自分の声”だと分かる。


 外にいるのは“次の自分”。

 ここにいるのは“前の自分”。


 理解した瞬間、さらに気づく。


 ここは一人分じゃない。


 周りにいる。


 触れないだけで重なっている。


 息。

 震え。

 押し合う気配。


 何人も、ここに“残ってる”。


 その中の一つが耳元で囁く。


「お前も、消えないよ」


 別の声。


「順番が来るだけ」


 さらに奥から。


「また外に出たら——」


 一斉に重なる。


「もういいよ、って言うんだよ」


 喉が裂けるほど叫ぼうとする。


 声にならない。


 代わりに口が勝手に動く。


 ……ゆっくりと。


 覚えたばかりの言葉をなぞるみたいに。


 ――ここ、つかっていい?


 外で、少しだけ間があって。


 懐かしい、自分の声が答える。


「もういいよ」


 その瞬間、外の“自分”が笑った。


 あの違和感のある笑い方で。

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