14・2 ハインツの帰還
なにかの気配を感じて、エルザは目が覚めた。
ハインツは今日も帰って来ず、夫婦の広いベッドにひとり寝をしてる。自分以外には誰もいなはずだ。
月明かりしかない暗い寝室。だけれど確かに、だれかの視線を感じる。
いつもならハインツがいるほうに向けて横向きに寝ていたエルゼは、恐怖を感じながらもゆっくりと顔を動かした。
「――ハインツ殿下?」
「すまない、起こしてしまったか」
暗闇にぼんやりと見える顔はハインツのものに見えて。恐る恐る尋ねると、馴染みある低い声が返ってきた。
ばさりとシーツをよけて、起き上がるエルゼ。
「お帰りなさいませ! なかなかお戻りにならないから――」
胸の奥底から急激にこみ上げてきたなにかのせいでみなまで言えず、言葉が途切れてしまう。
エルゼの目から、涙がぽろりとこぼれた。
「ああ、すまない、エルゼ。心配をかけてしまったな」
ベッドに膝をつくと、ハインツはエルゼを抱き寄せ肩に顔をうずめた。
「予定が狂って……。本当にすまない」
「無事にお帰りになってよかったです……!」
エルゼもハインツの背に手を回して、ギュッと抱き着く。
ふたりはしばらくの間、しっかりと抱き合ったままみじろぎひとつしなかった。
けれどそのうちエルゼは違和感を抱く。
(……あら? なんだかハインツ殿下、様子がおかしいような)
普段なら、ちょっとうっとおしいくらいにキスの雨をふらせる。だというのに今はエルゼの肩に顔を押し当てたままで、言葉も発さない。
(そういえば服も外出着のままだわ)
エルゼの胸にまたも不安が湧き上がる。
「……ハインツ殿下。なにかお心を煩わせることがございましたか?」
エルゼが心配になって尋ねると、ハインツはびくりと身体を震わせた。
(ますますおかしいわ。いったい殿下になにが……)
「……少し、疲れてすぎてしまったようだ」
ハインツはようやく肩から離れると、エルゼに笑顔を見せた。
「心配をかけて本当にすまない。――これから父に報告に行く。エルゼはもう休んでくれ」
「これからですか!」
エルゼは目をみはり、思わず窓に視線を向けた。どう見ても、深夜だ。普通ならば報告に行くような時間ではない。
それだけ尋常ではない事態ということだ。
「大丈夫」と、ハインツはエルゼの額にキスをした。「父も私の顔を見ないと落ち着かないだろうから、そのための挨拶のようなものだ。私よりもずっと繊細なひとだからな安心させてあげないと」
「そう……ですか」
「本当に、エルゼは私を待たずに休むのだぞ」
ハイツはそう言うと、今度は唇を重ねた。そしてエルゼを寝かせてシーツをきちんとかけると、再度額にキスをして、「おやすみ」と寝室を出て行った。
(とてもではないけれど、疲れただけのようには見えなかったわ)
エルゼは役人から聞いた話を思い出す。
(もし本当に反乱の残党を討伐しに行っていたのなら。心理的な負担が大きかったのかもしれない。あんなに憔悴している殿下は初めてだもの。相当なことがあったはずよ)
ハインツはエルゼに笑顔を見せた。でもそれはいつものような生気溢れるものではなく、どこかつらそうに感じられる悲しげなものだった。
(でも私には打ち明けられないことなのね。機密なのか、それとも私を信用できないのか。でも――)
エルゼだって、ジーモンが迎えにきたことをハインツに伝えていなかった。
(私だって殿下に隠し事をしたわ。私が不満に思う筋合いなんてないわよね……)
心配やらなにやらで心がざわつき、結局エルゼは寝付くことができなかった。けれどハインツに寝るように言われた手前、起き上がることもできず、ベッドの中でひたすら寝返りを繰り返す。
そうして窓の外がようやく白み始めたころにうとうとし始めたのだが。
そのころにやっと戻ってきたハインツは、エルゼが眠っていると思ったのだろう、そっと彼女の頬にキスをした。
ぽたり、とエルゼの頬にしずくが落ちる。
(なに……?)
まどろみ中のエルゼは、うまく身体が動かない。不思議に思っていると、ハインツの指先がしずくを拭うのを感じた。
何が起きたのか、エルゼは非常に気になったもののようやく訪れた眠気には勝てず、そのまま深い眠りに落ちたのだった。
◇
翌朝、起床したての朝の光りの中で見るハインツは、あきらかにやつれていた。表情こそはいつもどおりの自信に満ち溢れたものに戻っていたものの、頬はこけて目は落ちくぼんでいる。ほんのわずかな変化だったけれど、毎日至近距離で彼の顔を何度も見ているエルゼは、見逃さなかった。
(殿下のこんな姿は、痛々しいわ。それに昨晩、私の頬に感じたのはきっと涙よね。いったいどうして私の寝顔を見ながら涙をながしたというの?)
口に出したい言葉は、色々とあった。けれどエルゼはすべてを呑み込む。
大切なことを話してくれないと嘆くよりも、もっと大事なことがある。この方を支えたい。
はっきりとそう考えたわけではなかったけれど、エルゼにとって今一番重要なのはハインツの苦しみが和らぐことだった。
白い夜着姿のまま、背伸びをして夫の頭に手を回し自分に引き寄せる。そして頬と頬を合わせると、よしよしと夫の後頭部を優しくなでた。ヴァルターにするように。
「エルゼ?」
「……ハインツ殿下の疲労が、少しでも解消しますように」
「エルゼ……!」
ハインツが強くエルゼを抱きしめる。
「君はなんて優しいんだ。愛しているよ、エルゼ」
ちゅ、ちゅとハインツはエルゼの額に頬に耳にとキスを繰り返す。
「疲労なんかではないと、気づいているのだろう? それなのに問い詰めもせず、私を案じてくれている」
「だって殿下があまりにもつらそうなのですもの」
ハインツが首を横に振った。
「君が元婚約者のことを黙っていたと知った私とは、天と地の差がある。あのころはまだ信用が足りなかったと頭ではわかっているのに、私は怒りと嫉妬でどうにかなりそうだった。そのせいで君を怖がらせてしまって……」
(え、表情を強張らせたのは、そんな理由だったの? てっきり私にがっかりしたのだと思ったのに)
ハインツの意外な告白にエルゼは驚いた。
そもそもハインツがジーモンなんかに嫉妬をするだなんて、微塵も考えたことがなかった。
なにしろ彼女はジーモンを嫌いだったし、世間から見てもジーモンは残念な男で、到底ハインツが気にかけるような存在ではないからだ。
「怖がってなどおりません。私は殿下の気分を害してしまったと思って、それが申し訳なくて……。ごめんなさい」
「謝る必要はない。君が優しくて義理堅い性格だとわかっている。私の器が小さいのだ」
「そんなことは――」
エルゼが言いかけたときだった。廊下に続く扉からノック音がした。朝の支度をするためにやってきた侍従や侍女だろう。
ハインツは特大のため息をつく。
「名残惜しいが、帰還が遅れたせいで仕事がたまっている」
「ご苦労様です。あまり無理はされないでくださいね」
ありがとう、と笑顔になるハインツ。それからすぐに真剣な表情に変わる。
「今夜、すべて君に話す。この二日間、なにをしていたか。それから――」
ハインツは言葉を切ると、エルゼの手を取り甲にキスをした。
「だから、待っていてくれ」
「わかりました」
エルゼは途切れた言葉についてはなにも尋ねず、笑顔で了承した。




